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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
1月16日(月)〜1月20日(金)今週のテーマは、「大江戸・架空人物伝」
時代劇や歌舞伎でお馴染みのヒーローたちをご紹介します。


1月16日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「銭形平次」をご紹介します。

「銭形平次捕物控」の第1作は、1931年(昭和6年)に発表されました。作者は、野村胡堂(のむら・こどう)で、町人の味方になって正義を守っていく岡っ引を描いて、たちまち人気を集めました。およそ25年の間に生み出された作品の数は、なんと383です。
主人公の平次は31歳、恋女房のお静は23歳、そして、毎回のように「親分!大変だッ!」と駆け込んでくる子分の八五郎、通称ガラッ八は30歳。主人公をはじめ、主な登場人物はまったく年をとりません。平次の得意技といえば、お馴染みの投げ銭ですが、相手が権力者であったり、欲に目がくらんだ悪人であった場合は容赦なくその威力を発揮しました。その反面、やむを得ない事情で罪を犯した犯人は、見逃してしまうこともありました。そんな人情味のある人物だったことも、人気の秘密だったのでしょう。

発表された年に早くも映画化されました。映画では、何といっても長谷川一夫が二枚目・平次にピッタリで18本の作品が作られました。テレビでは大川橋蔵が演じ、原作を大きく上回る888回も放送されるほどの人気でした。

銭形平次といって、触れなければいけないのが神田明神です。境内から見下ろす一帯は、江戸時代には、お台所(おだいどころちょう)と呼ばれていました。通称、明神下で、平次はここに住んでいたとされています。
神田明神の境内には、「銭形平次の碑」があり、寛永通宝をかたどった台座の上に建てられ、発起人には長谷川一夫と大川橋蔵の名もあります。平次の碑の右側には小さな石碑がありますが、これは、子分・八五郎の碑で、いかにも江戸っ子好みの洒落た趣向です。
「罪を憎んで人を憎まず」の言葉どおりの、人情味と正義感あふれる銭形平次に、いまでも声援を送るファンは多くいます。
神田明神、そして、明神下の最寄り駅は、JRと東京メトロ・丸の内線の御茶ノ水駅、千代田線の新御茶ノ水駅です。



1月17日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「白波五人男」をご紹介します。

あでやかな振袖姿の武家の娘に化けた弁天小僧菊之助は、正体がばれると一変して男の声に変わるあたりの面白さもあって人気があります。お馴染みの「白波五人男」の正式な外題は「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし・はなのにしきえ)です。この芝居が初めて上演されたのは、江戸時代末期の1862年(文久2年)のことで、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)の代表作です。黙阿弥は江戸時代の末から明治にかけて活躍しましたが、七五調の華麗なセリフで人気を集めました。「白波」は、「盗賊・泥棒」のことで、いわゆるアンチ・ヒーローの「はしり」なのかも知れません。

さて、五人の白波といえば…、

盗賊の頭、日本駄右衛門(にっぽん・だえもん)
弁天小僧
忠信利平(ただのぶ・りへい)
赤星十三郎(あかぼし・じゅうざぶろう)

そして
南郷力丸(なんごう・りきまる)

の五人で、実在のモデルがいたといわれています。芝居になった120年ほど前、東海道を荒らしまわった日本左衛門(にっぽん・さえもん)を頭とした一味がいたそうです。最後は逃げ切れず処刑されたのですが、それをヒントに作り出されたそうです。

芝居のクライマックスは、捕り手に追われた五人男が柳瀬川、実は隅田川に勢揃いした場面です。派手な衣装で、順番に自分が何者かを堂々と名乗ります。念のいったことに、彼らの衣装には白波の図柄が描かれ、手にした傘には、「しらなみ」の文字が書かれています。
悪事は働いても、庶民には迷惑をかけない…そんな五人の晴れ姿なのです。見栄をはって名乗るセリフの華麗さは、耳に心地よいものです。覚悟を決めて華やかな最後を飾る「滅びの美学」に、江戸っ子は喝采を送ったのです。モデルになった盗賊たちの実像は定かではありませんが、優れた作者が生み出した生き生きとした主人公たちは、今でも高い人気を保っています。



1月18日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「旗本退屈男」をご紹介します。

「この額の傷を、何と見る! パッ!」

人呼んで旗本退屈男、本名は早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)のお馴染みの名セリフです。れっきとした旗本で、石高は1200石持つ「殿様」と呼ばれる身分です。剣は諸羽流(もろはりゅう)の達人で、「諸羽流正眼崩し」という無敵の構えを知らぬ人は江戸にはいない…とされています。トレードマークの額の傷は、3年前に7人の武士を相手に戦って勝った時に出来たものです。屋敷は「本所長割下水(ながわりげすい)」という設定で、3000坪ほどあったとされています。

場所は現在の両国、江戸東京博物館あるいは国技館の近くになるでしょう。旗本といっても、特に仕事があるわけではなく、暇をもてあましています。そこで刺激と冒険を求めて、江戸市中はもとより、日光へ、京都へ、仙台への足を伸ばすのです。年齢は34歳と、ヒーローの常として年をとることはありません。

旗本退屈男の生みの親は、佐々木味津三(ささき・みつぞう)で、「むっつり右門」でしられる「右門捕物帖」の作者としても知られています。第1作は、1929年(昭和4年)に書かれました。
退屈男といえば、市川右太衛門ですが、戦前から戦後にかけて、30本の映画に出演しています。実は、小説のイメージをはっきりと形にしたのは、俳優・市川右太衛門で、あの独特の構えも、豪華絢爛な衣装も、髷の形から傷の形まで、すべて右太衛門の工夫から生み出されました。

面白いエピソードとして、戦争が激しくなった時期に企画をたて、担当の部署に提出したところ、「この非常時に、退屈、とは何事か!」と叱られ、製作は中止になったそうです。旗本退屈男の映画作られなかった時期が12年も続いたのには、そんな事情もあったのです。
太平の世、元禄時代に早乙女主水之介が正義の剣を振るうのは、悪大名・悪代官・悪徳商人などなど、どんな手強い相手も諸羽流正眼崩しの敵ではありません。江戸の平和、日本の平和を守るために戦った旗本退屈男は、今も変わらぬスーパーヒーローなのです。



1月19日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「俵星玄蕃」をご紹介します。

江戸時代最大の事件といえば、何といっても「忠臣蔵」です。
あの話には、四十七士の他にも、いろいろな人物が登場しますが、当事者以外で関わりのあった人々のことが「義士外伝」として残っています。その中の有名人が、赤穂浪士のひとり、杉野十平次に槍を教えたとされる、俵星玄蕃です。本所横網町(よこあみちょう)=現在の墨田区横網に道場を構え、宝蔵流(ほうぞういんりゅう)の遣い手として知られていました。

ある日、「槍を習いたい」と、町人姿の入門志願者が現れます。実はこれが杉野十平次で、夜鳴きそば屋をしながら、密かに吉良邸の様子を探っていました。しかしこの杉野は、残念ながら武術のほうはからきしダメで、これでは討ち入りの時、同志に迷惑をかける…ということで入門したのです。さすがは名人・俵星。すぐに、この町人の正体を見抜き、すべてを知った上で、杉野に槍の極意を教え込むのです。

そして元禄十五年十二月の十四日。討ち入りの陣太鼓の音に目覚めた俵星は、槍を手にして吉良邸に向かいます。すると、ひとりの武士が駆け寄ってきました。ここで初めて杉野は名乗り、礼をいいます。この後、玄蕃は両国橋に向かいます。槍の名人・俵星玄蕃は、降りしきる雪の中、討ち入りの邪魔をする者は一人も通さぬ…と仁王立ち。いい場面です。泣かせます。でも、実は全く架空の人物なのです。でも、よく出来た話です。陰ながら赤穂浪士の応援をするという、これまた江戸っ子好みの人物です。戦後は、三波春夫が熱演した「俵星玄蕃」が大ヒットしました。



1月20日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「助六」をご紹介します。

歌舞伎十八番のうち「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)は、華やかで有名なセリフも多く、たびたび上演されます。主人公は助六で、通称・花川戸助六です。江戸っ子の代表とされ、日本一の色男という役で、男気と格好のよさを売りにしている助六は大変モテました。本人が自慢して言うように、キセルの雨が降るほどの人気ですが、実は、あだ討ちの大望を抱いている…という設定になっています。

「助六」が初めて上演されたのは、1713年(正徳・せいとく・3年)とされています。3年後に演じられた時には、助六は実は曽我の五郎という設定が加えられていて、現在のものに近くなっています。演じたのは、二代目市川団十郎で、武士に対抗する江戸の庶民の理想像を描いた点が、人気を集めたのでしょう。

さて、男伊達・助六が住んでいたのは、花川戸=現在の台東区花川戸1丁目、2丁目です。
江戸時代、このあたりは隅田川の水運を生かして、蔵前などと同じようににぎわっていました。町人の代表・助六が住むのに相応しい場所だったようです。現在、花川戸の中央には「台東区立・花川戸公園」があり、公園の一画に、助六歌碑があります。これには、九代目市川団十郎が作った歌が書かれています。

助六に ゆかりの雲の 紫を 弥陀の利剣で 鬼は外なり

1879年(明治12年)に作られた歌碑が、40年ほど前にここに移されたものです。花川戸公園の最寄り駅は、東武伊勢崎線の浅草駅、東京メトロと都営地下鉄の浅草駅です。助六が実在の人物だとする説もありますが、どうやら、庶民の願望が生み出したスーパースターだった、と考えるのが正しいようです。



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