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PART1 くにまる東京歴史探訪
ONAIR REPORT
5月16日(月)〜20日(金)のテーマ「隅田川 橋めぐり」
隅田川に架かる個性的な橋をご紹介します。


5月16日(月)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、両国橋です。

江戸時代の初め、隅田川に架けられていたのは、かなり上流の千住大橋だけでした。
江戸を守るための手段でした。
ところが、1657年(明暦3年)、江戸で大火があり、10万人を超す
犠牲者を出してしまいます。有名な明暦の大火、振袖火事です。
橋さえあれば、多くの人命が助かったはず・・・という反省から、隅田川
に橋が架けられることになりました。
最初に作られたのが両国橋です。完成は1661年(寛文元年)。
旧国名の武蔵と下総を結ぶ橋、ということから両国橋と名付けられました。
橋の完成により、大きな変化が生まれました。
対岸の本所、深川地区の開発が進んだのです。やがて、両国橋の両側は、
江戸でも有数の盛り場に発展していきます。

旧暦の5月28日は川開き。
江戸の人々は、この日から3ヶ月後の8月28日まで、隅田川での納涼を
楽しむことができました。
毎晩のように花火が打ち上げられ、料亭や船宿は賑わいました。
JR両国駅の北側にある江戸東京博物館には、両国橋界隈の賑わいぶりが
精密な模型で再現されています。

江戸時代からの伝統を誇った両国の花火大会は、1962年(昭和37年)
に中止されましたが、1978年(昭和53年)に復活しました。ただし、
名称は「隅田川花火大会」となり、少し上流の二つの会場で行われています。
今年の花火大会は、7月30日土曜日です。

両国といえば大相撲。
国技館では、いま、五月場所が開かれています。今日は9日目です。
江戸時代、相撲の興行は、江戸市内で場所を変えて行われていましたが、
18世紀後半からは両国の回向院で開かれるようになりました。
1909年(明治42年)、丸屋根で知られた旧国技館が完成。
一時、両国を離れて開催されていましたが、1985年(昭和60年)、
JR現在の国技館が完成しました。

現在の両国橋は、1932年(昭和7年)に完成。
橋の欄干や柵には、花火や相撲にちなんだ飾りがついています。
橋の少し上流で、神田川が隅田川に注いでいます。
ここに架かっているのが、柳橋。
1929年(昭和4年)に完成した、小さいけれど、とても有名な橋です。
この一帯、幕末から昭和初期まで、有数の花柳界、柳橋として栄えました。
柳橋のそばには、いまも佃煮屋さんと船宿があります。

5月17日(火)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、永代橋です。

隅田川の橋の中で、いちばん重厚な印象を受けるのが永代橋です。
現在の橋は、1926年(大正15年)に完成。
1923年(大正12年)の関東大震災で前の橋が被害を受け、立て替えられました
大胆に進められた震災復興事業の中でも、隅田川の橋の設計は、積極的に
行われました。
当時の世界の最新技術と材料を取り入れて実行されたのです。
川沿いや都心部に大きな建物がなかった時代です。永代橋は、雄大で
男性的なデザインで人気を集めました。 

最初の永代橋が架けられたのは、1698年〔元禄11年〕のこと。
当時、江戸への商品の運搬は、大部分が海と川を利用していました。
河口近くともなれば、大きな船の出入りも多かったのです。
帆柱が当たらないように橋げたが高く作られました。
橋の上からの眺めの素晴らしさで知られ、江戸名所のひとつに数えられて
いたほどです。

橋の命名については、ふたつの説があります。
ひとつは、対岸の一帯を永代島(えいたいじま)と呼んでいたから、とする
ものです。
もうひとつは、時の将軍・綱吉の長寿を願ってつけられた、とするもの。
完成から4年目の1702年(元禄11年)12月、主君の仇を討った
赤穂浪士の一行が、この橋を渡っています。

永代橋の完成によって向こう岸の深川地区の開発が急速に進みます。
富岡八幡宮の参詣者が増え、やがて江戸相撲発祥の地となります。 
現在も、富岡八幡宮の境内には、横綱力士碑をはじめ、相撲の歴史を
物語る石碑が数多く立ち並んでいます・
富岡八幡宮の祭りは、江戸三大祭のひとつとして有名です。

1807年(文化4年)。
永代橋で惨事が起きました。押し寄せた群衆の重みと圧力で橋の一部
が崩れ落ち、1500名といわれる犠牲者を出したのです。
江戸時代の永代橋は、現在よりも150メートルほど上流にありました。
橋の下流、右岸で日本橋川が隅田川に合流しています。ここをさかのぼれば、
日本橋の魚河岸に着けたのです。

現在、永代橋は、青と白の照明でライトアップされています。
浮世絵に描かれた石川島や佃島の眺めは大きく変わりました、再開発が
進められ、高層マンションが立ち並んでいます。
永代橋から見える夜景、あるいは永代橋も含めた夜景の素晴らしさは、
新しい東京の名所となっています。
隅田川も河口が近く、川幅も広くなっています。昔も今も、昼も夜も、
永代橋は、絶景を楽しめる場所です。
  

5月18日(水)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、吾妻橋です。

吾妻橋は、隅田川に架かる橋の中でも、ひときわ目立つ色です。
赤、観音様や仲見世と同じ赤です。欄干から照明器具まで、統一されています。
ここに橋が架けられたのは、1774年(安永3年)、江戸時代最後の橋です。
橋が架けられたことで、対岸の向島地区が大きく発展しました。高い
建物のなかった時代、遠くに浅草寺の本堂や五重塔を描き、手前に橋を
入れた構図で、浮世絵に何度も登場しています。

現在の橋は、1931年(昭和6年)に完成しています。

吾妻橋のたもとは、日の出桟橋や台場を結ぶ水上バスの乗り場になっていて、
賑わいをみせています。両岸の眺めを楽しみながら、約45分で
日の出桟橋に着きます。のんびり出来るだけでなく、デザインや色に個性が感じられる橋
めぐりを楽しめるのも人気の理由だとか。
浅草をスタートにするもよし、ゴールにするもよし、大都会のさまざまな魅力を味わえる
コースを組むことができます。

浅草を代表する祭、といえば三社祭。
今週末、20日から22日まで行われます。浅草神社の3基の神輿をはじめ、
100基の神輿が練り歩きます。
熱気みなぎる3日間になることでしょう。

吾妻橋から対岸、向島方面を見ると、巨大なオブジェが目に入ります。
左側の高層ビルはビール会社の本社です。壁の部分は琥珀色。これが
ビールで、屋上部分が泡をあらわしています。
さて、隣のオブジェ。下の建物の部分が聖火台、金色の部分は
燃えさかる炎、であると説明を受けました。
炎の全長44メートル、高さは14メートルあります。
1989年(平成元年)に完成した、知名度ナンバーワンの炎です。

近年、浅草の魅力が直されている浅草ですが、大きな変化があります。
8月24日に新しい鉄道「つくばエクスプレス」が開通するのです。
「秋葉原」と「つくば」を結びますが、浅草寺の西側にあたる国際通りに、
新駅「あさくさ」が出来ます。
浅草活性化に大きなプラスになる、と地元では大きな期待を寄せています。
  

5月19日(木)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、清洲橋です。

隅田川には、鉄道や車専用のものをを含めると、約30の橋が架けられています。
数ある橋の中で、優美な姿で人気の高いのが清洲橋です。
完成は1928年(昭和3年)。ドイツのライン川に架かっていた吊り橋
がモデルになっています。
橋の両側、当時の日本橋区中洲町と深川区清澄町から一字づつ取って、
清洲橋と名づけられました。

清洲橋の上流、隅田川の左岸に展望台があります。
ここから見る清洲橋が一番美しい、とされています。説明板は日本語と
ドイツ語で書かれています。モデルになったラインの吊り橋に敬意を
表しているのでしょう。

展望台の前で隅田川に注いでいるのが、小名木川(おなぎがわ)です。
この川は、1590年(天正18年)、徳川家康によって開かれました。
下総の行徳を結び、必需品の塩を運搬するために拓いたのです。
隅田川から日本橋川に入り、直接、江戸城に運び入れたそうです。
この川は、後には、東北や関東からの物資の運搬に役立ちました。

小名木川の河口に架かる橋が万年橋です。

江戸時代、五代将軍綱吉の頃、この付近に住んでいた有名人がいました。
俳諧を確立した松尾芭蕉です。
何回か住まいを移したようですが、深川近辺が気に入っていたようです。
河口の右角に芭蕉庵史跡庭園が作られているほか、近くには芭蕉記念館も
あります。

さて、以前は、美しさで知られる清洲橋の下流に、
重厚な印象の永代橋が見えたのですが、
1980年(昭和55年)、二つの橋の間に、墨田川大橋が架けられ、
ほとんど見えなくなってしまいました。
隅田川大橋から、清洲橋と永代橋を眺めて比べてみるのも一興でしょう。

意外なことに、重厚な造りに思える永代橋の方が、使われている鉄材の量が 少ないのです。同様に、工事費用も、ほっそり型の清洲橋の方が多かった、とは。
 

5月20日(金)放送分 + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
今日は、勝鬨橋(かちどきばし)です。

隅田川の最も下流に架かる橋、それが勝鬨橋です。
時は1905年(明治38年)、悪戦苦闘の末に、旅順要塞が陥落した
のを祝って、「勝鬨の渡し」を設けたのが発端です。

明治時代、東京の発展にともなって築地の沖合いを埋め立てる作業が
進み、今日の月島や晴海が出来上がっていきます。
工場が建設され、規模が大きくなるにつれ、橋を望む声が高まりました。
財政難の中、橋を架けることが決定したのは昭和に入ってからでした。
そんな折り、月島と横浜を会場にした万博の実施が決まり、国家の
威信にかけて立派な橋を作ることになったのです。
その後、戦争が拡大したために万博は中止となりましたが、橋の
建設は予定通り進められました。
1940年(昭和15年)、勝鬨橋は完成しました。

250メートル近い全長の、中央部44メートルが跳ね上がる橋、
可動橋として作られました。
その当時は、隅田川の上流に、造船所や大きな倉庫があり、3000
トンクラスの船が通れる必要があったのです。

完成当初は、1日5回、最大角度70度まで開いていました。
珍しい形式の橋とあって、見物する人も多く、隅田川沿いに座り込んで
のんびり見物する姿が見られたものです。

勝鬨橋の都心側には、築地市場があります。大小のトラックや、
訪れる人で賑わっています。
戦後、経済成長とともに、都内の道路は混雑が目立つようになりました。
幹線道路である晴海通りにある勝鬨橋も渋滞が多くなり、次第に開く回数 
    が減っていきました。
晴海の見本市会場で大きな催しがある時などは、大変な渋滞が慢性的に
発生しました。

1970(昭和45年)11月を最後に、橋は開かなくなりました。
時々、昔のニュースなどで、中央部を開いた勝鬨橋の映像が紹介されます。
もう一度、開くのを見たい、という声も聞きます。
  
今度、勝鬨橋を渡る機会があったら、ぜひ、開く部分の歩道の上をごらんください。
歩行者用の信号が、昔のままに残されています。
両側に1組づつ、合計4組の信号が、出番を待っているのです。
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