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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
5月22日(月)〜5月26日(金)今週のテーマは、「秩父路の初夏を行く」
東京から片道およそ2時間、埼玉の西に広がる風光明媚な山岳地帯、秩父路の初夏のスケッチをご紹介します。

5月22日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「長瀞ライン下り」をご紹介します。

関東でも指折りの、美しい渓谷の景色が楽しめる「長瀞」は、日本の「地質学」発祥の地と呼ばれています。1877年(明治10年)、東京大学に地質学教室が設けられ、その教授として招かれたのがドイツ人のナウマン博士。あの「ナウマン象」の名前の元になった地質学者です。博士は、翌1878年(明治11年)に長瀞を訪れ、その見事な風景に、「コレハスゴイ!世界デモ、コンナニスバラシイ眺メハ、ソウ見ラレルモノデハ、アリマセンネ!」とエキサイト。早速持参のハンマーを取り出して、そこら中の岩をカチカチカチと叩き始めました。

ナウマン先生は大喜びで長瀞の地質学調査を行いましたが、その後、東京からさほど遠くなく、交通の便にも恵まれていることも幸いして、数多くの学生や研究者が、この地を研究対象として選ぶようになったのです。
秩父鉄道・長瀞駅から歩いて5分ほどの荒川の両岸には、普段はあまりお目にかかれないような、奇妙な色や形のゴツゴツした岩が広がっています。これはすべて「変成岩」で、もともとは地球の奥深く、地下20kmから30kmというとてつもなく深い場所で作られた物が、せり上がってきたと考えられていて、普通なら目にすることのできない場所にある岩を観察できることから、長瀞は「地球の窓」とも呼ばれています。そんな面白い岩をたっぷり眺めながら、爽やかな初夏の風を楽しめる格好のレジャーが、名高い「長瀞ライン下り」です。

初夏の川風を頬に感じながらのライン下りは、正に爽快そのもの。向かって左には、幅80m、長さ500mに及ぶ広大な「岩畳」、そして右には、高さ100mの切り立った岩壁「秩父赤壁」の見事な眺めが広がり、まるで地球の内側にいるかのような気分を味わうことができるのです。
今ではすっかり、内陸部になっている秩父地方ですが、1500万年前はこのあたりまで海が迫って来ていて、秩父盆地は入り江になっていました。そのため、このあたりでは、かつて海に暮らしていた生き物たちの化石がしばしば発見されます。その代表が、荒川の岸辺で発掘された、体長2mほどの、カバに似た絶滅哺乳類「パレオパラドキシア」。長瀞駅にほど近い「埼玉県立自然の博物館」では、見事な骨格標本を見学することができます。



5月23日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「長瀞の天然氷」をご紹介します。

耳にするだけでも、何となく涼しくなってくる氷の音。でも、現在のように、冷凍技術が発達していなかった時代は、
夏場に氷を味わうなど、望むべくもありませんでした。ところが、今から1600年も昔の古代律令国家の時代、奈良の山奥に、既に氷を貯蔵する「氷室」があって、そこから氷を切り出して、天皇に献上していたという記録が残っているそうですから驚かされます。
また今から1000年ほど前の、かの清少納言「枕草子」にも、「甘いシロップをかけた削り氷が銀の器に入った涼しげな様子は、とっても素敵!」という意味の記述がありますし、紫式部「源氏物語」にも、夏場、宮中の女たちが氷室から氷を取り出して体に当て、涼を取ったり、源氏の君が若君たちに氷を振る舞う場面が描かれています。

さて、そんな平安時代から伝わるそのままの製法で、天然水を使って氷を作り、そのかき氷を食べさせてくれるお店が秩父にはあります。秩父鉄道・上長瀞駅近くの「阿佐美冷蔵」、なんと1891年(明治24年)創業というこちらのお店の阿佐美さんにお話を伺いました。
食用の天然氷は、ただ凍らせればできるという、そんな簡単なものではありません。水を凍らせる池は、もちろん屋外ですから、落ち葉などのゴミが入らないよう、細心の注意が必要。心をこめて、時間をかけて作り上げた氷だから、
味が全然違います。長瀞でかき氷として味わえるほか、東京方面にも出荷され、高級食材として、一流料理店などで使われているそうです。

氷の切り出しは年に一回、真冬に行われます。電動カッター、そしてノコギリで切り出される氷は、厚さが15cmという見事なもの。切れ目を入れた後、杵で叩いて切り離していきます。厳冬の静かな谷間に、コーン、コーンという杵の音が響く風景は、それは幻想的なものなんだそうです。切り離された氷の重さは、それでも一つおよそ70kg。今では
トラックで手早く運び出すことができますが、人力だけが頼りだった平安時代、貴族のお屋敷まで溶けないように運んでいく人々の苦労は、どれほどのものだったんでしょうか。



5月24日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「武甲山」をご紹介します。

秩父のシンボル、霊峰・武甲山。
1900年(明治33年)、陸軍省陸地測量部が計測した高さは、1336mでした。ところが、この武甲山は、山そのものが石灰岩で出来ているため、セメントなどの原料として大正時代から採掘が始まりました。やがて1970年代後半になると、頂上付近まで採掘が進み、測量の大切なポイントである「三角点」までもが削り取られることになったため、
少し離れた場所へと移動。以後、この移動した三角点の場所の1295mが、武甲山の標高として用いられるようになりました。2002年(平成14年)に、頂上付近での採掘作業が終わったため、国土地理院が再び測量。移動した三角点から、西に25mほど離れた場所で、1304mを計測し、以後これが武甲山の公式の高さとなっています。

およそ一世紀の間に、30m以上も削り取られてしまった山は、見る角度によっては、かなり無残な風景が広がります。山頂付近での作業こそ行われなくなりましたが、現在でも採掘は脈々と続けられています。
資源の乏しい日本ですが、石灰石は自給が可能な、数少ない鉱物の一つ。石灰はセメントの他、モルタルやコンクリートの原材料であり、また肥料としても広く用いられています。古くから壁の材料として知られ、日本では紀元前97年、戦の陣地を設ける時に使われた記録が残っているそうですから、その歴史の古さに驚かされます。

石灰石は、太古の昔、深い海の底で、サンゴやフズリナ、ウミユリなどの遺骸が堆積して作り上げられたもので、
やがてそれが隆起し、人間が利用するようになりました。現在、文明社会のエネルギー源として欠かせない石油も、埋蔵量のおよそ半分は石灰石の層の中にあると言われていますが、こちらももとはといえば生物の遺骸という説が
有力です。21世紀の快適な暮らしは、何億年も前に生きていた、いわば私たちのご先祖様にあたる生き物たちの
なきがらに支えられているというわけです。
武甲山の削り取られた山肌を眺めて、そのすべてがかつては生き物だったと思うと、何か厳粛な気持ちを覚えずに
いられません。そしてその大きな山をたった100年ほどの間に切り崩してしまった人間の力にも、驚かされます。

さて、武甲山全体が工場のようになってしまったのかといえば、さにあらず。昔ながらの美しい登山道もまだ残されており、ハイキングを楽しむ人々も目に付きます。時折響くダイナマイトが、ハイカーたちを一瞬ドキリとさせ、そして
しばらくすると、再び静寂が戻ってくるのです。



5月25日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「秩父事件の足跡」をご紹介します。

1884年(明治17年)10月31日。秩父郡風布(ふっぷ)村の金毘羅神社に150人余りの武装した農民が集結し、
吉田町の椋(むく)神社を目指して移動を始めました。これが世に名高い秩父事件の始まりで、翌日、椋神社に集まった農民はおよそ3000人。その多くは秩父の各地からやってきていましたが、中には遠く信州や上州からの参加者たちも含まれていました。
この人々こそ「秩父困民党」の面々。当時、秩父地方の主な産業は蚕を飼って生糸を作る「養蚕」でしたが、西南戦争後の政府のデフレ政策や、国際的な不況により、生糸の価格は暴落。また、米など農産物も軒並みタダ同然で取引されるようになり、零細な農民の暮らしは貧窮を極めました。やむなく高利貸しから借金をし、それが返せなくなって
夜逃げ、一家離散、さらには自殺者も数多く出るようになりました。農民たちは政府に請願を行い、高利貸しに返済期限の延期や借金の棒引きなどを求めましたが、聞き入れられません。折しも、自由党を中心とした「自由民権運動」が各地で盛り上がりを見せていた時期でもあり、困民党員たちは、一気に武装蜂起へと傾いていったのです。

困民党員たちは、11月1日深夜、小鹿野町に至り、高利貸を襲撃。さらに翌日、現在の秩父市の中心地にあたる
「大宮郷」に入り、既に無人となっていた群役所や警察署、裁判所などを襲い、また高利貸に突入しては残っていた書類などを燃やしていきました。しかし、この事態を政府が手をこまねいて見ている訳がありません。ただちに鎮圧のため警官隊、憲兵隊、そして陸軍が秩父へと向かいます。
翌11月3日に行われた銃撃戦で、参加者たちの多くは「こりゃダメだ」と戦う意欲を失い始めました。
そして11月4日、現在の本庄市・金屋(かなや)地区で行われた激しい戦いで、戦死者が続出するに至り、本隊は
ほぼ壊滅状態となったのです。それでも戦いを続けようとする者たちは体勢を立て直し、上州から信州へと転戦しましたが、11月9日、八ヶ岳山麓での戦いを最後に組織的な抵抗は終わりました。逮捕された党員たちは激しい拷問を受け、処罰された者は実に4000人。首謀者とされた7人は翌年、死刑を執行されました。

秩父市の中心部にある秩父神社は、大宮郷に入った党員たちが、中心部を占領したあと集結した場所で、隣には、
12月に行われる有名な「秩父夜祭り」を紹介する「秩父まつり会館」があります。困民党員たちも、平和な時代に
楽しんだに違いないお囃子の音を、ここでは一年中、楽しむことができます。



5月26日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「秩父三十四か所札所巡り」をご紹介します。

爽やかな初夏の風を頬に感じながら歩く、5月の秩父。そこかしこに咲き乱れるレンゲの花や、眩しいほどに緑濃い山々が気分をリフレッシュしてくれます。今から200年ほど昔、江戸の人々にとっても、秩父路を歩くのは格好なレジャーだったようで、秩父三十四か所の霊場巡りは大変な人気でした。
霊場巡りで有名なのは、四国八十八か所や、近畿地方を回る西国三十三か所などがありますが、江戸から出かけていくのは一苦労です。その点、秩父は江戸に比較的近く、三十四か所を全部回っても4〜5日で江戸に戻れます。
また、極楽浄土は西の方にあるのは皆様ご存じの通り。秩父は、江戸からちょうど西の方角に当たることからも、
人気の霊場だったようです。

現在の一番札所は、妙音寺(みょうおんじ)、またの名「四萬部寺(しまぶじ)」。現在の、といいましたのは、江戸時代以前は、札所の順番が違っていて、このお寺は二十四番だったからです。それが、なぜ、いきなり一番に昇格したかといいますと、江戸から通常のルートを通って秩父に来た場合、最初にこのお寺の前を通ることになるからです。
京都でいえば、駅前の東寺みたいなものです。短期な江戸っ子たちは「おう、ここも札所だ、ちょっとお参りして行こうじゃねえか。お江戸から来て最初にある寺だ、ここが一番に決まってらあ。え?何?二十四番?ここに来るまでよそを二十三か所も回れってえの?冗談じゃねえ、そんなまどろっこしいことしてられるか」…というやり取りがあったのかどうか、わかりませんが、江戸からの参拝客が、回りやすいように、それまでの順番を変えてしまったというわけです。江戸時代の人々も、観光客を出来るだけ呼び込もうと、一生懸命、営業努力をしていたのです。

この一番札所の妙音寺を出てから、続いて、真福(しんぷく)寺、常泉(じょうせん)寺、金昌(きんしょう)寺、長興(ちょうこう)寺、ト雲(ぼくうん)寺、法長(ほうちょう)寺、西善(さいぜん)寺、明智(あけち)寺、大慈(だいじ)寺、常楽(じょうらく)寺、野坂(のさか)寺、慈眼(じげん)寺、今宮坊(いまみやぼう)、少林(しょうりん)寺、西光(さいこう)寺、定林(じょうりん)寺、神門(ごうど)寺、龍石(りゅうせき)寺、岩之上堂(いわのうえどう)、観音寺、童子堂(どうじどう)、音楽(おんがく)寺、法泉(ほうせん)寺、久昌(きゅうしょう)寺、円融(えんゆう)寺、大淵(だいえん)寺、橋立堂(はしたてどう)、長泉院(ちょうせんいん)、法雲(ほううん)寺、観音院、法性(ほうしょう)寺、菊水寺、水潜(すいせん)寺…と、
一気に回ると、かなり疲れますから、やはり江戸時代同様、4、5日かけてのんびり回ることをお勧めします。

歩き疲れたら、鉄道に乗ることができるのも近代社会に生きる我々ならではのメリット。秩父を横断する秩父鉄道は、札所巡りにもとても便利で、3月〜12月までは、休日を中心に、蒸気機関車C58が牽引する列車も運行されます。このSL列車「パレオエクスプレス」は、長瀞で発掘された謎の哺乳類の化石「パレオパラドキシア」にちなんで名付けられました。初夏の休日、SLの勇姿を楽しみながらの霊場巡り、これもまた楽しそうですね!



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