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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月19日(火)〜7月22日(金)今週のテーマは、「江戸四宿を歩く」
江戸から旅に出た時の最初の宿場、江戸四宿をご紹介します。


7月19日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
1回目は、東海道の最初の宿場、品川です。

関が原の戦いに勝利を収めた徳川家康。家康が街道の整備に乗り出し、
5つの幹線道路を決めたのは、1601年(慶長6年)のこと。
幕府を開く2年前のことでした。
東海道、中山道、奥州街道、日光街道、甲州街道の5つです。
最も重要とされた東海道の最初の宿場が、品川。

日本橋から2里、約8キロ。
幕末には近い1844年(天保11)の記録には、人口6890人、家の
数1560軒とあります。
安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」に登場する品川は、いつも海の見える
風景が描かれています。
海沿いの宿場で、眺めが良く新鮮な魚が楽しめる、江戸の市民にとっては、
日帰りの行楽地として絶大な人気があったようです。
加えて、江戸でも有数の歓楽地としても知られていました。

落語の品川心中の中でも当時の宿場町としての品川の姿が
語られているんですね。

京浜急行北品川駅を降りてすぐのところに、北品川商店街があります。
ここが昔の品川宿、そして、東海道です。
江戸時代には、旅立つ人を最初の宿場まで親しい人が見送ったり、
到着する知人を迎える慣わしがありました。
旅立つ人、無事ついた人、それに見送りと出迎えの人が加わって、
賑わいをみせていたことでしょう。

1872年(明治5年)。
新橋・品川間に我が国最初の鉄道が完成、品川にも駅が置かれました。
現在のJR駅の近くです。
工業の発展に伴って、品川の街は大きくなっていきましたが、最近は
さらに大きく変化しています。
昨年は新幹線品川駅も開業しました。
でも、新幹線の駅が出来、高層ビルが立ち並ぶ一方で、昔ながらの街や
大きな寺は変わらずに残されています。
品川。
江戸時代の人のように、ゆっくりと魅力を味わいたい街です。


7月20日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、甲州街道の最初の宿場、新宿です。

江戸と甲斐、現在の山梨県を結ぶ街道が甲州街道です。
徳川幕府にとって、この道はとても大切な道路でした。
江戸が敵に攻められて、将軍が脱出する時に利用する道として、
甲州街道が考えられていた、とい説が有力なんです。
江戸時代の軍用道路、というわけですね。

江戸幕府が安定すると、人の移動が増え、農産物の輸送も増えます。
こうなると不便なのは宿場の位置でした。
日本橋を出て、甲州街道の最初の宿場・高井戸までは4里、約16キロ
ありました。
そこで、江戸の商人が新しい宿場を作ることを幕府に願い出て、巨額の
献金を条件に許可されました。
こうして、1699年(元禄12年)、日本橋から2里、おそよ8キロの
場所に、新しい宿場・新宿が誕生したんです。
信州高遠の領主、内藤氏の下屋敷を削って作られた宿場のため、最初は
内藤新宿と呼ばれていましたが、やがて現在の呼び名に落ち着きました。
宿場の中心は、現在の新宿区新宿1丁目と2丁目のあたりでした。
明治時代になって、鉄道を開設する話が持ち上がっても、宿場の人たちは
反対しました。環境の点や、宿場がさびれる、というのが反対の理由
だったとされます。

こうして、1885年(明治18年)3月、宿場から1キロほど離れた
場所に、日本鉄道品川線の新宿駅が作られました。
ちなみに、開業当初は乗客が少なく、雨の日などは「乗客ゼロ」の日も
あったと聞きました。
なお、その後の発展によって新しい線が出来、私鉄の開業も続き、
現在では1日の乗降客数は300万人を超す、といわれる日本一の駅に なっています。

  

7月21日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、中山道の最初の宿場、板橋です。

ひっきりなしに車が走り抜ける国道17号線。
並行して旧中山道があります。旧中山道の板橋宿は、現在、なかなかの
賑わいを見せる商店街になっています。
中山道は、東海道が五十三次なのに対して67次あるいは69次と
いわれる山道の多い街道です。
山道が多い分、大きな川がなく、川止めなどで無駄な日数がかかることがなかったんです。
このため、京都に行く場合に中山道を選ぶ人も多かったようです。

中山道の最初の宿場、板橋。
地名のおこりは、宿場のはずれにある石神井(しゃくじい)川に架かる橋です。
古くは板をわたしただけだったそうで、板の橋、板橋が地名となり、
宿場名となり、現在の23区のひとつ板橋区になっているんです。
なお、日本橋からこの橋までの距離は、2里25町33間、約10キロあります。

1861年(文久元年)、14代将軍徳川家茂(とくがわ・いえもち)と
結婚するための皇女和宮の一行が江戸に向かいました。
そして2年後の1863年(文久3年)には、浪士組の一行200人余り 
   が通過しました。一行の中に、後の新選組の局長・近藤勇、土方歳三、
女性に人気の沖田総司(そうじ)などが含まれていたのはご承知の通り。
偶然ですが、JR板橋駅前には、近藤・土方両名の墓があります。

地元の板橋区は、中山道板橋宿の史跡の整備を進めています。
今年4月には、街道や旧宿場の展示などを中心とした施設「いたばし観光
センター」をオープンしました。
来場者は13名いる観光ボランティアの説明も受けられます。
史跡めぐりをする人にとって有難いのは、整備されたトイレがあること。
「遠慮なくご利用ください!」とスタッフに念を押されました。

近藤勇の墓があるJR板橋駅から、旧板橋宿を抜けて都営地下鉄板橋本町 
  駅まで、およそ2キロ。宿場町の雰囲気を十分に楽しめます。


7月22日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
最終回は、日光街道の最初の宿場、千住です。

今週ご紹介してきた4つの宿場の中で、江戸時代に一番にぎわっていたのが、
千住宿でした。
1844年(天保11年)に行われた調査では人口は約1万人、
2位の品川が7000人弱。板橋と新宿は2500人ほどですから、
断然トップだったんですね。
五街道といっても、最初の宿場が4つしかないのは、
日光街道と奥州街道は宇都宮まで同じ道だからです。

千住は、関東各地からの物資が集まる場所として栄えました。
千住からは隅田川を使って江戸に送ることが出来、
商売上で有利な地位を占めていたんです。
江戸から千住大橋を渡ってすぐのところには「やっちゃば」、
野菜を中心とした問屋が集まっていました。
現代風にいうならば、江戸の流通センターを果たしていた宿場なんです。

JRと東京メトロの北千住駅を下りて少しあるくと、線路に並行して
にぎやかな商店街にぶつかります。これが、千住宿、そして旧日光街道です。
江戸時代に建てられた商家や、昔ながらの外観の商店も残っています。

1689年(元禄2年)3月。
ここから長い旅のスタートを切った人物がいました。
松尾芭蕉。
約5ヶ月、行程2400キロに及ぶ「奥の細道」の旅は、千住から始まったんですね。
千住大橋のたもとには、芭蕉がこの旅の最初によんだ句の句碑が立てられています。

行く春や 鳥なき魚の 目はなみだ

 
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