寺島尚正 今日の絵日記
2023年3月27日 満開
3月22日東京のソメイヨシノの満開が発表された。
満開とは、標本木で八割以上のつぼみが開いた状態のこと。
そしてこの週末、花びらが舞い始めている。
先日、ある仏教者からこんなフレーズを聞いた。
「桜散る 梅はこぼれる 椿落つ 牡丹崩れる さて人は?」
花の種類によって最後の表現が変わる。
例えば「桜は散る」というが、「梅はこぼれる」という。
桜の場合、風が吹いて花びらが散っていく様を表現している。
梅の場合は、背が低く、目の高さからポロポロと落ちていくことから「こぼれる」という表現になったそうである。
椿は、花弁が個々に散るのではなく、萼とメシベだけを木に残して丸ごと落ちる花だから。
もっとも、品種によっては花弁がバラバラに落ちるという。
牡丹は、花びらが1枚ずつ一気に散っていくことから「崩れる」という表現になった。
他に、「朝顔はしぼむ」、「菊は舞う」と表現する。
朝顔は早いものは昼前で花が閉じることから「しぼむ」という表現になった。
菊は枯れると花びらが残り、垂れていく。
その垂れた花びらが風に吹かれてまるで踊っている様に見えることから「舞う」という表現になった。
詩人たちは、そんな美しい花の最期を様々な表現で詠み、それを味わう我々は日本語の豊かさに感動する。
ところで、人はどうか?
人は「死ぬ」ではなく「往く」のだと、その仏教者は説明した。
「普通に考えると人の最後だから「死ぬ」と表現されると思う。
それはそれで間違いではない。むしろ当然ともいえる。
しかし私達が考えるには、人は死んで終わりではない。
この世は、極楽浄土に往生する為の修行ともいえる。
だから人は「往く」のだと。」
勿論、宗教によっては違った解釈があるのも承知している。
いずれにしても、「表現」には意味が込められている。
改めて、発する言葉や表現によって、相手に伝えるイメージは大きく変化するものだと再認識した。
ベランダに吹き込んで来た雨が、花を落とした沈丁花に当たっている。
「庭石に花こぼしをり沈丁花」 富安風生
今年も沈丁花がこぼれる時期を迎えた。