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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月23日(月)〜1月27日(金)今週のテーマは、「高所恐怖症」ならぬ「高所大好き症」
都内の高〜い場所をご紹介します。


1月23日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「淀橋浄水場跡」をご紹介します。

六本木ヒルズや汐留再開発地区など、21世紀に入ってから都内各地に超高層ビルの建設ラッシュが続いていますが、それでも東京を代表する摩天楼エリアといえば、やっぱり「新宿」。
1971年(昭和46年)に建てられた新宿最古の超高層、京王プラザホテルや、現在でもなお都内随一の高さを誇る都庁など、10棟以上に及ぶ超高層ビルが林立する眺めは圧倒的な迫力をもって私達に迫ってきます。

これだけ多くの高層ビルが建てられる土地、いったい以前は何だったのか…というと、かつてここには都民の水がめ「淀橋浄水場」がありました。明治時代、東京の人口は年ごとにどんどん増えていきましたが、それと共に安全な水への需要も高まる一方でした。当時は玉川上水や神田上水、現在の神田川の水をそのまま飲み水に利用していましたが、明治中期にコレラが流行した事、また火事が起きたとき、消火活動に使いにくい事などから、近代的な水道設備を建設することが決定しました。玉川上水の取水口に近く、また都心の入口にも当たる淀橋の地に浄水場が作られることになったのです。

工事が始まったのは1893年(明治26年)で、地面が掘り下げられて、玉川上水の水をろ過するためのたくさんの池が作られました。現在の高層ビル群は、そのかつての池の底から建てられていることになるわけです。そして5年後の1898年(明治31年)、神田・日本橋地区への給水を皮切りに、都内各地に水道網が張り巡らされていきました。また同時に、街角には「消火栓」が設置され、火事の被害も目に見えて減っていったのです。

それではこの浄水場の名前になった「淀橋」とは、いったいどんな橋なのでしょう?
「淀橋」とは、青梅街道が神田川、かつての神田上水を横切るところに架けられている橋の名前です。「淀」という名前は、三代将軍家光公が、このあたりへ鷹狩りに訪れた際、神田川の眺めが、京都の淀川に似ていることから名付けたと言われています。四百年後の現在、当時の優雅な眺めを忍ぶ「よすが」もありませんが、それでも高層ビルから望む富士山の雄大な姿は、この季節の大きな楽しみになっています。



1月24日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「東京タワー」をご紹介します。

東京を代表する建築物といえば、まず、いの一番に名前が上がるのが「東京タワー」です。近頃では、すぐ近所に「六本木ヒルズ森タワー」ができましたが、ゴテゴテと要塞のような印象の森タワー、かたやスックと立ち上がった姿が印象的な東京タワー。新旧の東京名所が、対照的な姿で肩を並べています。

この東京タワーが完成したのは1958年(昭和33年)で、昨年公開された映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、建設中の東京タワーの風景が印象的に使われていました。完成からまもなく半世紀近くになるタワーは、観光名所として親しまれていますが、そもそもの目的は、関東一円にテレビの電波を送り届けることで、正式名称は「日本電波塔」といういかめしいものです。エッフェル塔の320mを越える333mという高さも、別にケンカを売っているわけではなく、北は水戸、東は銚子、南は沼津、西は甲府まで電波を届けるのに必要な高さを学術的に調査したところ、割り出された数字なのです。それが昭和33年に開業したというのも、偶然の一致なのだそうです。

東京タワーの楽しみは眺めだけではありません。
六本木ヒルズは美術館や会員制の図書館で話題になりましたが、こちらはおなじみの蝋人形館や水族館、ギネス博物館などぐっと庶民的なのがうれしいところです。近い将来、デジタル放送時代に備えて、隅田川の近くに600m級の第2東京タワー建設計画が進められていますが、こちらの元祖東京タワーのアナログな醍醐味も、ぜひ末永く残していっていただきたいものです。



1月25日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京の最高峰「雲取山」をご紹介します。

「雲にのりたい」…普通ならどう考えても夢物語ですが、あながちそれが夢でもない…そう思える場所が東京にあります。その名も「雲を取る」と書く「雲取山」で、東京都、埼玉県、山梨県にまたがり、標高は2017m、都庁も、六本木ヒルズも、東京タワーですら足元にも及ばない、文字通り「東京で一番高い場所」です。

富士山はもちろん、奥多摩、奥秩父、大菩薩峠、そして彼方の南アルプスまで見渡す眺めは絶景の一言。おなじみの深田久弥「日本百名山」にも取り上げられていて、山好きには名の知れたスポットでもあります。登山ルートは東京、埼玉、山梨、それぞれから通じていますが、代表的なのは、秩父、三峰神社から奥秩父独特の原生林を抜け、登っていくというものです。三峰神社は、日本武尊がこの地にやってきた折、山河の美しい様子に感銘を受け、イザナミノミコトを忍んで作られたお宮が始まりだという、古い歴史を誇る神社です。

東京の山に登るのに、わざわざ埼玉の奥の神社まで出かける…というのは、山に登らない人にとってはなんだか妙な感じがしなくもありませんが、このルートは西武線や秩父鉄道、バスやロープウエイなど公共交通機関が整備されているので、アクセスしやすいという利点があります。ただしこちらは比較的起伏が激しいので、冬場はなだらかな登りが続く、東京・奥多摩側からのルートがお勧めです。いずれにしても11月から4月ごろまでは雪が積もるため、ちゃんとした冬山登山の装備が必要になってきます。

雲取山に登るなら、余裕をもって一泊するのが通常コースで、宿になるのは、山頂から20分ほど下った場所にある「雲取山荘」です。200人が収容可能という大きな山小屋で、清潔な水洗トイレが登山者の人気を集めています。売店でビールやお酒が手軽に買えるのもうれしいところです。夜、ほろ酔い気分で2階の窓から東京方面を眺めると、晴れた日なら遥かかなたに都庁や東京タワーが望めます。



1月26日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、東京最古の高層ビル「霞ヶ関ビル」をご紹介します。

東京で、いえ、日本でもっとも古い超高層ビルディング「霞ヶ関ビル」が完成したのは、フォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」がヒットした1968年(昭和43年)のことで、メキシコオリンピックで日本サッカーチームが銅メダルを獲得した年でもあります。地上36階、高さ147mのこのビルが完成したときは、人々はそれこそ度肝を抜かれたものでしたが、それから38年の月日が流れた今、この程度の高さのビルはごく普通に見られるようになり、建設現場を目にしても「あ、また建つんだな…」という程度で、当時の新鮮な驚きは望むべくもありません。

それまで、なぜ超高層ビルが建てられなかったかというと、1919年(大正8年)に作られた法律で、建物の高さが31m以下に制限されていたからです。霞ヶ関ビルができるまで、高さ日本一のビルは1923年(大正12年)に完成した旧丸ビルで、高さはちょうど31mでした。高さ制限が設けられていたのは、日本が地震国だからです。ニューヨークのような超高層ビルを建設したところで、もし大地震に襲われた場合、とてつもなく被害が大きくなる…と思われていたのです。

ところが1963年(昭和38年)、高さ制限が撤廃されました。その裏付けとなったのが、当時、東京大学教授を勤めていた武藤清さんが唱えていた「柔構造理論」で、ヒントになったのは、上野・寛永寺の五重の塔が、数多くの大地震をくぐり抜け、無事に建ち続けていることでした。武藤さんは、どんなに強い風が吹いても、しなって倒れない柳のように、五重の塔も、地震の揺れを受け流し、被害を食い止めていることを突き止めました。

この構造を応用すれば、日本でも超高層ビルはできる!

折しも高度成長の真っ最中、それでなくても狭い東京です。限られたスペースを有効活用するには超高層ビルしかない!…というわけで、1965年(昭和40年)、霞ヶ関ビルの工事が始まりました。3年後に完成した霞ヶ関ビルは、完成当時、現在の六本木ヒルズも真っ青の観光名所となりました。そこで作られた工程管理のノウハウは、現在もなお、超高層ビル建設の現場で大切に利用されています。


1月27日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、山手線内側で最も標高の高い場所「箱根山」をご紹介します。

「箱根山」…といっても神奈川県南足柄郡の箱根ではなく、文化放送と同じ東京都新宿区にある「箱根山」です。
標高44・6m、山手線の内側では最も標高の高い場所です。この箱根山は、地下鉄大江戸線の東新宿駅か若松河田駅から歩いて10分ほどの、戸山公園の中にあり、かつては山頂から富士山や丹沢山などが見えましたが、現在では植えられた木々が成長してしまったため、見晴らしはあまりいいとは言えません。

戸山公園は、明治通りを挟んで大久保地区、戸山地区に分かれ、面積およそ18万平方メートルというだだっ広い公園ですが、実はこの一帯、江戸時代には御三家の一つ、尾張徳川家の下屋敷があった場所で、その面積たるや、実におよそ50万平方メートル!箱根山は、この下屋敷の広大な庭園の中に池を設けた時、そこから掘り出した土を積み上げて作った人工の山=築山(つきやま)だったのです。

もともとは「玉円峰(ぎょくえんほう)」という、いかにもそれらしい立派な名前が付けられていたそうです。ではこの玉円峰がなぜ箱根山になったかというと、実は、この下屋敷の中のお侍さんたちが、現実にはなれない町人になって、「弥次喜多ごっこ」をしていたのだそうで、このうんざりするほど広い庭の中に、東海道五十三次に見立てた道を作り、お休み処の茶屋や、宿場までこしらえていた。そして、庭の中のランドマークである玉円峰を、東海道随一の難所である箱根山に見立てた…という訳なのだそうですが、それにしてもここまで遊びに情熱をかける、江戸時代のお侍さんというのは、本当にたいしたものです。

明治になるとこの広大な土地は新政府が管理するようになり、陸軍の演習施設や兵学校、さらに軍医学校が設けられます。この付近では1989年(平成元年)に、頭蓋骨と大腿骨だけという奇妙な人骨が大量に発掘され、ニュースになりました。軍医学校で行われた人体実験の犠牲者の遺骨ではないか…とも言われましたが、真相は明らかになっていません。



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