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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
11月28日(月)〜12月2日(金)今週のテーマは「消えた東京名所」
今では見ることが出来なくなった懐かしい東京名所をご紹介します。


11月28日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、台東区浅草にあった「国際劇場」をご紹介します。

興行街として浅草六区が人気を集めていた1937年(昭和12年)、少し離れた場所に「東洋一」の規模を誇る巨大な劇場が完成しました。それが、国際劇場です。
座席数4,000、地上4階、地下1階の堂々とした建物で、SKD、松竹歌劇団の前身・松竹少女歌劇団の本拠地です。男装の麗人、ターキーこと水の江滝子をトップに、下町のファンに支持され、その後も、川路竜子・小月冴子(おづき・さえこ)・草笛光子・倍賞知恵子などのスターを生み出したのはご存知の通り。

空襲で内部が焼けたものの、1947年(昭和22年)には復興して開場、再び東京名所となりました。華やかなアトミックガールズのラインダンスと、大きな舞台を活かした屋台くずしは人気を集めました。外国人観光客や修学旅行生も含め、連日満員。地下鉄の最寄り駅・田原町の乗降客数が、浅草駅より多かったことからも賑わいぶりがうかがえます。SKDの公演と映画上演の組み合わせと並ぶ人気だったのが、スターの実演。三橋美智也や森進一といったスターが大勢のファンを集めたのです。

中でも、極め付きは、美空ひばり。1952年(昭和27年)から14年間、最も重要といわれた正月興行を続けたんです。元旦から千秋楽まで満員御礼が続き、浅草の街も恩恵を受けて潤いました。まさに、良き時代の大スターでした。
しかし、昭和30年代後半になると、ショーや映画の人気は下がってきます。こうなると、4,000席の大きな客席が裏目に出ます。加えて、建物の老朽化が進み、新しい消防法の条件を満たすことが出来なくなってきました。ついに1982年(昭和57年)、劇場は閉鎖に追い込まれてしまいます。
国際劇場は取り壊され、跡地には1985年(昭和60年)9月、浅草ビューホテルが開場しました。閉鎖の4年前に作られた「男はつらいよ」の第21作「寅次郎・わが道をゆく」には国際劇場の客席や楽屋が登場しています。

今年8月に開通した「つくばエクスプレス」の浅草駅を出ると、広い通りが見えます。
これが、国際通り。かつての東洋一の大劇場にちなんでつけられています。



11月29日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、下町の名物「お化け煙突」をご紹介します。

1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受けた東京市。
復興が軌道に乗ってくると、電力の需要が大きく増えました。そこで、当時の東京電灯、現在の東京電力が、東京の下町に新しく発電所を作ったのです。現在の地名で、足立区千住桜木2丁目のあたりで、運転開始は1926年(大正15年)です。高さ84メートルの煙突が4本、菱形に建てられました。そのため、見る場所によって、1本、2本、3本、4本と違って見えたのです。高い建物などなかった時代のこと、たちまち下町のシンボルとなり、「お化け煙突」の名で親しまれました。
一説には、この発電所は電力が不足した時に発電する予備の発電所で、時々思い出したように煙を吐くことから、「お化け」の名が付いたともいわれます。

この煙突は、実に40年近くも利用されました。戦前から戦後の映画に、たびたび登場し、田中絹代・高峰秀子・吉永小百合などの作品でも重要な役を演じています。
お化け煙突を眺めるのには、電車が便利でした。京成電車や、当時の国鉄、現在のJR常磐線に乗ると、窓の外に見える煙突の数が次第に変わっていくのが見えたものです。
名物煙突も、日本が高度成長を迎えるころにはすっかり古くなってしまいました。そしてオリンピックの年、1964年(昭和39年)に解体され姿を消しました。

煙突の一部は、今でも役に立っています。
発電所の跡地の近くにある足立区立・千住双葉(ふたば)小学校の校庭に、ちょっと変わった滑り台が置かれています。これは、あの解体された煙突の再利用で、下町のシンボルが、児童たちの遊具に変身しているのです。

台東区・浅草にある「TEPCO浅草館」で、お化け煙突の映像と模型を見ることが出来ます。
TEPCO浅草館は「つくばエクスプレス」の浅草駅から徒歩1分のところにあります。



11月30日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、日本の高度成長を実感させてくれた「晴海国際見本市会場」をご紹介します。

1950年代。戦後の復興が一段落すると、わが国は本格的な成長期を迎えます。

輸出を増やすために、見本市を開こう!
会場として、都心に大手町産業会館が作られ、第1回の国際見本市が開かれました。1955年(昭和30年)のことです。外国人バイヤーがおよそ2,000人来場し、成約金額20億円と大成功でした。
たちまち規模は大きくなり、手狭になりました。そこで、第3回からは晴海に第2会場を設け、戦前に計画され、中止になった万博会場の予定地を利用したのです。第5回からは、晴海のみで開かれるようになりました。
外国では、「見本市」は商談の場と考えられているのですが、わが国では「PRの場」として始まり、たくさんの人が会場を訪れたのです。1967年(昭和42年)第7回の来場者は、空前の280万人を記録しました。

晴海見本市会場のシンボルは、ユニークな外観で知られた東館でした。間口107メートル、奥行91メートルの柱のない広い空間には驚かされたものです。
国際見本市と並んで人出が多かったのが、「モーターショー」でした。1959年(昭和34年)の第6回から、晴海に会場を移しました。この年の入場者は65万人、入場料は…50円でした。

晴海の見本市会場にはウィークポイントがありました。
それは、交通の便が悪いこと。晴海通りの渋滞は日常茶飯事で、最寄り駅である当時の国電・有楽町駅から晴海まで歩く人も多かったのです。
時代は移っていき、輸出だけでなく、輸入を増やすことも必要になり、見本市も広いジャンルではなく、特定の業種を対象にした専門見本市へと変わっていきます。加えて、臨海副都心構想が浮上してきました。これは、都心と周辺部を活性化するために、必要な施設を都心の周辺部に分散しよう…というプランでした。

設備が古くなった晴海に代わって、有明に新しい国際展示場を作ることになり、1995年(平成7年)、40年間にわたって親しまれた晴海見本市会場は閉鎖され、取り壊されました。新しい施設であるビッグサイトが開業したのは、1996年(平成8年)4月1日のことでした。
現在、晴海の跡地には、中央地区清掃工場が建てられ稼動しています。夢のある新商品や、新しい生活を教えてくれた、あの華やかな見本市会場をしのばせるものはありません。



12月1日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、渋谷でひときわ目立つ存在だった「東急文化会館」をご紹介します。

渋谷駅前。戦前は小学校があった場所を、東急電鉄が東京市から買い取ったのは、1943年(昭和18年)。太平洋戦争が激しさを増してきた時期でした。
戦後の混乱期が過ぎた頃、ここに大きなビルが建てられました。地上8階、地下1階の東急文化会館です。オープンは、1956年(昭和31年)12月1日で、この建物はそれまでの渋谷の街のイメージを大きく変えました。4つの映画館、ホール、お洒落な飲食店などがありましたが、なかでも注目されたのが、屋上のドーム、プラネタリウムでした。

当時は、ソ連の人工衛星が打ち上げられ、宇宙に関心が集まっていた時代で、ビルの完成から半年ほど遅れて開業したのですが、連日たくさんの人が押しかけました。およそ500席の「五島プラネタリウム」は、年間入場者が40〜50万人になる人気スポットになったのです。ドームの直径は18メートルあり、高い建物が少ない頃だったので、目だちました。

このビルにいると、流行の最先端にいることが出来ました。たとえば、映画。
1,119席を持つ映画館、渋谷パンテオンでは、「大脱走」「スティング」はるか後に「E.T」などがヒットし、都内有数のロードショー館として人気があったのです。渋谷の街が、銀座や日比谷と並ぶおしゃれな街になったのには、東急文化会館が大きく影響したのではないでしょうか?

最先端のビルも、やがて老朽化が進みます。
映画館も華やかさを失い、プラネタリウムも珍しいものではなくなり、2001年(平成13年)、8階のプラネタリウムは閉鎖されました。東急文化会館も、渋谷の駅前の再開発に備えて姿を消すことになり、2003年(平成15年)6月末、閉鎖され、取り壊されました。



12月2日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、有楽町のランドマークだった「日劇」をご紹介します。

日劇が完成したのは、1933年(昭和8年)のこと。巨大な映画館としてスターとしたのですが失敗し、1935年(昭和10年)に、東宝系の劇場として再スタートを切りました。外観がユニークでしたね。円筒で、なんだか王冠に似ていませんでしたか?
興行の世界でライバルの松竹と激しい競争をしていた東宝は、日劇で映画とショーの二本立て興行を採用、「入場料五十銭均一」を打ち出して大成功を収めました。

翌年1936年(昭和11年)には、後の日劇ダンシングチーム(NDT)の前身となる初の専属舞踊団が発足します。一期生には、後に女優になった丹下キヨ子がいました。当時の都心部には20万人ほどのサラリーマンが勤務していたようで、彼らが、都会的で洒落た日劇のファンになっていきました。

戦前の人気のほどを知るエピソードが、「日劇七回り半事件」。
1941年(昭和16年)2月11日、人気女優・李香蘭(り・こうらん)、日本名・山口淑子が出演した際、入場を待つファンの列が劇場を何重にも取り巻き、警官が出動した…という事件でした。やがて、戦争が激しくなり、劇場は閉鎖されます。その後、劇場の広い空間を利用して、アメリカ本土を攻撃するための兵器、風船爆弾が作られたのは、よく知られています。

戦後、日劇の舞台から生まれたブームと言えば、ロカビリー・ブーム。
ブームのきっかけは、1958年(昭和33年)2月公演の「第1回 ウエスタンカーニバル」でした。場内は悲鳴とテープが飛びかい、大いに盛り上がりました。そのほかにも、クレージーキャッツ・ドリフターズ・コント55号などが日劇の舞台で人気者になりました。
忘れてはいけないのが、日劇ダンシングチームの踊りです。レベルの高い踊りを見に来るファンも多かったのです。「春の踊り」「夏の踊り」「秋の踊り」…どれも東京名物になっていました。

映画が下火となり、建物が古くなると客足も遠のきます。
完成から50年近くたった1981年(昭和56年)、日劇は閉鎖され、姿を消しました。そして1984年(昭和59年)、隣にあった朝日新聞と共に、有楽町マリオンとして生まれ変わりました。
現在、日劇の名は、マリオンにある3つの映画館に引き継がれています。



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