寺島尚正 今日の絵日記
2009年7月6日 飲み込まれた街
先日、三宅島に縁あってお邪魔した旨をお話したところ、読者からメールをいただいた。
そこには「阿古(あこ)地区の溶岩遊歩道には行きましたか?」と記されていた。
三宅島村は東京都。品川ナンバーの車が走っていることで実感する。長円形で径7?10キロメートル、面積約55.50平方キロメートル。83年(昭和58年)噴火では溶岩流が西海岸の阿古の約7割を埋没・焼失させた。2000年(平成12)噴火で、山頂にカルデラできるとともに多量の有毒火山ガスが発生したため、9月から約4年半の全島避難が続いた。人口は約2500人。昭和58年の噴火で埋没した阿古小学校の跡が噴火当時そのままの状態で残っているのが溶岩遊歩道。小学校があったということは、この地区にはかつて民家が密集していたのがわかる。それが大方埋没。不幸中の幸いは死者が出なかったことだ。
住民の復興への並々ならぬ努力は想像を超えるものがある。今では旧小・中学校跡から歩いて5分程の所に新しい校舎が出来、体育館は様々なイベントに使用されている。
と同時に自然の驚異的な逞しさも、この遊歩道から強烈に感じる。噴火から4半世紀。当時は想像する余裕もなかった光景が所々に現われている。
ハチジョウイタドリ・・・植物が1m近く根を伸ばし、茶褐色の溶岩の上に命を増やし始めている。その茶色と緑のコントラストは私たちに希望を与えてくれる。400戸の家を飲み込み、溶岩一色だった阿古地区。時が流れ、少しずつ緑が多くなっているという。ハチジョウイタドリの葉がやがて落ち、土になり、低木植物の栄養となる。低木植物がやがて溶岩を覆う。そしていつしか森になる。命のバトンタッチ。そのいつしかは100年単位。壮大だ。自然の営みは、残酷であり慈悲深くもある。その両方ともが自然なのだ。人生も同じ。鉄筋がくの字に曲がり、溶岩が攻め、そして緑が生え始めた光景を見て改めてそう感じた。
会話を交わした島のおばちゃんがこうつぶやいていた。
「でも仕方ないよ・・・それが三宅なのだから・・先祖からここに住んでるからね。
みんなここで生きてきたのだから。辛いなんていっていられないよ。
見たでしょ!?あの、溶岩から青葉が出ているの。すごいでしょ!
初めて見つけた時はね、みんな泣いた。手を合わせたんだよ
ここから・・あたしたちの家が埋まってる所から・・。
此処で生きなきゃ、ここで生きていかなきゃ!ってね。
お陰でさ、感謝する心は強くなった。ありがたいってどういうことかわかったよ。」
事実は全部受け止める。そして出来るところから動いていく。
それが自然なのだろう。おばちゃんはちっとも暗くなかった。
今でも場所によって高濃度ガスが発生する。飛行機も飛ばない。飛行場付近にガスが流れるためだ。チャンスを作って行ってみてほしい。笑顔で島民が歓迎してくれる。
おばちゃん、また会いにいくからね!