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3月13日(月)〜3月17日(金)今週のテーマは、「東京 橋めぐり」 江戸・東京の歴史と共に生きてきた橋をご紹介します。
3月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「一ツ橋(ひとつばし)」をご紹介します。
徳川家康が江戸に移ってきたのは、1590年(天正18年)のことで、江戸幕府を開く10年以上も前のこと、すべてが質素だったそうです。内濠川(うちぼりがわ。別名日本橋川)には、丸太が一本わたしてあったそうで、丸太が立派な橋に変わっても、一本橋が橋の名として残り、やがて地名になったといわれています。
8代将軍吉宗の時代、御三家に次ぐ格式の御三卿(ごさんきょう)が定められ、10万石の格式で、将軍に子がなく、御三家にも該当者がいない場合には、御三卿から次の将軍を選ぶことになっていました。このあたりに屋敷を持ったのが、御三卿の一つ、一橋家でした。一橋家の屋敷は驚くほど広く、現在の丸紅本社、気象庁、東京消防庁、それに、大手町合同庁舎が全部含まれる広さでした。この一橋家からは、二人の将軍が誕生していて、一人は11代将軍の家斎(いえなり)、そしてもう一人が、最後の将軍、15代慶喜(よしのぶ)です。
さて、明治維新後、一ツ橋地区には、学校や出版社ができ、文教地区として発展した神田に近いことから、大きく変わっていったのです。現在の一橋大学も、現在の如水会館のあたりにありました。
丸木橋から始まった「一ツ橋」ですが、現在の橋はコンクリート製で、1925年(大正14年)に完成しました。大学や美術館があり、皇居一周のジョギングを楽しむ人の姿も見られます。桜の名所、千鳥が淵や靖国神社ほど多くはありませんが、一ツ橋あたりならゆっくりと桜見物を楽しむことが出来る、花見の穴場なのです。
文化の香りが漂う街、一ツ橋の最寄り駅は、東京メトロ東西線の竹橋駅、都営三田線の神保町駅です。
3月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、今は見ることが出来ない「数奇屋橋」をご紹介します。
織田信長の弟で、茶人として知られた織田有楽斎(おだ・うらくさい)の屋敷があり、屋敷の中に数寄屋造りの茶室があったため「数寄屋橋」と名付けられたと言われています。江戸城にたくさんあった城門のひとつで、門の内側に南町奉行所がありました。明治・大正・昭和と進むと、銀座が東京の繁華街の中心になり、数寄屋橋は「銀座の入り口」として人通りが増えてきました。
1929年(昭和4年)、石造りの数寄屋橋が完成し、外堀に架かった全長およそ40メートルの橋は、ラジオドラマ「君の名は」によって、全国的に有名になりました。放送時間になると全国の女湯がカラになったといわれた、伝説のラジオドラマ「君の名は」ですが、春樹と真知子のすれ違いの連続…という内容がうけ、1952年(昭和27年)から放送され大ヒットしました。続いて映画化されると、またまた大ヒット。ちなみに、この時春樹を演じたのは、中井貴一のお父さん、佐田啓二、ヒロインの真知子を演じたのは岸恵子でした。この二人の恋の舞台になったのが、数寄屋橋だったのです。
しかし、この橋は、東京でオリンピックが開かれることになり、外堀を埋め立てて、商業施設と高速道路を作ることになり、姿を消す運命となりました。1958年(昭和33年)3月、数寄屋橋は撤去されました。
橋がなくなってから間もなく50年ですが、数寄屋橋界隈の様子もずいぶん変わりました。現在、数寄屋橋があった場所に記念碑が残されており、橋の石材を使った記念碑には、あの名作「君の名は」の作者・菊田一夫が書いた
数寄屋橋 此処に ありき
…の文字が記されています。
数寄屋橋の最寄り駅は、東京メトロ丸の内線と日比谷線の銀座駅です。
3月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、江戸情緒の残る「柳橋(やなぎばし)」をご紹介します。
都心を流れてきた神田川が隅田川に合流する手前、一番下流に架かっているのが、柳橋です。この橋も震災の復興事業として作られ、完成したのは1929年(昭和4年)で、長さおよそ38メートルの小さな橋なのですが、緑色のこの橋でぜひご覧いただきたいのが、欄干の飾りです。かんざしで、花柳界として知られた柳橋ならではの工夫といえます。
ここに初めて橋が架けられたのは、1698年(元禄11年)のことで、あの忠臣蔵の発端、松の廊下の事件の3年前のことでした。橋の名の由来は、ここが柳原堤の端に位置していたため…とも、柳が植えてあったからとも言われています。江戸時代の後半、柳橋界隈には多くの船宿、料亭が立ち並び、繁盛しており、花火見物や花見の舟遊び、そして吉原への客を運ぶ船の出入りで大変な忙しさだったそうです。
明治時代に入っても、相変らずの賑わいで、花柳界としても新興の新橋と人気を二分していました。新橋が明治新政府の役人をお得意にしていたのに対し、柳橋は江戸っ子が愛用していて、日本橋の商人、実業家、兜町の人々も加わって活気に満ちていました。江戸情緒を残した柳橋の風景は、画家や作家たちの格好の題材となり、多くの作品が残されています。正岡子規も、こんな一句を残しています。
春の夜や 女見返る 柳橋
現在の柳橋では、橋の上から神田川の上流を見てみますと、たくさんの屋形船や釣り船が見えますが、江戸の昔もこんな風景だったのかも知れません。橋のたもとに、戦前から営業している佃煮店・小松屋があります。4代目の秋元治(あきもと・おさむ)さんに、柳橋のお話を伺いました。新鮮な材料を使って、毎日、時間をかけて作られています。3月には限定の「かきの佃煮」があるそうです。柳橋界隈には、伝統のある商店や、伝統のある船宿も残っていますので、食べ歩き派にも、見て歩き派にも、ぜひお薦めしたい街です。
3月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「常磐橋(ときわばし)」をご紹介します。
千代田区大手町の日本橋川沿いに、小さな公園・常盤橋公園がありますが、ここに架かっているのが、都内最古の石造の橋、常磐橋です。初めて橋が架けられたのは、400年以上前のことで、江戸幕府が出来る前のことでした。江戸時代、ここには城を守るための門、常盤橋門がありましたが、明治維新の後に取り壊されました。そして、1877年(明治10年)に架け替えられたのが、現在残っている橋です。明治10年といえば、西南戦争があった年でもあります。
さて、この橋は最初の西洋式石橋といわれていますが、よ〜く見ると、欄干には日本的な装飾が取り入れられているのです。庭の石灯籠のイメージでしょうか。和と洋を巧みに調和させて作られていて、装飾の部分は大理石で、欄干は鉄製で、当時の職人さんの高い技術が感じられます。この橋は現在は歩行者専用になっています。ちゃんと車道と歩道に分かれていて、きっと明治時代には橋を渡ったところにある当時最大の繁華街・日本橋に向かう政府の高官を乗せた馬車も通ったことでしょう。
現在、常盤橋公園近くには3本の橋が並んでいるのですが、真ん中にあるのが明治10年に出来た都内最古の石橋です。当時の人々は縁起をかついだのでしょう、常盤の「盤」という字が、古い橋では「磐」になっていて、皿はこわれやすいので、敢えて、丈夫な「石」にしたそうです。
橋の両側には立派な石垣が残っているのですが、これは明治維新後に取り壊された常盤橋門の石垣の一部で、現在は「常盤橋門跡」として整備され、江戸城を守る重要な門だった昔をしのぶことが出来ます。このあたりは都心とは思えない静かな一画で、古い建物と橋が調和して、レトロな雰囲気を作り上げています。
常磐橋の最寄り駅は、東京メトロ銀座線と半蔵門線の三越前駅です。
3月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「聖橋(ひじりばし)」をご紹介します。
東京の代表的な学生街、神田ですが、JR御茶ノ水駅付近の神田川の眺めは、都心とは思えません。四季おりおりに花や生い茂った緑を楽しめますが、その眺めに優雅なアーチの聖橋は欠かせません。実は、御茶ノ水あたりの川は、人工で、江戸時代のはじめ、本郷台地を切り開いて川を通したのですが、既に江戸時代に「渓谷」と呼ばれ、見物客が押し寄せるほどの観光スポットだったそうです。
聖橋の完成は、1927年(昭和2年)、関東大震災の復興事業のひとつとして実現し、来年は、80周年にあたります。橋の全長は、およそ93メートルと、決して大きな橋ではありません。橋の名前の由来は洒落ていて、橋の北側にあるのが、徳川幕府の学問所・湯島聖堂、そして、南側にあるのが、通称ニコライ堂、正式名をハリストス復活大聖堂といいます。ふたつの聖堂の間にある橋…ということから「ひじりばし」と名付けたそうです。設計者は、大正時代から昭和の後半まで活躍した山田守(やまだ・まもる)で、九段の日本武道館や、京都駅前にある京都タワービルなどの作品で知られています。
曲線の美しい聖橋を眺めるのに絶好なのが、少し上流にかかっている御茶ノ水橋です。JRや地下鉄の電車が走り、神田川がゆっくりと流れていくので、写真を撮ったり、スケッチをする人も多く見られます。学生時代にここから聖橋を眺めた経験をお持ちの方も多いことでしょう。夜にはライトアップされ、控えめな照明ですが、橋の美しさは十分に味わえます。
聖橋の最寄り駅は、JR御茶ノ水駅、東京メトロ千代田線・新御茶ノ水駅、丸の内線・御茶ノ水駅です。
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