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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
10月24日(月)〜10月28日(金)今週のテーマは「横浜はじめて物語」
おしゃれな街・横浜から始まった「あれこれ」をご紹介します。


10月24日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「競馬場」をご紹介します。

昨年のJRA(日本中央競馬会)の売り上げは、およそ3兆円!
すっかりお馴染みになった競馬ですが、実は横浜から始まったんです。日本が開国したのは1859年(安政6年)で、外交官や商人、軍人など多くの外国人が新しい街・横浜に住み始めました。
ところが、何しろ出来たばかりの街ですから、社交の場も娯楽も少なく、そこで始まったのが、競馬でした。今では信じられないことですが、現在の元町や中華街のあたりにコースを作って競馬を楽しんでいた、と古い記録に残っています。決まった場所でなく、転々とするのは不便…というわけで、街から離れた根岸の丘の上に、わが国最初の本格的な洋式の競馬場が作られました。完成したのは、1866年(慶応2年)のことです。

明治時代になると、横浜駐在の外交官や商社員などに加え、日本人では政界や財界の大物たちが訪れています。現在のG1レース、天皇賞のルーツは、この根岸競馬場なのです。1930年(昭和5年)、17,000人収容の新しいスタンドが完成し、全盛期を迎えます。当時の馬券、勝ち馬投票券は1枚20円。現在の貨幣価値で5万円ほどです。入場料は一等スタンドが5円、二等スタンドが2円でした。競馬場は上流階級の社交場として定着し、近隣や横浜の繁華街への経済効果も大きかったようです。

ところが、1943年(昭和18年)6月、戦争が激しさを増す中、競馬場は閉鎖されてしまいました。戦後はアメリカ軍に接収され、ゴルフ場や駐車場として使われました。1977年(昭和52年)、返還された部分が根岸森林公園および根岸競馬記念公苑として公開され、いまでは市民の憩いの場として親しまれています。

公苑の一画にあるのが「馬の博物館」では、幕末から87年間にわたる根岸競馬場の歴史を紹介した展示をはじめ、馬の進化、人間と馬のかかわりの歴史、さまざまな馬具などを見ることが出来ます。
根岸競馬記念公苑、そして馬の博物館の最寄り駅は、JR根岸線の根岸駅です。



10月25日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「アイスクリーム」をご紹介します。

アイスクリームを辞書をひくと、「牛乳などを原料にして、冷やしながらかせ混ぜてクリーム状にした菓子」と書いてあります。中国で発明されたとも、イタリアで考えられたとも言われています。
日本人で最初にアリスクリームを食べたのは誰だったんでしょう?
江戸時代も末、幕府がアメリカに派遣した使節団の一行だった、という説が有力です。

1869年(明治2年)横浜・馬車道に、わが国初のアイスクリーム店が開店しました。
当時の呼び名は「あいすくりん」。さまざまな新しいビジネスに取り組んだ町田房蔵(まちだ・ふさぞう)が始めたものでした。値段は金2分(50銭)、今の金額で5,000円ほどでしょうか。とても高価なものでしたが、物珍しさで店の前はいつも人だかりがしていた、と当時の新聞でも報じられています。

明治時代の後半、東京・銀座にアイスクリームを売る店が出来て人気を集め、大正時代中ごろには家庭でも味わえるようになりました。
さらに、昭和10年代になると、お馴染みの自転車のアイスクリーム売りも現れ、夏の風物詩となりました。

戦後、アメリカ軍が持ち込んだソフトクリームが大ブームとなります。高度成長期を迎え、冷蔵庫や冷凍庫が身近なものになり、スーパーやコンビニが登場して消費量はうなぎのぼりとなり、商品の種類も増え、暖房設備が普及したために、年間を通じて売れる商品になりました。
現在、日本のアイスクリーム消費量は、アメリカ・中国についで世界3位です。ちなみに、「アイスクリームの日」は5月9日です。
「アイスクリン」が始めて売り出された横浜・馬車道には、日本アイスクリーム協会が建てた「太陽の母子像」があり、発祥の地を示しています。



10月26日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「街路樹」をご紹介します。

江戸時代、参勤交代の大名行列や旅人が、東海道をはじめとして街道を通行していました。
街道沿いに松並木や杉並木が多かったのはご存知の通り、日よけになったり、風をやわらげてくれたり、役に立っていました。ところが…、大きな都市では、道路に木を植えることはありませんでした。江戸時代が終わり、明治時代になっても、相変わらずでした。きっと、商売優先だったのでしょう。

開港の舞台となった横浜も同じ状況でした。
活気はあるものの、さぞ殺風景な景色だったことでしょう。そこで、横浜の商人たちは考えました。相談して、当時の目抜き通り・馬車道に柳と松を植えることにしたのです。江戸時代最後の都市、1867年(慶応3年)のことでした。木を植える費用は、通りの両側の商店が負担して、緑のある落ち着いた街並みを作り出したのです。

散歩を楽しむ外国人も増えて、通りはさらに賑わいをみせていきました。外国の進んだ文明が溢れていた当時の横浜には、全国から見物人が押し寄せていました。その中には、各地の視察団もまじっていたことでしょう。
「これはいい!」と考えた人が多かったのか、横浜・馬車道から始まった街路樹は、日本各地で取り入れられていったのです。

落ち着いて街並みになり、通行人も日陰が出来て助かり、防災にも役立つ、本当に街路樹の効用は大きいのです。
案外知られていないことですが、日本で最初に街路樹を植えた街、それが横浜です。
JR根岸線・関内駅の近く、馬車道の一角に「街路樹発祥の地」の碑が建てられています。



10月27日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「ガス灯」をご紹介します。

開国から10年あまりの間に、実に多くの西洋文明が日本に入ってきました。横浜はその窓口であり、またショールームの役割も果たしていたのです。
1872年(明治5年)横浜、中心地の大江橋から馬車道、そして本町(ほんちょう)通りにかけて、十数本のガス灯の設置工事が完了し、いよいよ点灯されることになりました。日本人が初めて見るガスの灯火(ともしび)です。

ガス灯の明るさは、どんなものだったんでしょうか?
ガス灯は19世紀はじめに発明され、ヨーロッパやアメリカの都市では街灯として広く普及していました。現在の明るさにすると15ワットほどでしたが、ロウソクや行灯しか知らなかった当時の人々にとっては、驚くばかりの明るさに思えたことでしょう。

横浜のガス灯設置は、現在も地名に名を残している高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)が強くはたらきかけ、フランス人技師プレグランの指導で実現しました。
ガス灯が設置された9月29日は、新暦では10月31日になります。現在、横浜でわが国初のガス灯がともったことを記念して、10月31日は「ガスの日」に制定されています。横浜のガス灯設置は続けられ、2年後にはおよそ200本のガス灯が並び、文明開化の明かりを見物する人で街はにぎわいました。なお、東京の京橋から金杉橋にかけてガス灯が設置されたのは、2年後の1874年(明治7年)のことでした。

横浜のガス灯は、柱の部分はイギリスから輸入し、明かりがともる部分は日本の職人の手作りだったそうです。現在、横浜の中心地には、およそ80本のガス灯が設置されています。昔の資料を頼りに復元されたものも含め、毎晩点灯されています。
明治時代の人々と同じように、ほのかな明かりを楽しむ人の姿も見られます。



10月28日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「波止場」をご紹介します。

1858年(安政5年)、日米修好通商条約を結んだ幕府は、開港地となった神奈川から少し離れた横浜村に港を作ることを決めました。人口数百人の横浜村に、人と貨物の積み下ろしをするために二本の波止場を作りました。日本のうち、外国人の上陸や貨物の積み下ろしに使われた波止場は「イギリス波止場」と呼ばれました。
翌1859年(安政6年)6月2日、横浜港は開港の日を迎えました。この日は、現在「横浜開港記念日」になっています。4年後の2009年には、開港150年を迎えます。

あわただしく作られた横浜港でしたが、船を直接岸につけるような設備はなく、沖に錨をおろし、ハシケと呼ばれる小船で人や貨物を運ぶ…という状態が長く続きました。
本格的な桟橋が出来たのは、実に35年も後のことでした。1894年(明治27年)、長さおよそ457メートル、幅19メートルの立派な桟橋が完成しました。4,000トン級の船なら、一度に6隻も接岸出来たほどの立派な施設でした。鉄桟橋と呼ばれて親しまれたこの桟橋は、1923年の関東大震災で崩れ落ちるまでの30年間、横浜港のシンボルとして働き続けました。震災の被害は、すばやく復旧され、拡張と改良が繰り返されました。

2002年(平成14年)現在の大桟橋が完成し、長さ483メートル、幅は、何と100メートルもあります。今日では6万トンもある巨大な船がとまっています。機能的に設計され、しかも美しい横浜港の景色を楽しめます。なかでも、夜景はとても見事です。
ブームになっている豪華客船のクルーズも横浜を抜きにしては語れません。実はこの大桟橋のある場所は、最初にご紹介した二本の波止場があった場所なのです。小さなハシケで人や貨物を運んでいた波止場が、現在は3万トンの船が4隻もとまれる巨大な桟橋に変わっているのです。

小さな村が、現在の人口358万人の大都市に成長しました。



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