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3月6日(月)〜3月10日(金)今週のテーマは、「失われた楽園を求めて」 かつて都内各地にあった遊郭の跡をご紹介します。
3月6日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、およそ400年前にオープンした、江戸の一大アミューズメント・センター「吉原」をご紹介します。
名人、八代目・桂文楽師匠の十八番「明烏」のストーリーをざっとご紹介しましょう。
あまりにも堅く、融通のきかない息子(若旦那)を心配した父親(大旦那)が、町内の遊び人に頼んで、息子を吉原に連れていってもらう。騙されたと気づいた息子、最初はイヤだイヤだと泣いていたが、逆に花魁に惚れられ、寝る間も惜しんで真心サービスを受けたおかげで、一か所を除いてすっかり柔らかくなってしまい、今度は帰りたがらなくなる
…という、バカバカしいお話です。まあ、こんなお話にリアリティを持たせるほど、江戸時代の吉原の花魁というものは、物凄い腕利きのプロフェッショナルだったということなのでしょう。
吉原が誕生したのは、1617年(元和3年)で、遊郭を経営していた庄司甚右衛門という方が、幕府に対し、オフィシャルな形での遊郭設置を認めて欲しいという請願を出し、それが認められました。当時の江戸は、およそ人口が100万人、そのうち6割から7割が男性でした。参勤交代で国元から単身赴任のお侍さんやら、関西のお店の江戸支店に単身赴任の商人やら、地方から江戸に出てきた職人さんやら、とにかく男性の数が圧倒的に多い。そうした男達の欲望を適当に処理するためにも、公認の遊郭を作りましょうということになったわけです。
「吉原」は、もとは現在の日本橋近くにありましたが、江戸城に近すぎ、風紀が乱れるのでよくない…というお達しで、現在の浅草の北側に移転させられることになったわけです。これが1656年(明暦2年)で、今年で吉原移転350周年になります。
吉原で愛された音楽「新内」で有名なのが「見返り柳」です。一晩たっぷりと遊んだ客が、後ろ髪を引かれる思いで、決まってこのあたりから遊郭を振り返ったという故事から名づけられたそうです。この吉原近くに住んだ、5千円札でおなじみの女性作家・樋口一葉も、名作「たけくらべ」の中で、この見返り柳を描写しています。
「…廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に
燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、
明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひ…」
格調高い名文です。現在の見返り柳は、江戸の昔から数えて、なんと6代目にあたるそうです。
3月7日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、江東区「洲崎パラダイス」をご紹介します。
江戸、そして東京の歴史はまた、埋立の歴史でもあります。徳川家康が江戸城に入った当時、現在の田町、日々谷、霞ヶ関、新橋のあたりは、ほとんどが海で、日本橋から有楽町にかけては砂浜が広がっていました。ご紹介する「洲崎(すさき)遊郭」も、もともとは海だった場所を埋め立てて作られたものです。
洲崎遊郭が作られたのは、1888年(明治21年)で、もともとは文京区、根津神社の近くにあった遊郭が引っ越してきて生まれたのがこの洲崎の遊郭です。なぜそんな遠くから引っ越してきたのか…といいますと、もともと根津には江戸時代から歓楽街がありましたが、明治になって、目と鼻の先に東京大学が作られ、「最高学府の前に、遊郭があるのはまずいんじゃないの?学生にムダな刺激を与えるだけじゃない?」ということで、有無を言わさず、移転させられてしまったというのが真相です。
移転に際しては、4年の猶予期間が与えられ、最初は、吉原への移転を考えたそうですが、あちらもギチギチで余裕がない。それなら埋め立て地だ…ということになり、突貫工事で埋立を進め、無事に猶予期間の間に引っ越しを済ますことができたのです。遊郭のはずれまで歩けば、どこからともなく波の音が聞こえ、それは風情のある風景だったようです。
吉原以上の眺めとうたわれた広大な洲崎遊郭も、昭和20年の空襲ですっかり燃えてしまいました。しかし、それぐらいではへこたれないのがこの商売。戦後になると、「洲崎パラダイス」と名前を変え、一大歓楽街として、昔と同じように男達を引き寄せました。お客さんは土地柄もあって、イナセな職人さんたちが中心で、粋な遊び方をする方が多かったそうです。ちなみに、昭和30年代前半の料金設定ですが、一番短時間のコースで300円から500円、1時を過ぎての「泊まり」が1500円だったとか。
しかし、遊び好きな男性にとっての、そんな夢のようなパラダイスも、1958年(昭和33年)3月31日をもって地上から消えてしまいました。翌4月1日、売春防止法が施行されたのです。もし、このパラダイスの様子を眺めたければ、1956年(昭和31年)制作の映画、川嶋雄三監督の「洲崎パラダイス 赤信号」をご覧ください。売春防止法以前につくられた映画ですから、名物だった入り口のアーチなどもちゃんと見ることができます。
さて、売春防止法の年、1958年(昭和33年)には、南極観測隊越冬断念というニュースも有りました。2月、悪天候に阻まれ、南極越冬隊が上陸を断念。15頭のカラフト犬がそのまま取り残されてしまいました。そのうちの2頭、タロとジロが翌年、生きて見つかりました。
3月8日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった、隅田川にほど近く、戦後栄えた「鳩の街」をご紹介します。
戦後、遊郭が栄えたのは、1945年(昭和20年)から1958年(昭和33年)の売春防止法施行までのおよそ13年間です。この時期に人気を集めた場所に、江戸時代からの歴史を誇る吉原、新宿、板橋などのほか、墨田区の「鳩の街」があります。もともと、この近くにあった「玉の井」遊郭の業者が、戦災で焼け出され、どこか近所で商売ができないか…と物色したところ、すぐ近所に焼け残った適当な一画が見つかりました。そこで早速、住人たちと交渉して買収し、閑静な住宅街が、たちまちステキな大人の社交場に変わってしまったというわけです。
営業が始まったのが、戦争末期の1945年(昭和20年)5月、そして3か月後の終戦までに、実に数十軒からなる遊郭が誕生したと言いますから、人間の欲望の力には驚かされるばかりです。戦後は垢抜けない住宅街の外見に大幅に手が入れられ、カフェ風のモダンなお店が立ち並び、道路も整備されました。入口には「鳩の街」と大きく書かれたアーチが取りつけられ、温かい女性の肌を求めてやってくる男達を迎えました。
「鳩の街」は、ほかの遊郭と違って、素人に毛が生えたような女性が多かったそうで、そこが遊び慣れた男達の心をくすぐったようです。マスコミにも大きく取り上げられたこともあって、全盛期の昭和20年代後半には押すな押すなの大盛況。永井荷風、吉行淳之介といった文学者たちも足しげく通い、荷風はここを舞台に戯曲「春情鳩の街」を書き、淳之介は、小説「原色の街」を書きました。
そして「鳩の街」といえば、忘れてはならない方が、もう一人。この「鳩の街」で生まれ育ったのが、あの木の実ナナさんです。窓を開ければ目の前が赤線という環境で育ったナナさんは、こどもの頃、よく赤線のお姉さんに遊んでもらったそうで、夜になると「仕事だから」とお姉さんたちは帰ってしまう。しばらくすると、街の白いタイルにネオン管の灯りが浮かび、さっきまでとは別人のようなかっこいいお姉さんが立っている。そんな姿を見ることで、ナナさんは「女性のカッコよさ」に目覚めたのだそうです。
当時の「鳩の街」がどんな場所だったのか。先程名前の出た永井荷風「春情鳩の街」を原作に、1955年(昭和30年)に作られた、久松静児監督、森繁久弥主演の「渡り鳥いつ帰る」という映画で、その一端を偲ぶことができます
3月9日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、戦後の東京を代表するモダンな遊郭「新宿2丁目界隈」をご紹介します。
地下鉄丸ノ内線・新宿御苑前駅を降り、靖国通り方面へ歩けば、そこはかの有名な新宿2丁目で、夜ともなれば、日本全国から居場所を求めて集まってきた、素敵なお兄さんたちの楽園がそこにあります。小さなカウンターバー、本格的なショウが見られるパブ、そしてここでしか手に入らない雑誌を売る書店など、そのきらびやかな光景には目がクラクラしてしまいますが、このあたり「二丁目」は、かつて東京を代表するモダンな遊郭のあった場所でした。
1958年(昭和33年)、ロカビリー・ブームが起き、日劇ウエスタン・カーニバルが社会現象となっていた頃、新宿2丁目にも大きな転機が訪れていました。4月から「売春防止法」が施行されるため、遊郭は3月一杯で店を閉じなければならないのです。二丁目の遊郭街ができあがったのは、大正の半ばごろのことで、江戸時代、宿場として栄え、飯盛女を目当てに近郷近在からやってくる男達で大にぎわいだった新宿でしたが、女性と遊べるお店は現在の三越・伊勢丹あたりから、文化放送からもさほど遠くない、大木戸あたりにかけ散らばっていました。
ところが、1921年(大正10年)の大火をきっかけに、一か所にまとめられることになったのです。遊郭になる前は、このあたりに芥川龍之介の実の父親が経営する牧場があったそうで、「牛屋の原」と呼ばれていた場所でした。
新宿二丁目の遊郭の特徴は、なんといっても「モダン」でした。洲崎、千住、品川あたりと比べれば、働く女性たちも一段と垢抜けており、お店も円形の窓にステンドグラスがはまっているといった具合で、呼び込みのお兄さんたちも、半纏ではなく、背広を着ていたというから驚かされます。戦後もこの伝統は生かされ、オシャレな雰囲気の店にお姉さんが美女揃いとくれば、料金が高くなるのも道理です。作家・五木寛之さんも、エッセイ集「風に吹かれて」の中で、当時の新宿二丁目について、「あんな所はブルジョア階級が豪遊する場所だと思い込んでいた。豪華さと、美人が多いのに驚嘆した」と、そのゴージャスな雰囲気を書き残しています。
そんな美しい女性たちも、売春防止法施行と共に姿を消し、その後、ぽっかりあいた隙間を埋めるかのように、今度は男を愛する男たちが、いつのまにかスルリと入り込んできたのでした。
3月10日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、庶民の遊び場として親しまれた「千住遊郭」をご紹介します。
千住は、「江戸四宿」の一つで、東海道の最初の宿場である品川、中山道の板橋、甲州街道の新宿、そして奥州街道・日光街道の千住、これがいわゆる「江戸四宿」です。江戸の昔、幕府が公認した遊郭は吉原一か所だけでしたが、この四つの宿場には飯盛女…今で言うところの、綺麗なお姉さんがたくさん働いていて、幕府も黙認する形で、夜の商売が盛んに行なわれていました。1827年(文政10年)の記録によれば、千住宿の旅籠は全部で62軒あり、そのうち47軒までが飯盛女を置いていたそうです。
宿場は幕府の求めに応じ、馬や人を提供する義務がありましたが、それでは収入にならない。宿場が機能しなくなっては、困るのは幕府です。飯盛女を黙認することで、宿場の厳しい財政を手助けしようと、幕府は考えていたようです。とはいえ、放っておいては、飯盛女の数は増えるばかりですから、これは何とかしなければいかん…ということで、1718年(享保3年)には「旅籠一軒につき、飯盛女は2人まで」という人数制限のお触れが出ています。野球や相撲の「外国人枠」みたいなものでしょうか。
明治維新を迎えたあとも、千住は「欲望の街」として栄え続けました。1921年(大正10年)には、あちこちに散らばっていた業者が一か所に集められ、新たな千住遊郭が誕生しました。第2次大戦の末期には、千住の業者たちも疎開を余儀なくされましたが、平和が訪れるとすぐに商売を再開し、敗戦の翌年には25軒だった業者が、3年後の1949年(昭和24年)には46軒とほぼ倍に増えています。
作家の五木寛之さんは、ボブ・ディランの「風に吹かれて」と同じタイトルのエッセイ集で、千住遊郭の思い出を語っています。当時、新聞配達のアルバイトをしていた五木さんは、ある日、千住遊郭に出かけますが、疲れがたまっていたのか、熟睡してしまいます。気がつけば朝の5時。もう出かけなければならない時刻です。「なぜ起こさなかった」と相方の女性をなじる五木さんに対し、女性は「ぐっすり眠っていたから…」と恐縮するばかりでした。慌てて自転車に乗って返ろうとする五木さんを呼び止めて、「タイヤが抜けてる」とポンプで必死に空気を入れ、膨れたところでタイヤに触り、「堅くなった…」。その瞬間、自分の言葉に照れていた…そんな思い出です。
1958年(昭和33年)4月1日、売春防止法が施行され、千住遊郭も、その長い歴史に幕を閉じることになりました。そしてこの年、皇太子様、現在の天皇陛下が、正田美智子さんとの婚約を発表し、日本は高度成長へ向け、少しずつ動き始めていました。
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