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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
7月4日(月)〜7月8日(金)今週のテーマは「ビートルズがやってきた!」
1966年(昭和41年)6月末から7月にかけたった一度の日本ツアーを行ったビートルズの足跡を辿る5日間。


7月4日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「首都高速道路」を取り上げます。

1966年(昭和41年)6月29日、午前3時39分。 台風4号が関東・東海地方を襲った翌日。 前の公演先、ドイツから日本へ向かう途中、 台風の影響でアンカレッジで足止めされていた ビートルズ一行を乗せた日本航空412便が羽田空港に到着。 扉が開くと、4人はポール、ジョン、リンゴ、ジョージの順番で、 JALのロゴ入りハッピを着てタラップに登場。 ニコニコ笑いながらカメラに応えて手を振り、階段を降りました。 そして、待ち構えていたキャデラックに乗り込み、 前後を5台のパトカーに守られて、 滑走路から首都高速へと向かっていったのです。 この日、首都高速道路はビートルズの通行に備えて、 上下線とも全面通行禁止の措置が取られていました。 そんなこととは露知らぬマネジャーのブライアン・エプスタインは、 「トーキョーの道路はずいぶんすいてるんだな」と ノンキに呟いていたそうです。 要所要所には警官が配置され、キャデラックが通過すると 「何時何分、通過しました」と無線で本部へ連絡。 正に秒刻みのスケジュールの中、一行は宿舎のホテルへと向かいました。 ビートルズ一行が通ったのは、2年前に開通した首都高速1号・羽田線。 そもそも首都高速道路は、1959年(昭和34年)、 東京オリンピックの開催決定を受けて計画されました。 建設に与えられた時間はわずか4年。 本来ならきちんとルートを考え、用地買収から始めるべきところ、 「とにかく時間がない! できる所に作ってしまえ!」と、 公共の空間である道路の上、川の上、あるいは川を埋め立てて 突貫工事で作られていきました。 後には、その眺めの悪さやジャンクションのわかりにくさが 批判を浴びることになりますが、 なにしろ「オリンピックのため」といえば、かなりの無理も通った時代。 高速道路は日本橋の上空を横切り、銀座の川を埋め立ててしまいました。 東京のあちこちで、歴史的な景観がガラリと一変することになったのです。 一行は高速道路をあっと言う間に走り抜け、 およそ30分後、ホテルの地下ガレージへと滑り込みました。


7月5日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「旧東京ヒルトンホテル」を取り上げます。

1966年(昭和44年)6月29日、午前4時13分。 ビートルズを乗せたキャデラックは、 宿舎である当時の東京ヒルトンホテル、 現在のキャピトル東急ホテルのガレージへと入っていきました。 直後にシャッターが降り、そのまま専用エレベーターで、 いちばん上の10階へ。 このフロアはもちろんビートルズがすべて借り切りで、 4人の部屋はプレジデンシャル・スイーツ。 これから4日の間、ビートルズは、警察の要請により、 コンサート会場である日本武道館に往復する以外は、 1006号室、07号室、08号室をぶち抜いた、 このスイーツで過ごすことを余儀なくされたのでした。 通行証を持つもの以外は、誰も立ち入ることを許されない閉鎖的な空間。 まさに「格子なき牢獄」といったところで、 4人のフラストレーションはひどくなる一方でした。 東京ヒルトンホテルのオープンは1963年(昭和38年)。 世界中に、アメリカのビジネスマンが安心して泊まれ、 仕事に専念できるホテルを作ることを目標としていた ヒルトン・グループと、日本の東急電鉄の合弁事業として誕生しました。 最初から世界標準のサービスを目指して生まれたホテルだったのです。 ビートルズが到着した日の午後、 記者会見が行われた大宴会場は「真珠の間」ですが、 これは世界に向けて日本をアピールするというコンセプトで、 日本の特産品の中でも欧米人に親しみ深い「真珠」をモチーフとして 設計されたもの。 部屋の10基のシャンデリアには、 日本中から集められた粒よりの真珠が30万ずつ、 合計300万粒使われています。 ビートルズもこのまばゆい光を見つめたことでしょう。 10階のフロアに押し込められていたビートルズですが、 深夜、当時地下1階にあったサパークラブに顔を出し、 ポールがピアノを弾きながら「ケ・セラ・セラ」など スタンダードを全員で合唱したこともあったとか。 現在、その場所は中華レストランとなっています。 ヒルトングループは1983年(昭和58年)いっぱいで 東急電鉄との提携を解消し、それ以後、このホテルは 「キャピトル東急ホテル」と名前を変え、現在に至っています。

  

7月6日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「日本武道館」を取り上げます。

1966年(昭和41年)6月30日、午後7時35分。 前座を務めたザ・ドリフターズのステージに続き、 ビートルズ日本ツアー、最初の公演が始まりました。 ステージの内容は全部で11曲、35分足らずで、 これは5回行われたコンサートすべて同じでした。 公演会場も、すべて日本武道館。 武道館が開場したのは、1964年(昭和39年)10月3日。 東京オリンピックの柔道会場として造られた施設です。 考えてみますと、ビートルズは、今週ご紹介してきた首都高速、 旧東京ヒルトンホテル、そして本日の日本武道館と、 すべては東京オリンピックに備えて作られた施設を 活用しているわけで、もしオリンピックがなかったら、 ビートルズ開催もあり得なかったかもしれません。 武道館が会場に選ばれたのは、ビートルズ側から提示された 1万という座席数をクリアしていることと、 梅雨時の日本では野球場など野外は難しいという2つの理由から。 当初、「日本精神を発揮する神聖な武道の場を、 芸能に使わせるとはなんたる事だ!」という批判も強かったのですが、 主催者側が「ビートルズは英国女王から勲章を授与されている 立派なアーティストだ」と弁明したこともあり、 なんとか無事に公演までこぎ着けました。 コンサート当日は警備上の理由からアリーナは使用されず、 観客はすべてスタンドに追いやられ、 客席最前列には転落防止のため、パイプでできた柵が取り付けられました。 このパイプ柵ですが、オリンピックのマラソンコース沿道などで、 観衆整理のため使われたもの。 これまた、オリンピック施設のリサイクルだったというわけです。 ビートルズの日本公演、オープニングナンバーはこちら。 「ロックンロール・ミュージック」!


7月7日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「皇居前広場」を取り上げます。

1966年(昭和41年)、7月1日。 ビートルズの日本滞在は3日目を迎えていました。 ホテルと武道館を往復するだけの軟禁生活に ウンザリしたメンバーたちは、次々に脱出を試みます。 午前11時15分。 ポール・マッカートニーは、プロモーターのスタッフに 「外に出してくれ」と訴え続け、根負けしたスタッフは了承。 ポール、そしてマネージャーを伴って、ロビーへ降ります。 自慢のマッシュルーム・カットはわざとクシャクシャにし、 白ワイシャツにノータイと、地味なスタイルに変装。 連日連夜の張り込みに疲れ果てたカメラマンたちが モウロウとしている中をまんまと通り抜けに成功、 表で待ち構える車に乗り込もうとしたところで、 残念! 私服警官につかまってしまったのです。 ところが、もみ合っているところをカメラマンに発見されたため、 警官はあわててポールを車に押し込み、 運転手に発車を命じました。10分後、車が到着したのは、こちら。 ポールが降り立ったのは、丸の内に広がる皇居前広場。 当初、神宮外苑へ向かったのですが、「面白くない」とのことで、 行き先がこちらに変更になりました。 二重橋のあたりで車を降りたポールは、ホンの5分ほどの自由を満喫します。 このあたり、江戸時代は幕府の重臣たちの屋敷がありました。 明治初期には兵隊の宿舎などが置かれましたが、 1888年(明治21年)に皇居が完成してからは、 伊藤博文の命令により更地となり、次第に公園として整備されました。 シンボルとなっている楠木正成像は、1897年(明治30年)、 住友財閥が寄付した銅を使い、 高村光雲ら東京美術学校のスタッフにより作られたもの。 ポールが訪れた当時は現在と違って高層ビルもありません。 日本一美しい都市風景と言われた由緒あるビルの連なり、 通称「丸の内スカイライン」を楽しむことができたはずです。 私服警官の通報により、すぐにパトカーが到着。 ポールはホテルへと強制送還され、 束の間の脱走劇は終わりました。 が、この影で、もう一つの脱走が試みられていたのです。 続きはまた、明日…


7月8日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、「表参道」を取り上げます。

1966年(昭和41年)7月1日、午前11時40分ごろ。 決死の脱走むなしく、パトカーに身柄を確保されてしまった ポール・マッカートニーは、こう呟きました。 「どうして俺ばっかり。ジョンはショッピングしてるのに…」 ポールがロビーを強行突破したのは11時15分ごろでしたが、 カメラマンたちがポールを見つけ、大騒ぎになったのをこれ幸いと、 直後に、こちらは同行のカメラマンに変装したジョン・レノンが、 そのカメラマンの通行証を使って警察官を欺き、 誰にも見とがめられずにロビーから外へ出て、車に乗り込みました。 当時から日本の文化に興味を持っていたジョンの行き先は、 表参道、青山周辺のアンティーク・ショップ。 何軒もの店をハシゴしては、  徳川時代の印籠、中国の飾り玉や香炉など、 500万とも600万ともいわれる贅沢なお買い物を楽しんだのです。 そんな中の一軒が、現在も表参道のランドマークとなっている 「オリエンタル・バザー」。 まるで神社仏閣のような外見が目を引く、 エキゾティックな建物がおなじみですね。 戦後、進駐軍向けにオープンしたアンティーク・ショップで、 現在でも外国人観光客が必ずといっていいほど訪れるお店ですが、 最近では着物ブームのおかげで、掘り出し物の古い着物を探す、 若い日本女性の姿も目立つようになりました。 翌7月2日、午後8時3分、ビートルズはすべての公演を終了。 翌3日、午前10時43分羽田発の日航機で、次のツアー先、 フィリピンのマニラへと向かいました。 ラスト・ナンバーは、この曲でした。 「アイム・ダウン」

 
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