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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
6月26日(月)〜6月30日(金)今週のテーマは、「水無月鎌倉散歩」
6月の雨がいちばん似合う街、鎌倉をご紹介します。

6月26日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、鎌倉と藤沢を結ぶあのキュートな電車 「江ノ電」をご紹介します。

今回の鎌倉散歩の出発点は、東海道線の藤沢駅。ここから江ノ電に乗りまして、鎌倉方面を目指します。鉄道ファンならずとも、一度電車に乗ってみると、誰もがその魅力のとりこになってしまう「江ノ電」。江ノ島、鎌倉というリゾート地、観光地に出かけるというだけでも気分はウキウキしてくるのに、穏やかな波の打ち寄せる海岸線ギリギリを走ってみたり、民家の軒先スレスレを走ってみたり、また江ノ島と腰越の間は路面電車になってみたり。わずか10キロ、34分の乗車時間ですが、鉄道の楽しさを思い切り満喫できる、とても楽しい電車なんですね。

この江ノ電が誕生したのは、1902年(明治35年)と言いますから、今年で実に105年目を迎えるという、大変、由緒正しい路線でございます。東京の町中ならともかく、なんでこんな海っぱたの町に鉄道が敷かれたのか?

落語「大山詣り」でいうところの大山と申しますのは、神奈川県伊勢原、秦野、そして厚木、3つの市にまたがります標高1246mの山。こちらのお山は、古くから名高い霊山であり、山伏の修行の場としても知られていました。農民にとっては雨乞いの、また漁民にとっては大漁の神様。江戸時代になりますと、商売、そしてバクチに、大変御利益があるということになりまして、大山への参詣が手軽なレジャーとして親しまれておりました。この落語が生まれたのには、そんな背景があるんですね。

で、大山への参詣を終えた人々は、精進落としということになりまして、藤沢宿、そして江ノ島へと繰り出します。風光明媚な江ノ島ですが、もともとは大山への参詣客が帰り道に羽を伸ばすところ、当然のことながら遊郭も沢山。そんな大山帰り、江ノ島に遊びに行こうという人々の脚として生まれたのが「江ノ電」というわけです。開業当初は、大船からさらに東へと路線を延ばし、東京・大崎まで直結する計画もあったようですが、用地買収が難しかったことから実現しませんでした。鎌倉の中心部、そぼふる雨の中、電車特有の何となく焦げ臭いような香りが、旅の情緒を引き立てます。このあたりで電車を降りて、散歩を始めるといたしましょう。



6月27日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「稲村ヶ崎から長谷」をご紹介します。

藤沢から乗り込んだ江ノ電を、稲村ヶ崎で降りまして、海岸へと向かいます。唱歌「鎌倉」にもありますように、1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を滅ぼすために、武将、新田義貞が攻め込んでまいりました。歴史の流れからは、幕府の滅亡は避けがたいところでしたが、なんといってもここ鎌倉は天然の要害。もともと攻めにくいことからここに幕府を置いたわけですから、攻め落とすのは一苦労だったわけです。北側には険しい山が迫り、道は完全に封鎖され、そして海上にも兵を満載した舟が待ち構えています。いったいどうやって攻めたらいいのか、思い悩んだ新田義貞、苦しいときの神頼み。

「これは正義の戦いでございます。
 海の神様、竜神様。何卒、義貞の願いをお聞き届けくださり、潮を引かせてくださいますように…」

と、持参した黄金の太刀を、海中にドボーン! と投げ入れます。すると、不思議なことに潮はスルスルと引いて、兵を積んだ舟は一気に沖合いへと流されていきました。それ、今だ! と、義貞は大群を率いて鎌倉に突入。ひとたび守りが破られてしまうと、後は一気呵成、鎌倉の街は火の海に包まれてしまいます。もはや、これまで。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時以下、一族郎党は菩提寺である東勝寺に入り、懐かしい鎌倉の街が炎に包まれるのを眺めながら、全員、自害して果てたといいますが、その数、なんと870名。その時、どんな地獄絵図が展開されたのか、想像するだにオソロシイものがあります。
それから七百年近くの時を経て、現在の鎌倉海岸は、サーフィンのメッカ。実に平和なものであります。現在では「稲村ヶ崎」といえば、新田義貞よりも、サザンオールスターズの桑田佳祐監督作品「稲村ジェーン」の舞台として有名になっております。

稲村ヶ崎から江ノ電で二駅、長谷で電車を降りまして、五分ほど歩きますと、山の中腹に位置しておりますのが、有名な観音様で知られる「長谷寺」。こちらは鎌倉幕府よりずーっと古く、奈良時代、736年(天平8年)創建と伝えられております。この季節、山の斜面いっぱいにアジサイが咲き乱れ、有名な明月院に勝るとも劣らない人出で賑わいます。三浦半島を一望できる展望台で一服、お弁当を広げるのも楽しいですが、このあたり、ちょっと油断していると、トンビが飛んで来て、食べ物をさらわれてしまいますので、ご用心ください。



6月28日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、鎌倉を愛した文士 「大仏次郎と川端康成」をご紹介します。

昨日ご紹介したアジサイの名所、長谷寺から北へおよそ5分。

 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」

与謝野晶子にハンサムだと歌われた高徳院 阿弥陀如来像、通称・鎌倉大仏がそびえ立っております。関東大震災のころ、このあたりに住んでいた女子校教師、野尻清彦が小説家としてデビューを飾りました。その際、何かペンネームをつけようということになり、考えついたのが、大仏の近所に住んでいるから「大仏」、これを「おさらぎ」と読ませて、「大仏次郎」。「鞍馬天狗」シリーズで一世を風靡したベストセラー作家のペンネームは、こんな風にしてつけられたんですね。

鞍馬天狗は映画になってスクリーンでも大活躍。鞍馬天狗役者といえば、何といってもアラカン、嵐寛寿郎さんですが、数ある作品の中でも有名なのが、1951年(昭和26年)の「角兵衛獅子」、杉作少年を演じたのが若き日の美空ひばりさんでございます。「角兵衛獅子の歌」も、「杉作、日本の夜明けは近いぞ!」の名セリフと共に、大ヒットいたしました。

さて、鎌倉を愛した文士といえば、忘れることが出来ない方がもう一人。そう、日本人として初めてノーベル文学賞に輝いた、川端康成でございます。この方も、大仏様に程近い山の麓に暮らしていたことがあり、その時期に書かれた名作が「山の音」。1949年(昭和24年)から5年ほどかけて書き継がれた傑作長編小説ですが、ちょっと朗読してみましょう。信吾というのは、還暦を過ぎた主人公の名前です。

 「八月の十日前だが、虫が鳴いている。木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。
 そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。」

 「鎌倉のいわゆる谷(やと)の奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった」

 「遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭の中に聞こえるようでもあるので、
 信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。音はやんだ」

 「魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった」

…山の音、いったい、どんな音なんでしょうか。小説の中に「裏山の神社」として登場する、鎌倉で一番古い神社、甘縄神明神社に出かけて、テープレコーダーを回してみました。川端康成の時代から、およそ六十年。当時から比べて、あたりはすっかり開けています。もはや山の音も、絶え果ててしまったのかもしれません。



6月29日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、山越えのハイキング 「銭洗弁天から北鎌倉」をご紹介します。

かつての川端康成邸の裏山、甘縄神明神社を後に、次の目的地は「銭洗弁天」。うっそうとした山道を登って、トンネルをくぐると、明るい光に包まれた谷間に、かわいらしい神社が鎮座ましましていらっしゃいます。こちらが、名高い「銭洗弁天」。正式名称が「銭洗弁財天宇賀福神社(ぜにあらいべんざいてんうがふくじんじゃ)」と申しまして、洞窟に湧く霊水でお金を洗い、心を清めますと、お金が十倍、百倍にもなって帰ってくるという、ヒジョーにありがたい神社。我々も早速、遠足の小学生に混じって、なけなしのお金を心を込めて洗わせて頂きました。

夢枕に立った老人のお告げで、この湧き水を発見したのが、かの源頼朝だと伝えられておりますが、そんな伝説もなるほどと思える神秘的な空間です。境内の茶店で、ビールを飲みたいのをぐっとこらえて、ここからそぼ降る雨の中、北鎌倉へと向かいます。地図にはちゃんと道が書いてありますし、ほんの1キロほどの道中、これは楽勝かと思いきや、あにはからんや。途中、葛原岡(くずはらがおか)神社までは、道も舗装されておりますが、ここから先は完全な山道。足元はぬかるみますし、ところどころ断崖絶壁! 同じように気軽に歩き始めた観光客の皆さんが悲鳴を上げ、何人かは谷底へと転落して行きましたが、我々は手をこまねいて見ているしかありませんでした…というのは冗談ですが、とにかく大変な山道なのは確か。三十分ほど悪戦苦闘して、ようやく北鎌倉にたどり着きました。駅のすぐ脇にあるのが、「縁切寺」として名高い、東慶寺でございます。

江戸時代、離婚する権利が認められていたのは夫の側だけ。どんなに虐待されようとも、妻は夫が「離縁する」と言わない限り、黙って耐えるしかなかったのです。唯一の例外が、当時は尼寺だった、この東慶寺。女性は、ここに駆け込んで、三年間修行すれば、晴れて離縁が認められたのです。不条理な夫の虐待から逃れてきた大勢の若妻が暮らす尼寺。いえ、もちろん若妻ばかりではなかったでしょうが、ともかく、どんなドラマがあったのか、つい想像をたくましくしてしまいます。現在の東慶寺は、周辺のお寺と同様、四季折々の花の名所。咲き誇るハナショウブを眺めていると、懐かしいバンバンのヒット曲「縁切寺」が口をついて出てきました。



6月30日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「あじさい寺」こと 「明月院」をご紹介します。

縁切寺=東慶寺への参拝を終えて、横須賀線の線路を渡ります。すると、もう北鎌倉の駅の方から、雨を物ともせず、たくさんの観光客たちが列をなして歩いてくるのが見えます。人の群れに加わり、線路沿いの道を外れ、美しいせせらぎに沿って、陶芸のお店、土産物屋さん、いろいろな食べ物屋さんなどをひやかしながら歩いていくと、ほどなく正面に見えて参りますのが「明月院」。室町時代、このあたりには、関東でもっとも立派といわれた「禅興寺(ぜんこうじ)」というお寺がありまして、「明月院」はその「塔頭(たっちゅう)」、つまり、大きなお寺の片隅に設けられた小さなお寺だったのです。

ところが、時は流れて明治時代になると、その「禅興寺」は見る影もなく荒れ果て、やがて跡形もなく姿を消してしまいました。つまり、本店はつぶれちゃったけれど、独立採算だった支店の方が生き延びて、現在も栄えていると、まあ、こういうわけでございます。とはいうものの、この明月院が観光名所として、あたかも通勤電車のような混雑ぶりを見せるようになったのは、そんなに古い話ではございません。

境内は、ところ狭しと咲き誇るアジサイの見事さが口コミで伝えられて、やがて「あじさい寺」の異名をとるようになったのが1965年(昭和40年)ごろのことだと申しますから、評判になってから僅か40年ほど。そのアジサイにしてからが、戦後になってから地道に挿し木をして増やしてきたものなんだそうですが、それにいたしましても、3千株と言われるアジサイが、雨に美しく光っている風景には息を飲まされます。ここ明月院のアジサイは、青一色。ほとんどが「ヒメアジサイ」という日本古来の品種で、小さく控えめな花は「可憐」という言葉がぴったりです。最初は薄い青から、だんだん濃い青へと変わっていく、その移り変わりも見どころの一つ。できれば、時間を置いて、何度も訪ねてみたい…そう思わされる鎌倉名所です。
参拝を終えた善男善女の群れに混じって、北鎌倉駅のホームに立つと、また雨脚が強まって参ります。渡哲也さんの懐かしいヒット曲が、私の脳裏に浮かんでは消えていきました。



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