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1月2日(月)〜1月6日(金)今週のテーマは、「新春寄席案内」 お正月の華やかな気分を味わうにはうってつけの場所、都内の「寄席」をご紹介します。
1月2日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
1月3日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
コーナーはお休みしました。
1月4日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「上野・鈴本演芸場」をご紹介します。
正月気分を味わうには、寄席が一番です。
三が日の休みが終わった後も、十日まではおめでたい「初席」で、落語、漫才、奇術、紙切り、太神楽…と、普段の寄席と比べて倍近い数の芸人さんたちが、次から次へと高座に上がり、場内は笑いに包まれます。客席には晴れ着姿のうら若い女性も目立ち、なんとも華やかな雰囲気が漂うのが寄席のお正月です。
戦前には東京市内のそれぞれの町ごとに一軒は寄席があったと言われていますが、ラジオやテレビの普及、また娯楽の多様化と共に、一軒、また一軒と姿を消していき、現在、年間を通して演芸を見ることのできる寄席は、上野、浅草、新宿、池袋に四軒を残すのみとなっています。
その貴重な文化遺産の四軒の中で最も歴史の古いのは、上野・鈴本演芸場です。上野から御徒町方面へ、正月の人出で賑わう広小路をのんびり歩いていきますと、ほどなく右手に、噺家さんの名前を染め抜いた、賑やかな「のぼり」の立ち並ぶビルが見えてきます。そこが鈴本演芸場です。
鈴本の歴史は1857年(安政4年)にまでさかのぼります。この年、上野広小路に「本牧亭」という講釈場がオープンしました。「本牧亭」の名前の由来ですが、当時は不忍池が現在よりも広く、上野の岡が池に張り出している眺めが、どこか横浜を思わせると言われていました。そして近所に「金沢」という有名なお菓子屋さんがあり、横浜で金沢があるのなら、このあたりは本牧だろう…と、シャレでつけた名前なのだそうです。
その後明治になってから、経営者の「鈴木」さんの「鈴」と、「本牧亭」の「本」を合わせて「鈴本」という名前になった、というのが「いわれ」です。お酒を片手に華やかな初席の雰囲気に酔って、寄席がハネたら不忍池を散歩…というのもいいですが、飲みすぎて池に落ちてはシャレになりませんから、御用心ください。
1月5日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「新宿・末広亭界隈」をご紹介します。
地下鉄・新宿三丁目の駅から、伊勢丹デパートと明治通りをはさんだ反対側に出て、路地を曲がっていくと、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような、古色蒼然たる建築が目に飛び込んできます。ここが都内の寄席で唯一、ビルの中に入っていない、情緒たっぷりの建物「新宿・末広亭」です。
寄席がオープンしたのは1897年(明治30年)で、最初は「堀江亭」という名前で、明治通り沿いで営業していたそうですが、後に浪曲師の末広亭清風という方が買収して、「末広亭」と改名され、浪花節の定席となりました。
昭和に入ると落語中心の寄席となりますが、1945年(昭和20年)6月1日の空襲で焼失してしまいます。しかし、戦後間もなく、翌年には現在の建物が再建され、そして今日に至るというわけで、あの見事な末広亭の建物は、今年で築、満60年というわけです。
この末広亭の特徴は、昔ながらの建物らしく、桟敷席が用意されていることです。一階の椅子席の両側、ちょっぴり傾いた桟敷であぐらをかき、のんびり落語や漫才を楽しんでいると、果たして今は本当に21世紀なのか…そんな奇妙な感覚が湧き上がってくること必定です。
古今亭志ん生師匠が亡くなられたのは1973年(昭和48年)ですから、今年で没後33年です。それでも、落語関係のCDではダントツの売上を誇っています。志ん生師匠は、数限りないエピソードを残されていますが、末広亭で有名なのが、「高座で寝ちゃった事件」です。
何よりもお酒が大好きだった志ん生師匠ですから、酔っ払って楽屋入りするなど日常茶飯事でした。その日も、い〜い気持ちになって末広亭までやって来ましたが、いざ出番となり、高座に上がって、おなじみの「え〜」とやり始めた途端、下をむいてイビキをかき始めた。楽屋に詰めていた噺家さんたちが慌てて、こりゃいけねえ、志ん生師匠が寝ちまった…と、起こそうとしたのですが、客席にいた人たちが口ぐちに、「いいよいいよ、寝かせておけ」「志ん生の寝姿なんて、見たくったって見られやしねえや」と止めるものですから、師匠は、いつまでも、いつまでも、船をこぎ続けていたというお話です。
1月6日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「浅草」「池袋」をご紹介します。
東京の盛り場といえば、皆さんはどこを思い浮かべるでしょう。
新宿、渋谷、銀座…パッと名前が上がってくるのは、このあたりではないでしょうか。
しかし、戦前の盛り場といえば、何といっても「浅草」です。もちろん今でも、連日たくさんの人出で賑わう場所には違いありませんが、空襲で焼け野原となるまで、浅草の繁栄は、いまの渋谷、スクランブル交差点どころではなかったそうです。
この浅草で、寄席の看板を守り続けるのが、歓楽街、六区のまん真ん中にある「浅草演芸ホール」です。とはいうものの、その歴史は意外に新しく、寄席になったのは1964年(昭和39年)のことでした。当時は映画の全盛期で、このあたりも端から端まで映画館が軒を連ねていましたが、大衆演芸のメッカである浅草に演芸場がないのはいかがなものか…と気運が高まり、やはり映画館だった「東洋劇場」が寄席に衣替えしたのが、「浅草演芸ホール」です。
ハッピ姿のスタッフの皆さんが笑顔で呼び込みを行っているのが楽しい寄席ですが、はとバスの観光コースにも組み入れられているため、いろいろなお客様が入れ替わり立ち代わり覗いていくのも、浅草ならではの風情です。
六区を後にして雷門まで歩き、「草63」系統のバスに乗り込みます。三ノ輪、西日暮里、千駄木、巣鴨とげぬき地蔵を通って、終点は「池袋東口」です。JRのガードをくぐって西側に出れば、池袋演芸場はすぐ目の前です。
池袋の中でも、猥雑な空気の漂う西口の駅前ロータリーからほんのちょっと入ったビルの地下に、池袋演芸場はあります。
オープンしたのは1951年(昭和26年)のことで、途中、1990年(平成2年)から3年半ほど、改築のため休業したことがありましたが、1993年(平成5年)に現在の建物が完成しました。それ以来、池袋唯一の寄席として演芸ファンに親しまれています。ほかの3ヶ所の寄席と比べて、椅子席のみ93席と規模が小さく、目の前で芸人さんたちの息遣いが味わえるのがこの演芸場の強みなのだそうです。
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