「三木鶏郎先生」 桜井 順
先生と言う呼び方はピッタリ来ないのだが。鶏郎先生と出会わなければ、ボクは、音楽好きの冴えない商社マンとして人生を歩んだかも。
1956年、大学4年の秋に、大阪朝日放送の「クレハ・ホ-ムソング・コンク-ル」にヒョイと応募したのが、スベテの始まりだった。商社の採用通知の直後にコンク-ル入選の通知があり、4人の審査員の一人だった三木先生から「是非会いたい」と電報が来て、カンズメ的仕事場だった四谷の「森や」なる旅館に出向いた。畳の上にペタリと置いた電気ピアノの前で、パジャマにドテラ羽織った三木さんは、ニコヤカに「冗談工房」で音楽のシゴトをしないか? と。
ニッポン放送などで「劇伴」のアルバイトなどコナシてはいたが、音楽で食べていけるとは全く思っていなかった。でも続々と民放テレビが開局していたマスコミ世界への興味は大きかったので、サラリ-マンの傍ら「工房」でシゴトをすることにした。当時、寝るヒマも無いほど忙しかった三木先生43才、ボク23才。
2足のワラジの結果、商社のサラリ-1万円ポッキリ、「工房」での音楽やコント書きなどで、その10倍以上は稼いだ。稼ぎだけでなく、放送カンケイのシゴトは面白かったので、カッキリ1年で、商社に辞表を出し、バカじゃないの、と周囲はアキレた。
翌年も朝日放送の入選者いずみ・たくが「工房」に招かれ、前年の入選者、芸大卒の越部信義とボクの3人で、「工房」に押し寄せるシゴトを捌いた。三木先生には「師弟カンケイ」とか「徒弟修業中」と謂った感覚はまるで無く、ハナからボク等を一人前扱いでシゴトを托した。例えば「パパは何でも知っている」というアッチの流行りホ-ムドラマシリ-ズ、テ-マだけ先生が書き伴奏音楽は3人で手分けして書く。そうしたシゴトの重なりで体力勝負の徹夜が続いた。
その他、三木先生の人脈とのツナガリでシゴトの場がドンドン広がった。小野田勇、キノ・ト-ル、三木鮎郎、などのテレビ番組の音楽担当。例えばNHKの「若い季節」の脚本は小野田勇、テ-マソング作詞は永六輔。その他にもフジTV、日本TV、TBSTV、当時の教育TV、教会を改装した四谷の文化放送、日比谷のニッポン放送など、三木先生から始まった人脈はあらゆる方向にツナガった。
1964年に「三芸」と改称していた「工房」で事件が起こり、嫌気が差した三木先生は事務所を解散、マスコミ業界を去り、その後はサイパン島やハワイ・マウイ島などで、悠々自適の生活。サイパン島には2回ほどお邪魔して、一緒にゴルフを楽しんだりした。
1994年、急逝された先生の年令、80才にボクも達している。青年時代に身に付けたクラシック音楽教養を、「日曜娯楽版」で大衆啓蒙的に利用した巧みな才能と、内外交友範囲の広さ、そして例えば「糖尿友の会」など、自分の病気まで冗談半分社会化してしまう時代環境洞察力には「脱帽」。こんなヒトはもう出ません。ただ、あまりに近くに居たために、その音楽作品を後の世代に伝える努力を欠いていたなア、という自覚忸怩。さまざまな想い篭めて合掌。
桜井 順