番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
  ◆最新の歴史探訪
◆過去の歴史探訪
   
PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月30日(月)〜2月3日(金)今週のテーマは、「東京湾・名船ものがたり」
さまざまなエピソードに彩られ、役目を終えた今も、変わらぬ姿を東京湾に見せている船をご紹介します。


1月30日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「氷川丸」をご紹介します。

横浜・山下公園に欠かせない眺めといえば「氷川丸」です。氷川丸は、1930年(昭和5年)に建造されました。氷川丸・日枝丸(ひえまる)・平安丸の3隻が姉妹船として作られ、船客と貨物を運ぶ貨客船としてシアトル航路に就航しました。この3隻には、どれも有名な神社の名がつけられています。
氷川丸は「北太平洋の女王」と呼ばれ、VIPも多数乗船しており、あの喜劇王・チャップリンもその一人です。

1930年当時の運賃、どの位だったと思いますか?
1等船室で、横浜からシアトルまで、500円。1000円あれば家が1軒建つ、と言われた時代の500円ですから、贅沢な旅でした。面白いのは当時の貨物の中身で、輸出のトップは生糸、その他の品の中に金魚が含まれていて、ペットとして人気がありました。太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)7月の73回目で戦前の航海は打ち切られました。戦争中は病院として使われ、戦後は海外からの引き揚げや、復員に活躍しました。今でも、従軍看護婦として活動した方が、お子さんやお孫さんと一緒に見えるそうです。

戦争中、多くの客船や貨物船が沈み、終戦時に1万トン以上の船で無傷で残ったのは氷川丸だけでした。戦後の混乱が落ち着いた1953年(昭和28年)には、改装されてシアトル航路に復帰、1960年(昭和35年)に引退するまで活躍し、生まれ故郷の横浜の山下公園に係留されたのは翌年のことでした。

すっかり山下公園の眺めに溶け込んだ氷川丸ですが、年間の見学者は、およそ18万人ほどで、遠足で来て以来30年ぶり、40年ぶり…というお客様も多いようです。船内の見学コースは、みどころが一杯で、完成当時の最先端のデザイン、アール・デコ様式のインテリアが取り入れられた船室やダイニング、模型ファンなら飽きることのない模型がズラリと並んだ世界客船館などがあります。外国への夢や憧れを現実のものにしてくれた氷川丸は、2003年11月に、横浜市指定有形文化財に指定されました。毎日正午、時報にあわせて氷川丸の汽笛が鳴らされます。1996年環境庁認定の、残したい日本の音風景100選にも選ばれました。
氷川丸そして山下公園の最寄り駅は、みなとみらい線「元町・中華街駅」です。



1月31日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「羊蹄丸(ようていまる)」をご紹介します。

北海道が、今よりもずっと遠い場所だった1965年(昭和40年)、羊蹄丸が完成しました。その年に、はやった曲が「函館の女」です。本州から北海道へ、北海道から本州へ行く人にとって、青函連絡船は欠かせないものでした。出張や、観光旅行、そして修学旅行、さまざまな思い出がこもっているのです。

青函連絡船の歴史は長く、1908年(明治41年)に生まれ、1960年代後半に全盛期を迎えました。しかし、空の便の利用が増えると、連絡船の乗客は次第に減ってきます。1988年(昭和63年)3月には、青函トンネルが完成、青函連絡船は80年の歴史に終止符を打ちました。

東京港の一画にある船の科学館の岸壁に、青函連絡船、羊蹄丸が係留されています。実は、この船は2代目で、初代羊蹄丸は、終戦直後からおよそ17年にわたって働きました。2代目の羊蹄丸は、初代の倍以上のおよそ8300トンで、48両の鉄道車両と、1200人の旅客を運ぶことが出来ました。係留されている羊蹄丸の船体は、完成当時のエンジとクリームの2色に塗られ、煙突にはJNRの文字が昔のまま残っています。2代目・羊蹄丸が27年間に航海した距離は、およそ404万キロで、地球を101周した計算になります。運んだ旅客数、1180万人!
船内の見学も楽しく、ブリッジで船長の気分を味わうことも出来ますし、青函連絡船の資料もたくさん展示されています。

お奨めは、昭和30年代の青森駅や朝市の様子を再現した「青函ワールド」です。ここの展示は凝っていて、1955年(昭和30年)12月15日の青森駅と駅前市場、という想定になっています。時間は午前6時23分。売店で売っている新聞は、当日の日付。待合室でストーブを囲む乗客や、朝市で野菜を売るオバさんまで、リアルに再現されています。時刻表と旅客運賃表も当時のままで、ちなみに青森から東京までは、2等2420円、3等が1010円です。大型スクリーンでは活気に満ちた当時の映像が流されていて、思わず見入ってしまいます。

今、昭和30年代が見直されていますが、あの時代を中心に、夢と希望を乗せて、休むことなく働いていた青函連絡船を見に行ってみませんか?
羊蹄丸がある船の科学館の最寄り駅は、新交通ゆりかもめ・船の科学館前です。



2月1日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「帆船にっぽん丸」をご紹介します。

近頃横浜で大きく変わった場所といえば、MM21、みなとみらい21ですが、そこで人気を集めているのが、帆船にっぽん丸です。完成したのは、1930年(昭和5年)。それまでの練習船は小さく、事故が多かったために、大型練習船が作られたのです。その年の10月からの遠洋航海から、練習船の役割を終えた1984年(昭和59年)までに航海した距離は、およそ183万キロと、地球を45周したことになります。夢を胸に、にっぽん丸から巣立っていった実習生の数は、11500名にもなります。太平洋戦争中には、物資の輸送に使われ、戦後は海外からの引き揚げに使われて、25000人もの人々を母国に運んだ…というエピソードがあります。

「太平洋の白鳥」と呼ばれたにっぽん丸で目立つのは、白い帆ですが、全部で29枚あり、広さは畳1242枚分もあるそうです。すべての帆を広げることを、総帆展帆(そうはんてんぱん)と言います。日本丸では、今年は10回の総帆展帆が予定されていて、一番近いのは4月29日、みどりの日です。帆を広げる作業は、訓練を積んだボランティアによって行われ、およそ1時間ほどですべての帆を広げた優雅な姿を見ることが出来るそうです。

役目を終えたにっぽん丸には、全国から「ぜひ、わが町へ!」という希望が殺到しました。結果は、横浜に決まりました。港町・横浜には、昔から柳原良平(やなぎはら・りょうへい)さんなど船のファンが多く、活発な署名活動が行われたこと、しっかりした展示計画が出来ていたことが決め手になったそうです。現在の場所で一般公開されたのは、1985年(昭和60年)4月で、83年間にわたって使われてきた三菱重工業の石造りドックに水をはった状態にして、白い船体が現役の当時のままに浮かんでいます。昨年までの入場者は、およそ370万人で、機関室にあるエンジンは、なんと54年以上にわたって運転を続けたことで、大型船舶用エンジンで運転時間世界一と認められ、ギネスブックに載ったことがあります。船では、30分おきに時を告げる鐘、時鐘(じしょう)が鳴らされます。

にっぽん丸の船内は手入れが行き届いていて、真鍮の金具はどれもピカピカで気持ちがいいです。にっぽん丸の隣には、横浜マリタイムミュージアムがありますが、「マリタイム」は、英語で、海の…という意味でその名の通り、海に関する展示で埋まっています。
帆船にっぽん丸、横浜マリタイムミュージアムの最寄り駅は、JR根岸線と横浜市営地下鉄の桜木町駅です。



2月2日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「記念艦・三笠」をご紹介します。

1905年(明治38年)5月27日、日露戦争を決定づける戦いが繰り広げられました。日本海海戦です。はるばるヨーロッパから遠征してきたロシアのバルチック艦隊、これを迎え撃つ日本の連合艦隊。バルチック艦隊は壊滅し、「奇跡的な勝利」と世界に伝えられました。ロシアは戦争を続けられなくなり、ポーツマス条約が結ばれ戦争は終わりました。連合艦隊の旗艦、戦艦三笠は、勝利のシンボルとして人気を集めました。

三笠が完成したのは、1902年(明治35年)3月、日露戦争が始まる2年前のことでした。当時は国内では戦艦のような大きな船を造る技術がなく、イギリスのヴィッカース造船所に発注したのです。およそ1万5千トン。30センチ砲4門を備えた、当時、世界最大、最新鋭の戦艦でしたが、三笠の栄光は長くは続きませんでした。講和条約が結ばれた直後、停泊中の佐世保軍港で爆発事故を起こし沈没。戦争による被害よりはるかに多い、339名の犠牲者を出したのです。

その後、軍艦として復帰しますが、1921年(大正10年)のワシントン軍縮会議の結果、廃棄されることになりました。ところが、「国の危機を救った軍艦を残せ!」という国民の声が高まり、特例として保存されることが認められたのです。「記念艦三笠」が完成したのは、1926年(大正15年)のことでしたが、新たな不幸が待ちかまえていました。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。
記念館三笠は、大砲や煙突、マストなどが取り去られ、なんとダンスホールや水族館などに使われていたのです。荒れ果てた三笠を見て、「元の状態に戻そう!」と声をあげたのは、三笠に縁の深いイギリス人で、記念艦三笠を復元しようという運動が次第に広がり、1961年(昭和36年)5月27日、記念艦三笠は復活しました。

日本海海戦の際に、司令長官東郷大将たちが立っていたコンパスデッキ(艦橋の最上部です)に昇ってみると、案外狭いのに驚きます。当然ながら吹きさらし、三笠が全速力18ノットおよそ時速33キロで突っ走っていた時は、大変だったことでしょう。艦内には、日露戦争や日本海海戦の資料、三笠の写真、模型などがたくさん展示されており、長官の部屋も見ることが出来ます。昨年は日本海海戦100周年で、2005年度の見学者は、10万人を超える見込みです。記念艦三笠の最寄り駅は、京浜急行横須賀中央駅です。


2月3日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、南極観測船として有名な「宗谷(そうや)」をご紹介します。

数奇な運命とか、波乱万丈と言いますが、宗谷の歴史は波乱に満ちています。船の使いみちも、ずいぶん変わってきて、貨物船・特務艦・引き揚げ船・灯台補給船・南極観測船、そして巡視船と、激動の昭和と共に生きてきたのです。

完成したのは、1938年(昭和13年)のことで、ソ連の貨物船として作られたものが、途中で日本の貨物船となり、やがて海軍に買い取られます。ここではじめて「宗谷」と名づけられたのです。戦争中は南方を中心に活動し、仲間の船が次々に沈んでゆく中、無事に終戦を迎えます。終戦直後の2年間ほど引き揚げ船として東奔西走した後、灯台補給船として活躍します。

宗谷の仲間は、ヒットした映画「喜びも悲しみも幾歳月」にも登場しています。全国の灯台を回って、燃料や生活物資を運んでいた宗谷に、新しい任務が与えられました。次の目的地は、南極でした。
宗谷は大掛かりな改修工事を受け、砕氷船に生まれ変わりました。1956年(昭和31年)から1962年(昭和37年)まで、6回におよんだ南極観測船としての役割を見事果たことはご存知の通りです。最後の10年間を北の海で巡視船として過ごし、40年にわたった活動を終えました。

1979年(昭和54年)から船の科学館前に係留され、一般公開されています。宗谷を見た第一印象は、「こんな小さい船で、よく南極まで!」です。総トン数は、およそ2700トン、近くに係留されている羊蹄丸(ようていまる)と比べても本当に小さいです。南極にたどり着くまでの海の荒れ方は凄まじかったそうで、最大の横揺れ角度が62度にもなったといいます。船内見学コースに調理室があり、揺れる中での調理ですから、大変に苦労したそうです。調理場や食堂での落下防止の工夫など、ぜひ、ご覧ください。宗谷が一般公開されてから26年たちましたが、これまでに宗谷を訪れた人は、およそ700万人と、大変な人気です。宗谷、そして船の科学館の最寄り駅は、新交通ゆりかもめ・船の科学館前です。



PAGETOP

サウンドオブマイスタートップページ くにまるワイド ごぜんさま〜 INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター