マスターズインタビュー Master’s Interview

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「プレイヤーズ・ファースト」を説き、「野球道」の再定義を促す 桑田真澄さん

文化放送The News Masters TOKYO「マスターズインタビュー」。

今回のインタビューのお相手は、元プロ野球選手で野球解説者・指導者の桑田真澄(くわた・ますみ)さん。PL学園の投手として5季連続で甲子園に出場し、優勝2度、準優勝2度を成し遂げ、甲子園通算20勝は戦後最多。

スポーツをする子どもを一人の選手として認めて指導する「プレイヤーズ・ファースト」という考え方が昨今注目されている。タケ小山のインタビューは、「プレイヤーズ・ファースト」が野球界全体の発展につながると説く桑田さんの体験談から始まった。

「投手失格」の烙印を押されたPL学園入学直後

中学3年生のときに大阪府の全ての大会で優勝し、周囲も注目する中でPL学園に入学した桑田さんを待っていたものは「グラウンドに行って殴られない日はなかった。水を飲んじゃいけない、ユニフォームを汚さないと上手くならないと言われた時代。”それはおかしい”と思いながらも殴られるのが嫌だから言われた通りのプレイをするけど、納得していないから上達するはずもない」と桑田さん。

「入学早々チャンスもらったが、専属コーチから”お前の投げ方では高校では通用しないから、こうやりなさい!”と指導され、忠実に守ってやればやるほどダメになっていった。ますます通用しなくなり、野球を辞めようと思った。それと寮生活の超タテ社会の理不尽さに閉口。4月をなんとか乗り切り、5月も頑張ったけど、もう限界。

そのうちピッチャーもクビになり、野手に転向させられて、目の前真っ暗ですよ。そこで、辞める決心をして、母親に”転校させてくれ”と相談したところ、母親に”何か方法があるんじゃないの”と説得されて、いろいろ思いを巡らし考えた」という。

実は、桑田さんの「仮想と検証の野球人生」は少年野球から始まり、小学3年生で”なぜだろう、どうしてですか?”とコーチに指導内容に聞き、そのころから納得しないと行動に移せない性格だった。コーチの答えはいつも決まって”こういうモノなんだ!言われた通りにやれ!”の返事。それでも”違うんじゃないかなぁ”と桑田少年は得心がいかなった。

PL学園入学早々に「投手失格」の烙印を押された桑田さんに転機が訪れたのは、中学時代に思いを巡らした時。中学の部活動には細かい技術指導するコーチがいなかったので、自分なりに研究して好きなフォームで投げたから、大阪府の大会で優勝という結果を残した。

その頃の投球フォームや練習内容、短時間集中型に戻してみると、その効果はてきめんに表れ、1年生エースとして甲子園に出場し、6試合で好投し優勝に貢献した。

そして、実績を残したうえで、中村順司(なかむら・じゅんじ)監督に練習方法を変えるよう、直訴した。

「甲子園で優勝した後、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験。その時に中村監督と話す機会が増えて、そこで”甲子園であと4回優勝するためには、長時間練習より短時間集中の方がいいと思う、と怒られるのを覚悟して言ってみると、意外にも中村監督は”やってみよう”と。その代り、甲子園に出られなかったら元の練習法に戻すという条件付きで承諾。

でも、約束通りすべて甲子園に出場した。だから、その時以来、3時間以上練習したことはない。当時の目標は甲子園出場、大事なのは技術力を高めることで、長時間練習は意味がないと認めてもらいました」と日本球界屈指の理論派で頭脳派投手は、高校球児の頃から一貫していた。

<引退宣言とやり残した勉強>

桑田さんは1986年、読売ジャイアンツに入団すると、エースとして活躍し、沢村賞ほか数多くのタイトルを獲得。その後、メジャーリーグのピッツバーグ・パイレーツに在籍し、2年間でルーキーリーグからメジャーリーグまでを体験。Baseballの実情を知ったうえで、2008年に現役を引退した。

タケ小山は、現役引退への未練や、セカンドキャリアとして早稲田大学大学院を選んだ理由を聞いた。

「当初、自分としては2008年も現役でやるつもりだったが、なぜか”潮時かなぁ思い、いま卒業するべきで、次のステージに行かないと”と。先輩から”必ず悔いは残る”と言われたが、何一つ悔いはない。そういう気持ちになれたので、潔く引退を宣言した」と語る。

タケが「引退時に次のやりたい事」は明確に決まっていたのか尋ねると?

「まだその時点では、明確には無かった。引退を決めてから、次は何をやりたいかといろいろと考えた。中学1年の時から目標を立て、PL学園で甲子園に出場し、早稲田大学に進み、そしてプロ野球選手になるというプランだったが、早稲田大学が抜けているので、”挑戦しろよ”という声が聴こえてきた気がして、じゃあ早稲田大学に挑戦しよう、勉強しようと決意。

ただ、4年間勉強することが大事なのか、スポーツビジネスなど専門に特化して勉強した方がいいのかを考え、これからはスポーツビジネスを学んでおいた方が自分にプラスだなと結論に達し、大学院に行く決意をした」という。

「早稲田大学大学院 スポーツ科学研究科社会人修士課程1年制コース」での研究課題をタケが問うと?

「最初から野球界に貢献したいという思いがあり、修士論文の課題はひとつに絞っていた。それが『野球道』で論文の題目は『野球道の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究』とした。ただし、24年ぶりの学生生活は戸惑いの連続。テストの時など答えが分っているのに手が動かないイップスになったりした。

でも統計学などは面白かった。その理由は選手としての現役時代は統計を信用せずに感覚を優先してきたから。その他に法律や組織論などの授業が新鮮で楽しかった」という。

<『野球道』の教えとはなにか?>

『野球道』をテーマした桑田さんがどのような研究をしたのか、フィールドワークから聞いた。

「学童野球、学生野球、女子野球、ソフトボール、社会人野球、プロ野球独立リーグなど各ステージの野球場に足を運んで、現状を知ることから始めた。そうすると問題山積であることが再確認できた。これを改善しないと野球界は良くならないと実感した。

なぜなら、プロ野球選手の供給源はアマチュア野球。特に学童・学生野球の環境を整えて育てないと、プロ野球に良い選手があがってこないから」と自説を語り、戦前・戦後の野球界に大きな影響を残した人物の名前を挙げた。

「早稲田大学の初代野球部監督・飛田穂州(とびた・すいしゅう)がその人。『野球道』を説き、”一球入魂”や”千本ノック”という言葉の生みの親。飛田さんがどういう指導をしていたのか興味があり調べると、学生に罵声を浴びせたことはないらしい。千本ノックも体調によっては本数を変えていたという。

一番感動したのは”練習が終わったらさっさと帰りなさい”と学生を諭して、学生の本分である勉強したり、友達と遊ぶ時間も大切で、野球だけの人間ではだめで、模範学生になるのが本当の野球選手だと説いていた」という。

「まさに桑田さんがPL学園で提案したことと似てますね」とタケが問うと?

「野球選手にとって勉強は天才や秀才でなくても良いんです。でもグラウンドでは諦めるな、努力しろ、助け合え、と教わる。その一方で、グランドを離れると野球選手の欠点は何もしないこと。折角いいことを教わったのだから、授業にも食らいつかないといけないし、人生にも食らいついていくんです。失敗しても起き上って、目標に向かって挑戦していくのが本当の野球選手、スポーツマンなんですよ」。

<『野球道』の再定義の必要性とは?>

桑田さんは、日本の野球界の長所も短所も『野球道』という価値観が発端にあると考えるに至り、欠点だけを問題視するのではなく『野球道』の考え方を今の時代に合せて「再定義」しようと考えた。『野球道』を最初に説いた飛田穂州は新聞社の野球解説者に転じてからは「練習量の重視・精神の鍛練・絶対服従」を説き、早大監督時代の哲学とは異なる価値観で野球を論じた。何故か?そこには「戦争」が忍び寄る時代背景があった。

飛田は「野球を守るため」に有用論を主張した。戦後、野球を取り巻く環境は変わったはずなのに、復員した軍人が指導者となり長時間練習や体罰など、旧態依然とした悪しき伝統だけが残ってしまった。「誤解された野球道」の価値観が現在の野球界にも浸透している。この是正が必要と説く桑田さん。

<グラウンドで学んだことを、人生に生かす指導をすべき>

早稲田大学大学院で学んだ桑田さんは、少年野球チームの運営や、東京大学野球部のコーチに就任するなど、指導者の経験を積んでいる。指導者として感じた難しさ、スポーツマンシップを諭すことについて聞いた。

「指導者としてしばしば思うこと。それは、やらせるのは簡単だが、どう止めさせるかこれが難しいと思う。子どもたちに言うのは、私のチームは午前か午後のどちらかしか練習をしない。それ以外は勉強して遊びなさい、と。

そのバランスをとれないとチームにいる資格がないと教える。教え子の中には甲子園に出場する卒業生もいる。でも、それが凄いとは思わない。野球の経験が”あの時鍛えられたから今がある”と思ってくれるだけでいい」という。

また、大学スポーツでの危険行為などについても桑田さんは言及した。

「スポーツに大事なのはフェアプレイ精神やスポーツマンシップ。本来、スポーツを通じて学ぶべきこと。そして、その競技を一筋に長くやっていれば、その精神を持って実践できる指導者が残ってないといけない。

ところがなぜか、日本は長くやればやるほど、スポーツマンシップなどがなくなっている。大学の運動部の問題だけではないと思う。野球でも指導者らしからぬ者はいる。中学くらいまでは、ピッチャーとキャッチャーが重要なので、相手チームの監督が”ピッチャーに当ててこい!”と指示する人がいまだにいるのには残念。決して許せるものではない。アマとプロは切り離して考えるべきで、プロは勝利至上主義でいい。でもアマは人材育成主義が大事。

プレイヤーズ・ファーストの理念ができないと指導者はやってはいけない。日本の指導者は素晴らしい人がいるし、スポーツマンシップもわかっているが、試合になると、それを置いて、罵声を浴びせたりしてしまう。彼ら指導者も本来のやるべきことはわかっている。あとは実践するだけですよ」と強調する桑田さん。

<野球についての勉強は苦にならない>

40歳で現役を引退し、50歳までの10年間を充電期間と決め、早稲田大学大学院ではスポーツビジネスや組織論を学び、東大野球部の特別コーチに就任した縁で「東京大学大学院総合文化研究科」の特任研究員として「合理的なピッチングフォームやバッティングフォーム」を研究している桑田さん。

なぜ研究を続けるのか?と問うタケに、「勉強が好きだから」と応える桑田さん。「研究活動は苦労の連続ながら、続けられるのは野球についての勉強なら苦にならない」と言い放った。

そして、野球ファンは桑田さんのユニフォーム姿を期待している、とタケが水を向けると?

「ことしで50歳なので、勉強は終わりにして、そろそろ指導者としてユニフォーム着たいという目標を持っている。

チャンスがあればどの球団でも話を頂けたら行こうと思っている。ただ、現場は5年前後で土台を築いたら次に譲って切り上げるのが理想。それ以上長くなるとその球団のことだけになってしまう。個人的にはその先の目標として球界全体を良くしていきたいという望みが強い。

例えば、もっとプロ野球全体が収益を上げ、選手の年俸や裏方さんの待遇をよくしたいし、余ったらアマチュアに投資したい。学童・学生の野球環境を整えて育成する。ただ野球が上手なだけではなく、人に尊敬される選手、人間的にも優れた選手を育てたい」という。

<最後に桑田さんが「常に考えていること」とは?>

「分っていることが2つある。人は必ず死ぬということと、いつ死ぬか分らないということ。では、今何をすべきかと考えると、悩んだりひきこもっている場合ではない。明日死んでも悔いがない人生を送りたい。そのために思ったことはどんどん行動する。恥かいても失敗しても良い。自分のやりたいことを挑戦していくのが生きている証。失敗を恐れない。笑われても良い。失敗しても良い。自分の人生ですから。挑戦すべきです!」

監督桑田真澄の雄姿を望む多くのプロ野球ファンのため、球界のためにも遠くない日に叶うことを期待する。

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