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PART1 くにまる東京歴史探訪
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9月5日(月)〜9月9日(金)今週のテーマは「山手線 盛り場今昔物語」
山手線の駅近くに広がる盛り場、5ヶ所をピックアップしてその「いにしえの姿」をご紹介します。


9月5日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
初日の今日は、「新宿・歌舞伎町界隈」をご紹介します。

日本を代表する歓楽街、新宿・歌舞伎町。
現在、「親子で歩ける健全な街を取り戻そう」と、国や都が推し進める、徹底的な「浄化作戦」によって、違法風俗店などが次々に閉店へと追い込まれていますが、その賑わいぶりは相変わらず、たいしたものです。
「歌舞伎町」という町の名前ができたのは、実は以外に新しく、1948年(昭和23年)のこと。1945年(昭和20年)の空襲により、このあたり一帯も焼け野原となりましたが、戦後、「町の真ん中に大きな歌舞伎専用劇場をつくり、これを中心に映画館や劇場などを集め、家族揃って楽しめる健全なレジャーゾーンにしよう」と地元の人たちが復興計画をまとめ、そこから町名がつけられました。
歌舞伎専用劇場の名前も「菊座」と決まり、4階建ての立派な建物が建てられる予定になっていましたが、戦後の困難な経済事情や、連合軍に大きな建物の建設を禁じられるといった事情もあって、計画は頓挫。
しかし、後に、街の真ん中にはコマ劇場が建てられ、周辺にも大きな映画館や娯楽施設が次々に誕生します。
さらに、以前は高田馬場が終点だった西武新宿線が、1952年(昭和27年)、都バスの車庫跡地に「西武新宿」駅を建設し、新宿乗り入れを果たします。新宿・歌舞伎町は、戦災を受けた都内の盛り場でもいち早く活気を取り戻して、東京復興のシンボル的存在となりました。

明治時代、現在の歌舞伎町一帯は、元九州大村藩の藩主、大村家の別邸があったところ。鬱蒼とした森と大きな池が広がっていて、鴨の狩猟場(しゅりょうば)、鴨場(かもば)として有名な場所だったのです。
後に森は伐採され、池も埋め立てられて、大正の始めごろには、だだっ広い野原となっていましたが、1920年(大正9年)、ここに東京府立第5高等女学校、現在の都立富士高校が作られ、文教地区として新たな一歩を踏み出しました。
しかし、空襲により学校は焼け落ち、そのまま移転。その跡地に、世界でも有数の歓楽街が建設されたわけです。
鴨の群れ飛ぶ森から、清らかな乙女の学ぶ女学校へ、さらに欲望渦巻く歓楽街へ。わずか百年で、これだけ激しく性格を変えた土地も、ちょっと珍しいのではないでしょうか。



9月6日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「池袋」をご紹介します。

東武東上線、西武池袋線。埼玉へ向かう2つの私鉄のターミナルとして賑わう池袋。
その昔、このあたりには池が多く、中でもホタルと月の名所として知られた「丸池」は窪地となっていて、その地形があたかも袋のようだったことから、「池袋」の地名がついたと言われています。
池袋東口から10分ほど歩けば、サンシャイン・シティ。
1978年(昭和53年)に完成した当時、日本一の高さを誇ったビル、240メートルのサンシャイン60を中心に、ショッピングセンターやホテル、劇場などが集まった複合施設ですが、再開発が始まる前、ここには「巣鴨プリズン」がありました。
巣鴨プリズンは、連合国によって裁かれた戦争犯罪人、いわゆる「戦犯」が収容されていた監獄です。
池袋に近いのに「巣鴨」と名付けられているのは、このあたりがその昔「巣鴨村」だったから。巣鴨プリズンは、もともと警視庁の監獄として設置され、1937年(昭和12年)からは東京拘置所として使用し、終戦後、連合軍に接収されました。
戦犯は、侵略戦争を計画・遂行したとされるA級、そして捕虜虐待などの罪に問われたB級、C級に分かれ、この巣鴨プリズンではそのうちA級戦犯7人を含む、60名への死刑が執行されました。
現在、その場所は東池袋中央公園として整備され、高層ビルの谷間で憩いの空間として親しまれています。公園の一角には「永久平和を願って」と大きく記された石碑があり、当時をしのぶ唯一の「よすが」となっています。

この施設は、もともと1895年(明治28年)に、石川島にあった警視庁の監獄が移転してきたものでした。当時、このあたりは見渡す限りの田園風景。なんとか地域を発展させたい…と、当時の巣鴨村の村人たちが、監獄の誘致運動を展開。
それが見事に功を奏して、この地に監獄ができたわけです。その甲斐あって、「巣鴨」の地名は、次第に有名になっていったそうですが、それにしても、わざわざ刑務所を誘致するというのも、今では考えにくいですが、よっぽど有名になりたい事情があったのでしょうか?



9月7日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
本日は、「上野」をご紹介します。

東京の北の玄関口、上野。新幹線が開業してからは、ターミナル駅としての役割こそ若干、弱まりはしましたが、それでもここにやってくると、さあ、北へ向かうぞ!…そんな気になってくるから、不思議なものです。
上野駅が開業したのは、1883年(明治16年)7月。最初に敷かれたのは、上野と熊谷を結ぶ路線でした。最初の計画では、東海道線と直結させるため、上野ではなく、品川が始発駅になる予定でした。
ところが、当時すでに、新橋から秋葉原にかけては都市化が進んでいて、用地の確保が困難になっていました。また、現在の山手線の西側、五反田・渋谷・新宿方面は、地形が複雑であるため、難工事が予想されました。
ところが、上野を起点として、王子・赤羽へ向かうルートは、平坦な区間が多く、用地も比較的カンタンに確保できたのです。そこで、東北・上信越方面へは、上野をターミナルとした路線が敷かれることになったのです。

上野駅の西側は、もともと広大な寛永寺の領地。
現在では動物園や美術館、博物館などが集まる上野公園になっていますが、逆に東側は江戸時代からの下町で、庶民的な土地柄。さまざまな特徴をもつ商店街が広がっています。
中央口から入谷方面に向かう昭和通りの両側は、オートバイ関係のショップがおよそ百軒ほども立ち並ぶ、通称・上野バイク街。もともと、地方から上京する業者のために、問屋が集まってきたのが始まりなんだそうです。

そして、そのバイク街から浅草通りを渡り、路地を曲がると、キムチや焼肉のなんともいえない香りが漂ってきます。
こちらは通称「キムチ横町」。都内でも歴史の古いコリアンタウンです。60メートルほどの通りに、20軒近くの焼肉店、乾物・キムチ店、また民族衣装のお店などが並び、ちょっとした異国情緒の味わえる一角となっています。キムチと焼肉で、生ビールをゴクゴク。ついもう一杯…とオーダーするうち、上野の夜は更けていきます。



9月8日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「信州・戸隠」をご紹介します。

有楽町…といえば、まず思い出すのが低音の魅力、フランク永井さんの大ヒット曲、「有楽町で逢いましょう」。
このフレーズはもともと、1957年(昭和32年)に、関西資本のデパート「そごう」が東京進出にあたり、キャッチコピーとして使っていたものでした。
まずこの年の4月、「有楽町で逢いましょう」というテレビの音楽番組を放送して、前景気をあおります。さらにラジオ、新聞などでも大々的なプロモーションを展開。
5月25日の開店当日は、あいにくの雨でしたが、有楽町駅前の店に、なんと30万もの人が押しかけるという大変な騒ぎになりました。有楽町近辺は、待ち合わせの名所、デートスポットとして、一躍メジャーな場所となったのです。
この人気を受けて、「有楽町で逢いましょう」の小説が雑誌に載り、さらに11月にこの歌がリリースされ大ヒット。そして翌年1月には同じタイトルの映画も封切られ、ここで共演した川口浩さん…後の探検隊長と、野添ひとみさんが恋に落ち、結婚するというオマケまでついたのです。それから半世紀近い時間が流れ、デパートは既に閉店。建物はそっくりそのまま、量販店となっています。

「有楽町」という地名が生まれたのは、1872年(明治5年)。
江戸時代の初めごろ、このあたりに住んでいた武将、織田信長の弟で、名高い茶人でもある「織田有楽斎(うらくさい)」にちなんで、名付けられました。有名な「数寄屋橋」の名前も、この有楽斎の屋敷の中に、数寄屋造りの見事な茶室があったことに由来しています。
もっとも、人の名前は「うらくさい」なのに、町の名前は「ゆうらくちょう」。なぜこんな入れ違いが起きてしまったのかはわかりませんが、「うらくちょう」と言うよりは「ゆうらくちょう」の方が、今となっては、どう考えてもしっくりくるように思えます。
また、現在のJR・有楽町駅のホームから、有楽町のランドマークとなっているマリオンの裏手一帯は、1707年(宝永4年)から、南町奉行所が設けられた場所。そう、あの名奉行、大岡越前の職場です。数々の名高い「大岡裁き」が行われたお白州の上を、今では電車がガタゴトと走っている、というわけです。



9月9日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終日の今日は、「渋谷」をご紹介します。

渋谷の盛り場…といって、まず私達が思い浮かべるのは、センター街近辺、そして公園通り方面。あるいは宮益坂、道玄坂の名前も上がってくるでしょう。
しかし、大正の頃までは、恵比寿方面に向かう道、現在の明治通りの両側が一番、賑わっていたそうです。これは、この付近に渋谷、目黒、世田谷界隈でとれた農産物が集められ、市場(いちば)ができていたから。このあたりだけで、寄席が四軒もあったそうですから、大変な賑わいを見せていたのでしょう。
1885年(明治18年)、開通当時の山手線の渋谷駅も、現在よりもずっと恵比寿寄りで、ちょうど現在の埼京線ホーム付近に作られ、やがてその両側に、東側には東京市電、後の都電、西側には玉川電車、現在の田園都市線の終着駅が作られます。

そして1920年(大正9年)、山手線が高架になると同時に、渋谷駅が現在の場所に移動。その4年後の1924年(大正13年)、関東大震災の翌年、渋谷を代表する大スター、秋田犬(いぬ)の忠犬ハチ公が渋谷にやってきたのです。
1923年(大正12年)、秋田で生まれた生粋の秋田犬、ハチ公は、翌1924年(大正13年)の正月から、現在の東急本店あたりに住んでいた、東京帝国大学農科大学、上野英三郎(うえの・ひでさぶろう)教授の飼い犬となりました。ハチ公の日課は、大好きなご主人様、上野先生を送り迎えすることでした。
ところが翌年の5月、まだハチ公が2歳になる前に、先生は学校で突然倒れ、そのまま亡くなられてしまいます。そしてハチ公は、二度と戻らないご主人様を出迎えに、その後長く渋谷駅へ通い続けた…というおなじみのお話。
7年後、新聞が美談として取り上げてから有名になり、昭和9年には銅像建立の話が持ち上がって、建設基金を集めるため、日本青年館で開かれたイベントには、名高いハチ公を見ようと、3千人もの大観衆が詰めかける始末。
1934年(昭和9年)には銅像も出来上がり、除幕式にはハチ公自身も出席して花を添えました。そして、翌1935年(昭和10年)3月8日、フィラリアのため死亡、享年11歳。銅像は戦時中、金属不足のため撤去され鋳つぶされましたが、1947年(昭和22年)に無事、再建。以来、都内でも有数の盛り場となった渋谷の待ち合わせスポットとなり、現在も親しまれています。



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