■気仙沼向洋高校が震災遺構として保存され、公開が始まった
3月10日、宮城県気仙沼市の気仙沼向洋高校の旧校舎が震災遺構として保存され、公開が始まった。12日放送の文化放送「The News Masters TOKYO」では公開日の様子が伝えられた。
気仙沼市階上(はしかみ)地区には3月11日、12mほどの津波が襲い、200名以上が亡くなった。気仙沼向洋高校も4階部分まで津波が押し寄せた。しかし、生徒170人は全員、より高台にある階上中学校などに避難して無事だったほか、校舎に残った先生や近くで工事を行っていた作業員ら合計48人は南校舎の屋上に避難し、助かった。
市はこの校舎を震災遺構として保存することを決定。見学ルートの整備などを行い、併設する伝承館とともにオープンさせた。来場者は、3階の教室に残された車や松の幹、床に散乱した教科書やパソコン、4階の壁に残された津波の跡など、津波の恐ろしさを見学できるようになっている。また、階上地区の15人が語り部として参加し、自らの体験を伝える役割を担う。山梨県から訪れた女性は「実物だな、というのがグサっとくる。語り部の方の話も聞いたが、そこまで逃げてやっとだったのかと思った」と息を飲んでいた。
(3階の教室にはひっくり返った車がそのまま残されている)
■保存することへの賛否
気仙沼向洋高校の旧校舎は、生徒が無事だったこと、校舎で亡くなった方がいないことなどを理由に、震災遺構として残されることになった。ただ、前述の通り、階上地区では200名以上が亡くなっている。階上地区に住む方々からも戸惑いの声が聞かれた。
妹が行方不明のままという男性は
「被害にあってるから、思い出したくないこともある。妹も行方不明のままなんだ。妹は助かったんだけど、孫を助けに行くって戻っちゃった。海さ行く途中でやられちゃったんだね。これからの人には(旧校舎は)あったほうがいいけど、ちょっときついのはあるな」
また、娘と孫の3人で伝承館を見に来た男性は
「女房の実家が裏手にあって、津波で妻の母親が流されたので…。うちの妻は、海の方に来たがらない。8年経ってもそう。だから今日も伝承館には行かないって。人それぞれだから何とも言えないですよね」
一方、旧校舎が残る意義を強調するのが、語り部を務める近藤公人さん。
「車がある、校舎が壊れている、松の幹が部屋に残っている。目で見る。“津波を見られる”証がいっぱいある。これは貴重。更地にしても、後世には何も伝わらないと思う」
また、向洋高校OBのひとりは、母校への想いを口にした。
「当時1年だった。今は石巻に住んでいて、母校がどうなったか見に来た。震災を伝える役目を果たしてほしい。津波が来たらとにかく逃げる。とにかく逃げるんだって。映像だと、現実としてわからない。やっぱり現実にこうなったんだよって伝えることが大事だと思う」
(感想を掲示するエリアにOBの男性が残したメモ)
先生たちは屋上で生き残った。その屋上から見える杉の下地区では、避難場所になっていた高台に津波が押し寄せ、93人が亡くなった。ある方は「高校では助かったけど、杉の下では93人が亡くなった。そのことも一緒に知って欲しい」と話す。岩手県大槌町の旧役場庁舎が解体されるなど、各地で津波の爪痕を残すものが減っていく中、気仙沼向洋高校の旧校舎は津波の恐ろしさと避難の大切さを伝える役割を果たしていく。
(旧校舎の屋上から杉の下地区を望む。携帯電話の鉄塔の左手に高台がある)