|
|
|
2月13日(月)〜2月16日(木)のテーマは、「落語の舞台を訪ねる」 皆さんよーくご存知の落語に登場する場所をご紹介します。
2月17日(金)は、本日からスタートするスペシャルウィーク特別企画「邦丸黄門漫遊記 富山で印籠丸出しショック!」の旅をご紹介します。
2月13日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「芝浜」をご紹介します。
江戸時代の魚市場といえば、日本橋の魚河岸が有名ですが、他にも芝の浜も有名な市場のひとつでした。噺の題にもなっている芝の浜ですが、「芝浜」のあらすじはというと…
酒飲みで、仕事を休んでブラブラしていた魚屋の勝さん。女房に言われて仕事を再開、早起きして仕入れに出かけます。でも少々早すぎて、海で顔を洗っていると、おや?何かある。「大金!」あわてて家に駆けもどり、確かめると、なんと42両。仲間を集めてドンチャン騒ぎし、酔って寝てしまう。起きてビックリ!お金を拾ったのは夢で、ドンチャン騒ぎは本当。どうしょう!目が覚めた魚勝、心を入れ替えて働くことを誓う。そして3年…感動の結末が待っているのです。
江戸時代、東海道の両側の、本芝(ほんしば)1丁目から4丁目にかけての浜では魚市場が立ちました。江戸湾の小魚を扱ったので、雑魚場(ざこば)とも呼ばれていました。ご存知の「芝えび」という名前は、この土地から生まれました。明治5年に開通した日本最初の鉄道は、ここを通りました。海岸に堤防を築き、蒸気機関車を走らせたのですが、その後、埋め立てと開発が進み、海岸線は次第に遠くなっていきました。でも、なんと1962年(昭和37年)まで、芝は漁業の基地として使われていたのです。
第一京浜の昔の東海道を少し入ったところの港区芝4丁目に本芝(ほんしば)公園があります。このあたりが、人情噺「芝浜」の舞台で、くわしい説明のついた案内板も置かれています。ここは線路際のため、ひっきりなしに電車が通ります。ガードをくぐってすぐの所に運河があり、屋形船や釣り船の乗り場になっていて、これだけが、かろうじて「海」を思い出させてくれます。このガードは、正式には「雑魚場架道橋(ざこば・かどうきょう)」といい、ようやくかつての魚市場の名残りを見つけました。
2月14日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「三方一両損(さんぽういちりょうぞん)」をご紹介します。
江戸には、南と北、2つの奉行所が置かれていましたが、受け持ち地域を分けていたのではなく、ひと月交替で担当していたのです。町奉行は、旗本の中から優秀な者が選ばれていたのですが、今の仕事にすると、都知事・警視総監・裁判所長官・消防・総監そして国務大臣を兼ねており、大変に忙しかったそうです。落語「三方一両損」に登場する南町奉行所は、待ち合わせの名所としても知られる有楽町のマリオンにありました。
そのあらすじは…
落とした方も拾った方も職人で、江戸っ子のやせ我慢と意地のはりあいから裁判沙汰になってしまいます。でも、さすがは名奉行・大岡越前守は、鮮やかに決着をつけます。大岡越前守は、さまざまな分野で実績を残した人で、町奉行としてはナンバーワンの人気がありました。忘れてならないのは、遠山金四郎で、北町奉行で大岡越前守より100年ほど遅い時代に活躍しました。北町奉行所は、いま再開発工事が進められている、東京駅八重洲北口あたりにありました。
ところで、大工の吉五郎が落としたお金の3両は、現在の価値でどのくらいだったのでしょう?
大岡越前守が活躍した江戸時代中期の頃ならば、1両がおよそ8万円から10万円ほどになりますから、3両はなかなかの金額だったのです。
2月15日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「火事息子」をご紹介します。
火事と喧嘩這江戸の華…といわれたように、江戸は火事の多い町でした。270年ほどの間に、大火といわれるものがなんと90回。3年に1度は大きな火事に見舞われていたのです。幕府も手は打っていて、消防制度も次第に作られていきました。
江戸の消防制度には3つあり、1つ目は、任命された大名が消防にあたった大名火消。2つ目は、旗本が任命された定火消(じょうびけし)。3つ目は、だいぶ遅れて8代将軍吉宗の頃に作られた町火消です。定火消は、城や大名・武士の屋敷を守るのが役目で、江戸城の周りに10個所、後には8個所の火消屋敷=現在の消防署が置かれていました。御茶ノ水のニコライ堂にも火消屋敷が置かれていました。
火事の多かった江戸らしく、火事の場面が出てくる落語もたくさんあり、「富久(とみきゅう)」「ねずみ穴」「首提灯(くびぢょうちん)」などが有名ですが、なかでも名作といわれているのが、「火事息子」です。
場所は三河町、現在の町名では、千代田区内神田1丁目です。
大きな質屋の若旦那は、どういうものか、子供の頃から火事が好き。町火消になろうとして反対され、定火消に入ります。全身に彫り物を入れた若旦那は、とうとう勘当されてしまいます。当時、定火消の面々は臥煙(がえん)と言われ、乱暴者が多く嫌われていたといいます。
ある夜、近くで火事が起こりました。
客からの預かり物を入れた土蔵を守ろうとした番頭は、宙吊りになってしまいます。そこへ1人の臥煙が駆けつけ、素早い動きで番頭を助けます。
久しぶりの親子の対面で、親子の情が見事に描かれた傑作として、よく演じられます。
2月16日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「文七元結(ぶんしちもっとい)」をご紹介します。
賭け事で借金がふくらんだ左官の長兵衛。
娘を吉原に預けて手にした50両を懐に隅田川の吾妻橋にさしかかります。そこで身投げをする寸前の若い男を助け、血のにじむような50両を与えて去っていきます。
若い男は、横山町のべっ甲問屋・近江屋の手代、文七。実は、スラれたのではなく、大名屋敷に置き忘れてきたことが分かります。文七から話を聞いた旦那の心配りによって、すべてが丸く収まるというお話なのですが、実に良くできています。
長兵衛が住んでいたとされる達磨(だるま)横町は、現在の墨田区本所で、ばくち場は、細川若狭守の下(しも)屋敷、吾妻橋を渡ってすぐのところにありました。当時は、治外法権の大名屋敷でもやっていたのです。それから、手代が集金した「小梅の水戸様」というのは、水戸家の下屋敷のことで、現在は隅田川沿いの桜の名所=墨田公園になっています。題名になっている元結(もっとい)は、一種のこよりで、まげを束ねて結う時に使う、江戸時代の人々の生活には欠かせないものでした。
この話に登場するのは、良い人ばかりで心温まるお話しです。べっ甲問屋近江屋があった横山町=現在の町名は、中央区日本橋横山町ですが、古くから奥州街道への出発点として栄えました。江戸時代には小間物や繊維、文房具を扱う店や問屋が集まっていて、現在でも、隣の馬喰町(ばくろちょう)と共に、都内有数の問屋街になっています。
2月17日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日からスタートのスペシャルウィーク特別企画「邦丸黄門漫遊記 富山で印籠丸出しショック!」の旅。ぜひ召し上がっていただきたい極上の美味、そして一度は泊まってみたいくつろぎの宿を求めて越中富山を縦横無尽に駆け巡った珍道中をご紹介します。
目的地は厳冬の北陸・富山県。
関越道、藤岡ジャンクションから上信越道に入り、信州を横切り、今度は上越ジャンクションから北陸道へ。親不知の名所を越え、灰色の日本海に沿って西に向かうと、すぐに越中、富山に入ります。東は立山連邦を境に新潟、長野、西は石川、そして南は岐阜に接するというこの富山県は、江戸時代から続く薬の訪問販売、富山の薬売りや、全国から観光客が殺到する9月の「風の盆」などが有名です。
豊富な水を利用した水力発電や、アルミニウムや、YKKのファスナーなど、全国有数の工業県でもありますが、やはり、富山といえばなんといっても、富山湾でとれる新鮮な魚介類です。暖流と寒流がぶつかる、環境に恵まれた漁場である富山湾は、浅瀬がほとんどなく、急に1000m以上まで深くなっているのが特徴で、この特殊な地理的条件が、数多くの魚たちを招き寄せることに役立っています。
冬は寒ブリやズワイガニ、春から夏にかけてはホタルイカ、そして特産のシロエビもサンマもアジもイワシもサケもマスも、この富山湾狭しと泳ぎ回っています。そして地元の海でとれた新鮮な魚を、心行くまで堪能させてくれる温泉もそこかしこにあって、魚好き、温泉好きにとっては、本当にこたえられない夢のような場所、それが富山県なのです。
|
|
|
|