|
|
|
3月20日(月)〜3月24日(金)今週のテーマは、「幻の浅草オペラ」 大正時代に一世を風靡、日本に最初のオペラブームをもたらし、そして忽然と消えた「浅草オペラ」の 足跡を辿ります。
3月20日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「藤原義江」ご紹介します。
戦前の東京を代表する盛り場といえば、なんといっても浅草です。渥美清、コント55号、ビートたけしなど、名だたる喜劇人を輩出した街として有名ですが、大正時代には、浅草を舞台に花開いた芸術「オペラ」があり、全盛期の大正7、8年ごろには、六区興行街のそこかしこからオペラの歌声が聞こえてきたと言います。
この浅草オペラからは、その後の日本の芸術を担う、数多くのスターが生まれています。
例えば藤原義江は、後に「我らのテナー」と呼ばれ、現在も日本のオペラ界で重要な位置を占める「藤原歌劇団」を創設した人物ですが、当時は「戸山英二郎(とやま・えいじろう)」という芸名で浅草の舞台を踏んでいました。後にロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、パリのオペラコミック座など、名だたる歌劇場に出演し、「東洋のバレンチノ」として大喝采を受けることになる藤原さんですが、その出発点は意外にも新国劇でした。スコットランド人の外交官と、下関の芸者の間に生まれ、数奇な少年時代を送ってきた藤原さんは、19才のとき新国劇に入り、座長の沢正(さわしょう)=沢田正二郎に目をかけられ、「戸山英二郎」という芸名を与えられます。ところが、この戸山英二郎青年は、ある日何気なく入った劇場で聞いた、浅草オペラのスター・田谷力三(たや・りきぞう)の美声に魅せられ、「新国劇も今宵限り」と、何も言わず抜け出してしまい、オペラ歌手の道を歩き始めました。
現在は、クラシックの歌手になるには、子供の頃から高いお金を払ってレッスンに励み、音楽大学に入って…と、それは大変な道のりですが、当時はいいかげんなもので、浅草の舞台に上がり始めの頃は、もちろん楽譜も読めません。後に結婚することになる女性歌手に、口移しで歌を教えてもらったり、ひどい時には舞台の上では口パク、袖で彼女が代わりに歌ったりしたこともあったそうですが、もともと才能に恵まれていたのでしょう。なんと2年後にはヨーロッパに渡り、大喝采を受けてしまうのですから、たいしたものです。日本に戻り、日比谷の野音に出演したときは、塀の上や回りの木の上にまで観客が座り、それは大変な騒ぎだったと伝えられています。
昭和の初め、医学博士の夫人だった女性と恋に落ち結婚するなど、当時としては型破りの人生を送った藤原さん。「からたちの花が咲いたよ」を歌い始めると、いつのまにかそれが「この道」に変わってしまうなど、数々の逸話を残し、1976年(昭和51年)、77年の生涯を終えました。
3月21日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
3月22日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「浅草オペラの歴史」をご紹介します。
浅草オペラの歴史を辿ると、1911年(明治44年)に開業した、日本で最初のヨーロッパ風の本格的な劇場、帝国劇場に行きあたります。ここには日本で初めてオーケストラ・ボックスが設けられ、専属の管弦楽団が演奏に当たったほか、「歌劇部」が設けられ、オペラ歌手の養成に乗り出しました。そして大正に入ると、イタリア人振付師のローシーと契約し、後に浅草で活躍する多くの歌手を育てることになったのです。
ローシーは歌手ではありませんでしたが、ヨーロッパの数多くの歌劇場でダンサー、振付師として活躍し、舞台全般に詳しかったため、この役割を担うことになりました。最初はダンサーとして帝劇に出演し、この時、一緒に来日したリーヴェ夫人も舞台に上がりましたが、話題になったのは芸術性よりも、そのタイツ姿でした。当時の記事を眺めてみますと、「外人の女優は肉じゅばんも何もなく、ただうすものだけ。踊るたびに体のすべてが何処の隠す所もなくあらわれる」「女優あり、メリヤスあり、股広げあり」と、実に興味本位な文章が並んでいます。現在ではバレエでもモダンダンスでも、ダンサーの体の線がくっきり現れるのは見慣れた姿ですが、当時は非常に刺激が強かったのでしょう。
ローシーに育てられた最大のスターが、「恋はやさし野辺の花よ」を歌っている田谷力三さんです。帝劇では大正5年までに、あまりに経費がかかる割に観客もほとんど動員できないオペラに見切りをつけ、歌劇部を解散してしまいますが、ローシーは教え子たちに懇願され、自費で赤坂にオペラ専門劇場「ローヤル館」をオープンします。田谷さんは、このローヤル館時代にローシーに認められ、オペラ歌手としての道を歩き始めました。ローシーは、最初にこの美声を耳にしたとき、「ニッポン・イチバン・テノール!」と叫び、涙を流して喜んだそうです。
赤坂、紀尾井町という、現在のホテル「ニューオータニ」の近くにあったこのローヤル館は、屋上にはきらびやかなネオンが取りつけられ、1916年(大正5年)のオープニングの日には、各国の外交官が招かれ、それは絢爛豪華だったそうですが、賑やかだったのは初めのうちだけでした。やがてあまりの不入りに、給料や経費をまかないきれなくなり、1918年(大正7年)の3月に、ローシー夫妻は夜逃げ同然に日本を離れます。日比谷の帝劇、赤坂のローヤル館と失敗を重ね、やはり日本では根づかないのかと思われたオペラですが、これが浅草に移って花開くのですから、わからないものです。
3月23日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「花開く浅草オペラ」をご紹介します。
オーケストラに歌手、きらびやかな舞台装置と、あまりにお金がかかる割には客が入らず、日比谷の帝劇、赤坂のローヤル館と相次いでその上演の場を失った日本のオペラですが、もはやこれまでか…と思われたところ、意外なところからその人気に火がつきました。
それは東京を代表する芸能の街、浅草です。日比谷や赤坂でお客さんが入らなかった原因は、何といっても入場料の高さでした。たとえばローヤル館の入場料は、ボックス席は一人4円。当時、もりそば一枚が5銭という時代ですから、現在のお金で考えて、一枚を500円と考えてみますと、4万円相当と、これでは庶民には手が出ません。これが浅草にやってくると、一階の普通席が十銭、二階の特別席でも二十銭と、非常にお手軽でした。
浅草っ子は新しモノ好きですから、「オペラってのが面白いらしいね」ということになると、火がつくのも早かったのです。このごろでは、オペラといいますと、モーツァルトですとか、ワーグナーですとか、大層芸術的なものを思い浮かべる方が多いかと思いますが、当時演じられたのは、現在で言うオペレッタですとか、あるいはミュージカルに近いバラエティ・ショウとお考えいただければわかりやすいかと思います。それでも、中には本格的なオペラもあり、皆さんよくご存じの「闘牛士の歌」のカルメンなどは当時も人気の演目で、自転車に乗った小僧さんたちまでが、この闘牛士の歌のメロディを口ずさんでいたそうですから、当時のオペラブームの物凄さがおわかりいただけるでしょう。
もっとも、浅草オペラに熱中したのは、早稲田や慶應などの学生さんが中心だったようです。当時、外国人女性がごく普通にステージで踊りを披露しただけでも、そのタイツ姿は当時のウブな観客にとって、ものすごい刺激でした。ごく普通の娘たちが、肌もあらわな衣装で、舞台の上で歌い踊るというのは、学生さんたちにとって、とてつもない興奮を与えてくれるものだったようです。
白昼から学校をサボって劇場にかけつけ、ひいきの女性歌手の名前を呼んでは応援合戦を繰り広げたと伝えられています。こうした学生さんたちは、オペラのゴロツキ=「ペラゴロ」と呼ばれたそうですが、このペラゴロの中には、サトウハチロー、川端康成、今東光、谷崎潤一郎といったそうそうたるメンバーが入っていたそうですから、なかなかあなどれません。後のノーベル賞作家、川端康成は、当時のスター、河井澄子(かわい・すみこ)について「やっぱり河井澄子は美しい。あやしげな幻の、病的の世界に私を導かずにおかない」と書き残しています。
3月24日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「榎本健一」をご紹介します。
大正の半ばに花開いた日本独特のオペラ、浅草オペラは、ペラゴロと呼ばれる熱狂的なファンを生み出し、大ブームを巻き起こしましたが、その終焉は意外な形で訪れました。
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、マグニチュード7・9の巨大地震、かの有名な「関東大震災」が帝都東京を襲いました。浅草の興行街もすべて焼け落ち、名物の高層建築、十二階はポッキリと折れ、花やしきからはゾウが逃げ出して、それは大変な騒ぎでした。たとえば落語でしたら、座布団一枚あれば演じることができますが、オペラはそうはいきません。楽器に衣装、大道具に小道具。そして一番大切な「楽譜」がすべて焼けてしまっては、上演は不可能です。もちろん、大震災の後も歌劇団は再結成され、そこかしこで公演は行なわれるのですが、ブームはしぼんでしまい、全盛期の輝きを取り戻すことはついにありませんでした。
そして、この大震災は、歌劇のコーラスボーイだった一人の青年の運命を大きく変えることにもなりました。
榎本健一、通称エノケンは、ご存じ日本の喜劇王です。麻布のお煎餅屋さんに生まれたエノケン少年ですが、高等小学校を卒業すると放蕩三昧の日々を送っていました。震災の前の年、大正11年に浅草オペラのスター、柳田貞一(やなぎだ・ていいち)に弟子入りし、初舞台は「猿蟹合戦」のその他大勢の猿の役で、猿蟹入り乱れての大立ち回りのクライマックスの場面で、ただ一人ご飯の鉢を抱えてはこぼれ落ちた飯粒を拾って、満場の大爆笑を誘ったそうです。走る車の右のドアから出て、後ろを回ってもう一度左から乗り込んだという敏捷さは当時から光っており、将来を嘱望されていました。
さあ、これから本格的に売り出すぞ…というところで、かの関東大震災が起こり、一座は解散ということになり、失意のエノケン青年でしたが、持ち前のセンスを生かして喜劇に転向し、後に「喜劇王」とまで称されることになるわけです。しかし、もし震災がなければ、エノケンさんは歌手の道を歩んでいたはずで、少年時代にバイオリンで身に付けた音感は超一流、どんな歌でも楽譜を見ながらつま弾いてすぐに覚えてしまい、オペラ仕込みの正確な音程を自己流に崩しながら歌うその技術は誰にもマネできませんでした。何よりも歌詞がはっきりと聞き取れるのがその一流の証拠、日本のオペラがダメなのは、歌詞が何がなんだかわからないからで、もしエノケンがオペラ一筋に歩んでいたら、その後の音楽の世界は大きく変わっていた可能性がある…という指摘をする専門家もいます。
|
|
|
|