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5月30日(月)〜6月3日(金)のテーマ「職人の技 東京の伝統工芸」 永く受け継がれてきた匠の技をご紹介してまいります。
5月30日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、足袋づくりの世界です。
粋な風情が漂う街並みの中に、足袋の老舗「みょうがや」があります。
「めうがや」と書いて、みょうがや、と読みます。
17世紀に創業した足袋店「めうがや」から暖簾(のれん)わけしてから
140年近くになります。
ご主人の石井芳和(いしい・よしかず)さんは、5代目。
「めうがや」の足袋は、誂(あつら)えが中心、
足袋を作る20余りの工程は、すべて手作業です。
作業は、お客様の型紙を作るところから始まります。
採寸に使われる物差しは、少し変わっています。
文尺(もんじゃく)あるいは文規(もんぎ)と呼ばれるもので、
目盛りの単位はセンチでも寸でもなく、文(もん)なんです。
足袋で使われる単位は文(もん)ですが、実は、これは江戸時代の通貨の
一文銭から出た言葉だそうです。
例えば、一文銭を10枚並べると、10文(ともん)というわけです。
足袋を作る作業の中で、もっとも難しいのが、つまさき部分の加工。
ここで使われるミシンは、ドイツで80年前に作られた「つまつけミシン」。
指先の微妙なふくらみを、仮縫いなしで作っていくのは、長い経験が
あってこそ出来るのです。
いよいよ仕上げ。
出来た足袋を裏返し、木型に入れて叩き、最初から足に馴染むように
整えるのです。そして、アイロンをかけて、完成です。
長男の健介さんを含む7人が分担して丹念に作りあげられる足袋。
芸事の世界をはじめ、たくさんの人に愛用されています。
5月31日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、江戸切子(きりこ)の世界です。
カットガラスのことを、わが国では「切子」と呼んでいます。
原料に鉛を加えることで透明感を増したグラス、クリスタルガラスと
言いますが、これに複雑な模様を彫りこんでゆく技術です。
わが国に現存する最も古いカットグラス製品は、奈良の正倉院に納められています。
ヨーロッパの技術に、独特の工夫を加えた江戸切子が誕生したのは、
1832年(天保5年)のこと。
その後は、急速に江戸の工芸として発達し、その見事な出来ばえは、
1853年(嘉永6年)に黒船で日本を訪れたペリー提督の一行を驚かせた、と、
当時の記録に残されています。
江戸切子の第一人者、小林英夫(こばやし・ひでお)さんは82歳、
この道57年。6年前には、黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受章しています。
有名な江戸切子職人だった父・菊一郎さんに教えを受け、25歳で家業を
継ぎました。
現在は、既に切子作家として知られている息子の淑郎(よしろう)さんと共に、
江東区猿江(さるえ)の工房で製作に取り組んでいます。
切子の作業はガラスの容器にマーカーで大まかな線を入れることから始まります。
下絵は書きません。
第二段階では、数回に分けてカットを行い、次第に細かな模様をつけていきます。
いちばん基本的な模様は3つ。
矢来(やらい)、格子(こうし)、麻の葉の3つです。
この他にもたくさんの模様や組み合わせがあり、小林さんの作品には、
複雑な模様や、高度な技法がさりげなく使われているのです。
第三段階は、カットで不透明になっている部分を、数回にわけて磨きをかけ、
光沢を出す作業です。
切子の仕事は、個性を盛り込み、新しいデザインを作り上げていくことが大切・・・
小林さんは、こう力説しています。
完成した江戸切子の輝きは、切子職人の腕の冴えを感じさせてくれます。
小林さんは、(朝日)カルチャーセンターの講師を27年間にわたって勤め、
現在でも、週に3日は教室で教えています。
これまでに教えた生徒の総数は1500名を越え、生徒の中から数名の
プロの切子作家も生まれています。
また、1987年(昭和62年)から、全国各地から東京を訪れる中学校の
修学旅行生の実習体験の場として、ご自分の工房を開放しています。
これまでに160組900名以上を受け入れています。
6月1日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、三味線づくりの世界です。
地下鉄の人形町駅と水天宮前が最寄り駅です。
下町気分があふれ、平日も休日も、賑わいをみせています。
なかでも、ひときわ人通りの多いのが「甘酒横丁」。
明治時代の初め、通りの入り口に尾張屋という甘酒屋があった
ところから、付けられました。
人気の店が並ぶ一画にあるのが、三味線の店「ばち英(えい)」です。
1917年(大正6年)の創業ですから、間もなく90年になります。
2代目のご主人、小林英二郎さんは、80歳。
関東大震災と戦災、2度の試練を乗り越えた店を守ってきました。
三味線がわが国に伝えられたのは、室町時代の末。織田信長が活躍していた頃ですね。
中国、当時の明から琉球をへて、最大の貿易港だった堺に伝わった、とされています。
その後、改良が加えられ、現在の形になりました。
三味線づくりは分業制。主な部分である棹と胴をはじめ、
それぞれの部品を作る職人さんが支えているのです。
組み立てて、皮を張る仕上げの工程は、息子の英介(えいすけ)さんと
二人の作業場で進められます。
胴に皮を張る作業は、三味線の音を決定するだけに、いちばん緊張するそうです。
午後のひと時、店の前に三味線の音が流れます。
弾き手は、ご主人の友人、山田兜次郎(やまだ・かぶじろう)さん。
今年77歳。
実は、甘酒横丁は、有名な劇場・明治座への道筋でもあります。
劇場に向かう、あるいは、劇場帰りのお客様に聞いてもらうための、
無料のライブです。
始めて4年、足をとめて聞き入る人も多いんですよ。
演奏は、明治座の昼の終演時間や夜の部の開場時間にあわせて行われます。
店内には、三味線のほか、山田五十鈴さんをはじめ、「ばち英」の
製品を愛用している俳優さんの写真も飾られています。
ライブをはじめてから、若い人も、時々、店をのぞいてくれるように
なった、とご主人。
今日は、今も人気の高い落語家・古今亭志ん朝の出囃し(でばやし)
「老松(おいまつ)」を山田さんにリクエストしてみました。
しばらくお聞きください。
6月2日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、銀器づくりの世界です。
銀を加工して器を作ることは、古代から世界中で行われていました。
日本では、平安時代の中ごろ、10世紀には作られていたようです。
江戸時代になると、町人の世界にも銀製品が広まります。
幕府は、贅沢であるとして銀製品の使用制限を、2度にわたって出しましたが、
効果はなく、銀の加工技術は向上していきました。
現在の台東区の地域には、大きな寺や大名屋敷がありました。このような
需要先がいたことで、古くから銀器製造が盛んだったのです。
岩村淳市さんは50歳、この道34年の熟練した職人です。
平成13年には、経済産業大臣から「伝統工芸士」に認定されました。
また、地元台東区からは、平成16年度の優秀技能者として表彰されています。
岩村さんの勤務先、森銀器(もりぎんき)製作所の仕事場。
銀の板を金属の台に当てて金槌で叩き、バーナーで熱しては、金槌で叩き、
それを繰り返して形にしていきます。
小さな「ぐいのみ」でも、完成までに叩く回数は3000回以上。
根気のいる作業です。
熱の伝わり方が早い金属と言えば、金を思い浮かべますが、実は銀が一番。
その性質を活かし、ぐいのみや、ビール用のグラスなども作られています。
ちなみに、ぐいのみは1万5千円ほど、ビールや焼酎に向いているタンブラーは
4万円ほどです。
岩村さんたちの技術は、優勝カップや置物にもなっています。
JRA、日本中央競馬会の主なレース、GIレース優勝馬に贈られる副賞、
国賓に贈られる記念品などには、岩村さんが作った物も含まれています。
銀器づくりの材料は、純銀。
「フォー・ナイン」と呼ばれる、純度99.99パーセント以上のものを使います。
岩村さんは、銀製品を身近に置くことで豊かな気持ちになれる、と話してくれました。
例えば、朝のコーヒータイム。
銀のスプーンを使うことで、より楽しい朝を演出できそうです。
これからも、新しいアイデアを活かした銀器づくりを目指したい、と語ってくれました。
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