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11月14日(月)〜11月18日(金)今週のテーマは「東京おさかなマップ」 都内各地の「おさかな」にまつわるエピソードをご紹介します。
11月14日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「さんま」の本場「目黒」をご紹介します。
おなじみの古典落語「目黒のさんま」をご存じの方も多いかと思いますが、かいつまんでストーリーをご紹介しましょう。
時は江戸時代。
秋晴れの一日、目黒のあたりに遠乗りに出かけたお殿さま、運動した後ですからそれはお腹がすきます。目に入った一軒の茶屋で食事を取ることになりました。そこで出てきたのが、見事な大振りの脂ののった「さんま」。ふだん、手の込んだお膳しか召し上がったことのないお殿さまですから、ただ塩を振って焼いただけ、ジュウジュウと燃えるようなさんまなど、見たことも聞いたこともありません。
こんな極上の美味があるのか…と、骨だけを残してきれいに平らげてしまいました。それからというもの、寝ても覚めても思い出すのはさんまの事ばかり。さんまが食べたい、さんまが食べたいと繰り返すお殿さまに、家来たちは「お殿さまにあんな下等なモノを食べさせるわけにはいかない」と、脂を抜き、骨を抜いて、ご丁寧に上品に蒸してお膳に乗せました。お殿さまにとっては待ちに待ったさんまでしたが、どうもあの時と形が違う、匂いが違う、味がしない。
「このさんまはいったいどこで誂えた?」
「魚河岸でございます」
「ああそれはいかん、やっぱりさんまは目黒に限る」
とてもよくできたお話ですが、実はこれ、本当にあったエピソードを元にして作られているんです。
JR目黒駅から、山手線の外側に出ると、そこは丘の上。目黒川に向けて、かなり急な坂道になっているのがわかります。今でこそ、たくさんのビルが立ち並び、景色などわかりませんが、見渡す限りの田園風景だった当時は、とても見晴らしのいい場所で、富士山がきれいに見える、それは風光明媚な土地だったんです。
この風景を愛して、歴代の将軍たちもしばしばこのあたりを鷹狩りに訪れました。そしてその際、「爺(じじ)ヶ茶屋」というお休み所に立ち寄ったという記録があり、「目黒のさんま」はどうやらこの話をもとに作られた落語のようです。
「爺ヶ茶屋」の名前は、最初にここを訪れた三代将軍・家光公が、茶屋の主人の純朴な人柄に魅せられ、「爺、爺」と親しみをこめて呼んだことに由来していると言われます。
今も昔も変わらない、私たち庶民の味・さんま。選ぶときのコツをお教えしておきましょう。
尻尾の付け根のあたりが黄色くなっているものを選んでください。これは体の中に脂がパンパンに溢れている証拠なんです。
お殿さまが召し上がった「目黒のさんま」もきっと尻尾が黄色かったのではないでしょうか。
11月15日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「金魚」をご紹介します。
実は東京・江戸川は、日本でも有数の金魚の産地なんです。
開発が進んで、養殖を手がける業者さんも随分減りましたが、質の高い金魚を生産することでは定評があり、金魚マニアの皆さんにとっては「江戸川」という言葉は、特別な響きをもって聞こえるんだそうです。もともと明治時代までは、金魚養殖の本場はもうすこし西寄りの本所、深川あたりでしたが、関東大震災のあと、金魚ブームが起きて需要が増えたために、さらに東の亀戸、大島、砂町あたりまで広がります。
しかしこのあたりは、どんどん都市化が進んだために、のんびりと金魚養殖などやっていられなくなってきて、次第に東京のイースト・エンド、江戸川に移ってきて、今日に至る…という次第。このあたりは、金魚を育てるにはぴったりの蓮田が多かった、そんな事情もありました。戦争中には食糧難から、エサ不足、さらには金魚など育てている場合ではない、そんな場所があるのなら米を作れ…とプレッシャーがかかり、貴重な品種が絶滅の危機に瀕したこともありましたが、関係者の皆さんの尋常ならざる努力の末、金魚たちの命は守られ、その伝統は今日まで受け継がれました。
金魚を飼うとき、ついシャレたデザインの金魚鉢に入れたくなるものですが、金魚の健康を考えるとあまりお勧めできません。上の方がすぼまった金魚鉢は、空気と接する部分がどうしても狭くなってしまうため、酸素が溶け込みにくくなり、金魚の寿命を縮めてしまいます。その昔、金魚を愛したのは、色町で働く遊女の皆さんだったそうです。自由を奪われ、どこにも逃げられない彼女たちにとって、僅かな小遣いで求めた金魚を眺めるのは、数少ない楽しみの一つでした。金魚を行商で売りに来た、というのは、外に出られない彼女たちがいいお得意さんだった…そんな事情もあるようです。
そこで登場するのが金魚鉢。実は、当時の金魚屋さんたちは、金魚鉢に入れると、金魚があまり長生きしないことを知っていました。金魚が亡くなると、寂しい遊女たちはまたすぐ次の金魚を買ってくるわけで、回転をよくして、次から次へと金魚を買ってもらうために、あのお洒落な金魚鉢は生まれた…とも言えるのです。
金魚を飼うコツは、まずエサをやりすぎないこと。
家に持ち帰ったあとも、すぐエサをやりたくなりますが、そこの水に慣れるまで、3〜4日は何も与えず、そのまま置いておくのがベスト。エサをやりすぎると、フンが出て水が汚れてしまうので、これが一番、よくないんだそうです。
11月16日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「どじょう」をご紹介します。
「どぜう」と書いて、どじょう。
味が一番いいのは夏場だと言われますが、どんどん寒くなってくるこれからの季節、ぐつぐつ煮えるどじょう鍋をつつきながら熱燗を飲むのも、体が芯からあったまって、これもまたいいものです。
「どぜう」というのは、旧仮名遣いかと思われがちですが、実はこれ、違うんですね。旧仮名遣いの原則からいえば、本当は「ど」「ぢ」「や」「う」の四文字を書いて「どじょう」と読ませるのが正解です。
それじゃなぜ、「どぜう」という書き方が生まれたのか。
これは江戸時代、現在も続くさる老舗のどじょう屋さんが、もらい火で焼けちゃったという事件がありまして、これは「どぢゃう」が四文字、縁起が悪いからではないかと考えた。日本では、縁起がいいのは奇数。お芝居、歌舞伎の題名にしても、みんな奇数が使われていましたから「どぢゃう」も何とか奇数、三文字か五文字で表すことができないものかと、当時ナンバーワンの看板書き職人さんに相談したところ、それではこれでいかがでしょう…と書き上げたのが、「どぜう」の三文字だった…と、こういう次第です。後には、江戸中のどじょう専門店がこの表記を使うようになって、現在に至っているそうです。
栄養たっぷり、スタミナをつけたい時にぴったりのどじょう。16世紀、明の時代の中国で著された「本草綱目」という漢方薬の本によれば、どじょうは「体を暖め、生気を増し、酒をさまし、痔を治し、さらに強精あり」とのこと、正にいいことずくめです。
スタミナをつけたいとき、私達はすぐ「うなぎ」を思い浮かべますが、実はどじょうとうなぎ、タンパク質の量は同じくらいですが、ビタミンB2、D、カルシウム、鉄分などはどじょうの方が多く、さらに丸鍋なら骨ごと食べてしまいますから、カルシウムはうなぎの十倍も取れることになります。江戸でもナンバーワンのアミューズメント・センター、吉原をすぐ後ろに控える浅草に、どじょう料理の店が軒を連ねているというのも、納得がいく話でございます。
そんな一軒、合羽橋の「どぜう飯田屋」さんにお邪魔しました。
どじょう鍋、皆さんもご存じのように何種類かありまして、いちばんポピュラーなのが、まるごといただく「まる」、「どぜう鍋」。それから食べやすく骨を除いた「骨抜き」、さらにはささがきゴボウに乗せて卵でとじた「柳川」。飯田屋さんの風情あふれる籐敷きの座敷で、出来立てのアツアツをいただくと、どれもこれもおいしくて、きっと全種類、食べたくなってしまうはずです。
11月17日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「カツオ」をご紹介します。
ホトトギスの声は、俗に「テッペンカケタカ」と鳴くと言われておりますが、そんな風に聞こえますでしょうか。
「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」
半年ほど季節がズレておりますが、江戸時代の俳人、山口素堂が初夏の風物を読んだ有名な一句です。
江戸っ子は女房を質に入れても初鰹を食べた、と言われております。ところが、鰹が本当においしいのは、いったん北上した後、再び太平洋を南下してくる今ごろの時期とも言われます。
ではなぜ、江戸っ子は大枚を投じて、さほど脂ののっていない初鰹を求めたのでしょう?
これはやはり、初モノを食べたいという人間の自然な欲求に基づいていると考えるのがよさそうです。今では、野菜はハウス栽培、魚も冷凍技術が発達して、どんな食べ物でもほぼ一年中出回るようになっていますが、その昔は野菜も魚も、その時期にしか食べられませんでした。たとえば初鰹を例にとって言うならば、「ああ、今年も、鰹の季節を無事に迎えることができたなあ」と、そんな思いが根っこにはあるのでしょう。
もうひとつは味に対する好みの問題もあります。
たとえば、いま「マグロ」といえば、大トロ、中トロ、脂ののった濃厚な味が好まれますが、江戸時代に愛されたのは、なんといっても「赤身」。江戸っ子は淡白な味が好きでした。それでカツオにしても、ねっとりとした戻りガツオよりも、上品な味の初ガツオを好んだものと思われます。
それにしても、一本が一両とも二両とも言われる初ガツオ。深川を舞台にした歌舞伎の名作「髪結新三」にも、一心太助のようなスタイルの魚屋さんが初ガツオを売りに来て、主人公の小悪党、新三が迷わずそれを求める場面がありますが、その値段が三分といいますから、実に一両の4分の3、現在の感覚でいえば、5万円ぐらいということになりましょう。こんな高価なものを、裏長屋の庶民が競って買い求めたというのは、文化が成熟して、人々が日常生活を楽しむ余裕が生まれた証拠。お金持ちになってくると、人より一刻も早く口にしようと、鎌倉や小田原まで競って馬を飛ばし、上がったばかりのカツオを買い付けたといいますから、その熱狂ぶりは尋常ではありません。
…とこんな話をしていると、バブルのころの、ボジョレー・ヌーボー騒ぎを思い出しませんか?今も昔も、日本人が初物好きなのは変わりがないようです。
今年のヌーボー解禁は、奇しくもきょう十七日。今夜は戻りカツオをつまみに、初物のヌーボーはいかがでしょう。寿命が七十五日、伸びるかもしれませんよ。
11月18日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、甘くてオイシ〜イ「たいやき」をご紹介します。
日本のヒットチャートの歴史の中で燦然と輝く、歴代売上ナンバーワンといえば、実に450万枚あまりを売り上げた、子門真人さん歌うところの「およげ! たいやきくん」ですね。
水で溶いた粉の生地を型に流し込み、真ん中にアンコを入れて焼き上げるこのタイプのお菓子のルーツは「今川焼」。江戸時代後期、神田・今川橋あたりで生まれたところから、この名前がつきました。桶狭間の合戦で、あっというまに織田信長に敗れ、戦死した今川義元にひっかけた、「たちまち焼ける今川焼」というキャッチフレーズは、昭和の始めまで下町ではおなじみだったとか。
明治以降、この今川焼きにさまざまなバリエーションが生まれていくことになりますが、そのひとつが「たいやき」。ある今川焼のお店で、なかなか庶民の口には入らない高級魚の「鯛」の形をしたお菓子をこしらえてみよう…と、遊び心で試しに作ってみたところ、これが大当たり。あっというまに東京中に広がり、木枯らしが吹き始めるこの季節に、なくてはならない風物詩となったのです。
東京にたいやきの名店が数ある中で、我が文化放送が取り上げるとなると、やはりこちらしかないでしょう。
同じ若葉町に店を構え、始終行列の途切れない名店「わかば」。最近では、タテ一列に何匹もズラリと並んだ、長方形の焼き型が多い中で、こちらのお店では、一匹ずつの型を使う、昔ながらのやり方でおいしい鯛焼きを作り続けています。
炭火で一匹ずつ、丹念に焼き上げられるたいやき。この「わかば」が有名になったのは、1953年(昭和28年)のこと。まだ戦後間もない、それほど物資も豊富でない時代に、しっぽまでギューッとアンコがつまったたいやきを売っていたところ、ご近所に住んでいた演劇評論家で、後に直木賞作家にもなった安藤鶴夫さんが感動。新聞のコラムに「尻尾までアンのつまった誠実さ」とホメまくり、それ以来、全国各地から甘い物好きがひっきりなしに訪れる繁盛店となったのです。
これからの季節、身も心もホカホカに暖めてくれるたいやき。一匹、わずか126円で手に入る幸せです。
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