戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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一年間、本当にありがとうございました

去年の4月から始まったこの番組も最終回を迎えました。

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51回の放送で、47人におよぶ戦争体験者の方々のインタビューをお届けしてきました。体験を聞くことは「戦争話を聞く」ということでは無く「生き方を教わる」「生き延びていくための知恵を頂く」ということだったと思います。「もっと聞きたい」「もっと生きるための知恵を教わりたい」という思いが毎週毎週強くなる中、最終回に辿り着きました。

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日本語で多くの方の話を聞いてきましたが、今年に入ってからは英語で伺った話も紹介しました。和訳をつけるために何度も何度もインタビュー録音を聞き直す作業もしました。その時に気付いたことは、実際に当事者と向き合って話をすると、それだけで「理解できた」つもりになってしまっていたのではということです。しかしインタビュー音声を繰り返し聞く事で会って話した時には気付かなかった部分も沢山浮かび上がってきたのです。詳細な話の隙間に多くの生きていくための知恵を見つけることができました。

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これからも皆さんの話を振り返りながら、伺った話をもっともっと掘り下げていきたいと思います。そのためにも僕はこの番組を書籍化する作業をこれから始めようと思っています。もう一度47人の皆さんの話を繰り返し聞くことで自分が気づかなかったことやまだ気づいていないことが沢山見えてくると思います。

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一年間番組を続けたことで、伺った話はどれも生き延びることを可能にした「成功例」だったことに気づきました。戦争体験を聞くことは悲惨な体験や惨めな体験を聴くことだという先入観を持っていましたが、皆さんは悲惨な戦争を力強く生き延び今も元気に語り続ける証言者です。満州からの帰国体験を持つ漫画家のちばてつやさんは、日本という国家から見捨てられた満州に暮らしていた人達がどうやって悲惨な状況を乗り越えて生き抜き、そして日本に帰りついたのかという話を語ってくれました。それはまさに「生きる知恵」の具体例であり、命が輝く話でした。僕がこれからの人生で苦難に直面した時に、どういう知恵と行動が必要かということを一人一人から教わったという思いでいっぱいです。

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僕の歴史のとらえ方も大きく変わりました。自分の母国アメリカと日本の関係を考える上で重要になるのは真珠湾攻撃です。テレビや映画で多く描かれてきたので知識が自分のものになっていると思い込んでいました。真珠湾を訪れた際にはアリゾナ号に向かい資料も確認しました。真珠湾攻撃が本当に奇襲攻撃だったのかという疑問符はこの番組が始まる前から掴んでいるつもりでもいました。そして、元ゼロ戦パイロットの原田要さんに会いに長野に行きました。原田さんは真珠湾攻撃の際の哨戒機担当でしたが、真珠湾攻撃の現場にいたものとして「攻撃部隊の報告を聞いて、アメリカの空母の姿が見えなかったのはまずい事ではないのかと思った」と語ってくれたのです。「空母がいない」ということの持つ意味について、真珠湾攻撃の現場でリアルタイムで考えていたということが僕には衝撃的でした。アメリカ軍が戦場には不可欠で代用のきかない大事な空母は遠くへ避難させ、軍艦だけを並べておいたのではないかと僕は後知恵ながら疑い続けていたのですが、原田さんの現場体験が自分の疑りとつながったことで初めて歴史が少し見えてきた気がしました。

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原田さんの後、今度は択捉島で育った鳴海冨美子さんに会いに青森に向かいました。鳴海さんが漁師の娘として暮らしていた択捉島。島の中部にある単冠湾(ひとかっぷわん)は原田さんが真珠湾攻撃に備えて空母に乗りやって来た場所です。1941年の11月下旬のことでした。鳴海さんと原田さんの2人は同じ時間、同じ択捉島にいたということになります。そう考える事で択捉島の「生活」と択捉島の「軍事的な意味合い」と現在の択捉島の「北方領土問題」がつながります。択捉島の存在が立体的なものとして現実的なものとして見えてきました。真珠湾攻撃が何だったかを考えるにはハワイの真珠湾で掘り下げれば見えるものではないということを知りました。長野に向かい原田さんに話を聞いて、アメリカ・シカゴに飛んで日系人に話を聞いて初めて真珠湾攻撃が何だったのか見えてくる。ひいては日米の戦争、日米関係が何なのかも見えてくるのではないでしょうか。

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沢山の人に出会い、ひとりひとりがそれぞれの大変な体験をいつから語り出したかということも教えて頂きました。半世紀経ってようやく語ることができた方もいました。家族同士でも話をしなかった方もいたのです。そういう方がこの世の中には沢山います。それぞれが語ることができる心の準備の期間があると思いますが、「聞きたい人」がそばにいることで語りはじめることが可能になるのではと実感しました。過去の話を語り継ぐだけではなく、未発見の知恵を掘り起こすために聴いていくという事の中に、僕たちがこれから生き延びていくための知恵が沢山潜んでいるのです。そしてその聴いた話を周りに伝えていくことが、自分が生きていく上で必要になるのではと考えています。

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自分が知っていると思っている話も、白紙の気持ちになって身近な人に聞く事で未発見な知恵が現れてくる。そういうことを71年目の今年やっていきたいのです。皆さんも身近な人の体験から尋ねてみてください。

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この一年間で学んだことの中でもっとも大きいものは「聞きたい」という思いです。これから広島で今まで誰にも語らなかった方の原爆体験を聞きに行きます。長崎原爆の被害者、谷口稜曄(すみてる)さんの話も5月に話を聞く機会に恵まれました。放送になるか、原稿になるか、自分の生きる知恵として頂く事になるのかはまだわかりませんが「聞く事」は自分が生きていくために重要だということを実感しました。この番組を滑走路にしてこれからまずます聞き役として羽ばたきたいと思っています。

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これからも皆さんと一緒に聴いていきましょう。

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アーサーのインタビュー日記

お話を聞かせて頂いた47人の皆さまに改めて御礼を申し上げます。またお目にかかりたいと思います。そして僕と一緒に戦争体験者のお話を聞いて下さったリスナーの皆さま、本当にありがとうございました。
~福島菊次郎さんと西村幸吉さんのご冥福を祈って~         アーサー・ビナード

アーサーさんのお姑さん、栗原澪子さんの書いた決戦日記

インタビュー最終週。最後にお話を伺った栗原澪子さんはアーサーさんの奥様の母親、つまりお姑さんです。日本全国はもとよりアメリカでもお話を伺ってきたアーサーさんがずっと気になっていたのは「まだ身近な人に聞いていない」ということでした。戦中戦後の激動の時代を生き抜いた先輩方には百人に百様の物語があります。灯台下暗しとならないようにお姑さんに改めて戦争体験を聞いてみることにしたというわけです。

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澪子さんは、1932年に埼玉県の嵐山(らんざん)に生まれました。父を早くに亡くし、母は食糧難の時代を生き抜くため学校教師の職を辞してにわか農業を始めました。東南アジアではナチスドイツが快進撃を続け、フランス領インドシナ、仏印と呼ばれていた東南アジアを手中に収めます。すると同盟国の日本軍も東南アジアで権益を拡大。澪子さんの学校には当時の子供達の憧れだった「ゴムボール」が届きます。東南アジアはゴムの木が林立する一大生産地。澪子さんはこう考えました。「そうか、日本の占領地が増えるということはゴムボールが手に入るという事なんだ」。子供心には日本軍の活躍が実にまばゆく映ったのでした。先生は自慢げにこう語りました「これからゴムボールはいくらでも日本に入ってくるぞ」。しかし、ゴムボールが二度と入ってくることはありませんでした。

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文学少女であるとともに愛国少女だった澪子さんは当時の状況を日記に克明に記しています。その日記のタイトルは何と「決戦日記」。

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これが「決戦日記」です。字も上手!

弱いものをいじめる欧米列強に対し戦いを挑む皇国・日本の姿に沸き立つ澪子さんとは対照的に大正デモクラシーの時代を生きてきた澪子さんの母親はうかぬ表情でした。「日本が勝つはずがない」と口にする母に澪子さんは「お母さんのような非国民がいるから日本の戦況は苦しくなるのよ」と食ってかかりました。そんな澪子さんに母は「あなたのように純真な心にお母さんはなれないのよ」と優しく諭すのでした。大人になり、当時の母の思いが良くわかるようになった澪子さんです。

澪子さんの語りと日記は、水雷艇の冷却ポンプを作る軍需工場に通った話。壊れた自転車で工場に向かう途中機銃掃射に追われて逃げた話。工場でも激しい空襲にあった話など一人の少女の目線で戦争を見つめた生々しい記憶である記録です。文章力のあった澪子さんは、工場で聴いた玉音放送でも「太平を開かんと欲す」の一言で戦争の終わりに気付き、泣き始めました。澪子さんは、戦後も学校の授業の綴り方で優秀な成績を残し、その褒美として学校長とともに東京裁判を傍聴しています。当日の「決戦日記」には「被告あはれなり」などの記述もあります。どこか現実感が乏しくもあるその美しい文章の中に、当時の子供達がどのように大人たちの戦争に染められていったのかが良くわかる「決戦日記」は当時の一級品の資料ともいえるのです。

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まさに身内ならではのショット。昼食に舌鼓を打つアーサーさんと台所に立つ澪子さんでした。


アーサーのインタビュー日記

僕は義母が日記をつけていることは知っていました。「日記をつけるとずっと後になって大事な記録になるからつけた方が良いわよ」と言われた事もあります。しかしまさか「決戦日記」という日米の本土決戦を意識した日記をつけていたという事は知りませんでした。そんな骨の髄まで軍国少女だった義母がなぜ「鬼畜米英」の国の男を婿として迎えることになったのかと考えると、そこには義理の祖母の存在が有ったのでしょうか。祖母は若くして亡くなったので僕の妻にも祖母の記憶は有りません。今回、戦争体験を聴くため祖母の家に行ったのですが、大正デモクラシーの中に育ち軍国主義の時代を生抜いた義理の祖母に無性に会いたい思いを胸に抱いて帰路につきました。

日系人シリーズ第3回~今村ミノルさんと兵坂米子さん

アメリカ本土で戦争を体験した日系人の皆さんのインタビュー第3回。
今回は今村ミノルさんと、兵坂米子さんのお話です。

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受賞した勲章や賞の数は1万8000個以上。アメリカ史上最も功績を挙げた伝説の部隊として今なお称えられているアメリカ陸軍・第442連隊戦闘団。「アメリカへの忠誠心を示すために」と集められた日系アメリカ人で構成された部隊です。御年90歳となった今もお元気な今村ミノルさんは、終戦の前の年の1944年に日系人部隊に入隊してヨーロッパへ戦線へと向かいました。

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18歳で入隊した今村さんは豪華客船クイーンメリー号に乗って、スコットランドからロンドンを経てフランスに渡りドイツに向かいました。しかしヨーロッパに向かう洋上で、ナチスドイツの降伏を知ったのです。ドイツに到着した今村さんはニュールンベルグの駐屯地に赴任し、進駐軍として一年間フランスとドイツを往復する生活を送ります。強制収容所にいた年上の日系人たちの多くはすでに442部隊で命を落としていました。後輩として彼らに続いた今村さんですが徴兵されることは怖くはなく外国を見聞したい気持ちの方が強かったそうです。「まだ若かったからね」と笑って話してくれました。

戦後は日本と同様、ドイツの人たちも飢えていました。日本人の顔をした今村さんですがアメリカ兵の一員としてドイツの子どもたちにチョコレートやチューインガムを配ったそうです。不思議な巡り合わせですね。日本が降伏したという一報を聞いた際はとても嬉しかったそうです。それは「家に帰れるから」。家とはもちろんアメリカの故郷のことです。

最初は英語で話していた今村さんですが、少しずつ日本語を思い出しながら語ってくれました。当時、米軍の日本語通訳として日本で働くこともすすめられたそうですが「嫌だ」と断ったそうです。今村さんは一言「ありがた迷惑でした」と言って苦笑いました。

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7人の日系人インタビュー。最後は9歳で強制収容所に入った兵坂ヨネコさんです。兵坂さんは、自らの体験談と合わせて、フィリピン系アメリカ人と国際結婚したお姉さん家族の話をしてくれました。

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兵坂さんの姉の夫は、フィリピン系アメリカ人。夫妻には幼い子どもが一人いましたがアメリカ政府は兵坂さんの姉と子どもの2人だけを夫から引き裂いて強制収容所へ連れて行こうとしました。姉の夫はそれに激しく抵抗し「それなら俺も強制収容所に入る」と言い張ってともに入所したのです。入所してからも義理の兄は当局に対して粘り強く抵抗し続け厄介な存在になっていきました。扱いに困った当局は、ついに兵坂さんの姉と義理の兄、そしてその子どもの3人に「もう収容所から出てよろしい」という通達を出したのです。 

姉家族はそうして出所しましたが、両親と兵坂さんら子供たちはみなカリフォルニア州のツーリー・レーク収容所に入れられ、さらにアーカンソー州のジェローム収容所へと移されました。アメリカ政府は日系人に対して思想の調査を行い「アメリカと日本、どちらに忠誠を誓うのか」と二者択一を求めました。「日本に忠誠を誓う」を選んだ人たちは、そのままツーリー・レーク強制収容所に残され日本に強制送還されることになりました。しかし結局彼らの大半は後に解放されます。当時のアメリカ政府の政策がいい加減だったことが分かります。日系一世でアメリカ国籍を取得できない兵坂さんの両親は「日本に忠誠を誓う」と答えようとしましたが、兵坂さんら子ども達の抵抗にあって断念しました。

後に収容所から解放された兵坂さん一家はユダヤ人が経営するミシガン州の農場に雇われますが、そこに捕虜となったドイツ兵が井戸の水を使わせてくれとやってきました。恐ろしく悪魔のような存在だと信じていたドイツ人たちがあまりに普通の人たちだったので兵坂さんは驚きました。「どうして彼らと戦争をしたのだろう」

ミシガン州で兵坂さんたちが差別されることはほとんどありませんでした。彼らは日本人を見たこともなく珍しい存在だったのです。戦争が終わり地元の学校に入学した兵坂さんたちを見てクラスメートたちが言いました。「嘘だ!君たちは全然日本人じゃない」「僕たちは漫画で読んで知っている。日本人は色が黄色くて目がつりあがっているんだよ」。


最後に、兵坂さんは番組リスナーに対して「私たち日系人は何とかうまくやっていますから皆さん心配しないで下さいね。私は日本のみなさんが元気に暮らしていることを祈っています。原爆を落とされて、私たちよりも大変な目にあったのですから。」と語ってくれました。

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皆様、本当にありがとうございました!素晴らしい笑顔で迎えて頂いてアーサーさんの良き思い出となりました。

アーサーのインタビュー日記

今村さんは、家族が強制収容所に入れら犯罪者扱いを受けているのに、日本流に言えば「赤紙」が届いて442部隊に入るしかありませんでした。何という矛盾でしょうか。僕は日本に来てから、戦前戦中に朝鮮半島の人たちが強制労働をさせられていたことを初めて知って、なんと矛盾だらけの犯罪なのだろうと感じたのですが、自分の母国であるアメリカの政府も同じような矛盾の中で日系人たちを扱ったことを知り憤りを持って受け止めました。

一方、兵坂さんが収容所を出た後住むことになったミシガン州の田舎町のディケーターは、僕の生まれ育った町の近くにあります。だから兵坂さんに対して「君は日本人じゃないよ」と言ったクラスメートの顔までが鮮やかに想像できました。兵坂さんの語るドイツ兵の記憶や自身の入学時のエピソードから伝わってくるメッセージは「結局、同じ人間同士じゃないか」ということです。言葉を置き換えれば「共感」と呼べるものです。最後に兵坂さんは「原爆の長期に渡る影響を心配している」と日本への心配りも口にしました。兵坂さんの兄弟はアメリカで農業を営んでいたのですが、戦後日本でも撒かれた強力な農薬DDTの散布 によって肺をむしばまれ亡くなっていったそうです。だからその事情が良くわかると話してくれました。この心配りもまた兵坂さんの持つ大きな「共感」のひとつなのだと感じました。

日系人シリーズ第2回~女性たちの記憶 ジーン三島さん メリー大家さん ジェーン日高さん

今回は日系アメリカ人強制収容所の体験を持つ3人の女性、ジーン三島さん、ジェーン日高さん、メリー大家さんの話です。

1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名すると、翌月末にアメリカ西海岸を中心に、敵となる外国に祖先を持つ者にアメリカ陸軍が強制立ち退きを命じました。日系アメリカ人の多くは、戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所と司法省などの政府機関が管理する収容所や拘置所に強制的に入れられることとなります。その数は12万313人に上りましたが、このうちの7割は、アメリカの市民権を持つ日系二世、三世の人たちでした。

日系三世であるジーン三島さんはアリゾナ州フェニックスの南東50キロに作られた「ヒラリバー強制収容所」に1942年に入れられます。そのとき5歳でした。まだ幼かったため、収容所に向かった際の詳細は覚えていないそうです。しかし壁からシャワーヘッドが突き出ているだけの収容所の簡素なシャワー室で、自分たち子ども3人がたらいの中で順々に体を洗ってもらったことやたらいに座って見上げると、並んで体を洗う大人の女性たちのお尻が並んでいたことは良く記憶しています。収容所の裏は砂漠だったので出入りは自由。しかし散歩して転ぶとサボテンの針が沢山刺さりました。ジーンさんはやがて収容所の中の小学校に入学します。教師たちはキリスト教・クエーカー教徒が多かったのですが、外には砂漠が広がるばかりで白人教師たちも収容所で暮らすしかありませんでした。そのため長くは続かなかったと言います。教師たちの顔ぶれはしょっちゅう変わったのでした。

ジーンさん一家は収容所に入れられたことで全ての財産を無くしました。集団生活では朝昼晩の食事もまた行列に並んで受け取り取ることになります。子供は子供同士で食べることが習慣になり、徐々に一家団欒の場は消えていきました。家族の会話も次第になくなり、父親はもはや自分は一家の主では無いと自覚、自負心を無くしていったそうです。

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ちなみに日系人の皆さんのお話はジーンさんのご自宅で伺いました。ジーンさんはシカゴ日系人歴史協会の会長を務めるなど地元日系人社会のリーダーの一人として活躍されています。なぜ日系人たちが強制収容所に入れられることになったのかについてもいろいろと教えて頂きました。日系人の収容所問題は1980年代の後半からアメリカ政府が検証委員会を立ち上げ検証してきました。9つの州で公聴会を開き、750人の証言をきいて1万点の歴史的な資料も検証。基本的人権を無視した事実が報告書としてまとめられました。結論は「日系人を収容所に入れることは軍事的に必要なかった」「人種差別と根拠ない恐怖を先導した結果であり、ルーズベルト大統領の政治的なリーダーシップの欠如」と導かれました。

最後にジーンさんは、「歴史は繰り返されている」と話してくれました。2001年のアメリカ同時多発テロを受け、当時イスラム教徒たちを強制収容所に入れようというような声も上がりました。その時、多くの日系人たちが反対の声を上げたのだそうです。「そんなことをしたら、私たちがやられたことを同じじゃないか」と。


続いて伺ったのはメリー大家さんです。1924年にモンタナ州に生まれた日系二世のメリーさんは西海岸のオレゴン州ポートランドに暮らし、学校に通いながら農場で働いていました。日米開戦はラジオで知ったそうです。そして18歳の時に、カリフォルニア州のツーリーレイク強制収容所に入れられる事となります。収容所に入る際には、荷物は一人で運べる2つのカバン程度しか許されませんでした。最初、一家は地元ポートランドの一時的な収容所に入れられます。そこは競馬場の中の馬小屋で、親たちは政府によって自分たちが家畜同然の扱いを受けている事に対して大きなショックを受けたと言います。メリーさんの一家は「ここにいるよりはましではないか」と、自らツーリーレイクの収容所に入ることと決意しました。しかしツーリーレイクはできたばかりの寂しい施設。後から送られて来ると思っていた知り合いたちはアイダホ州の収容所へ向かい、メリーさん一家は知人たちと離ればなれになってしまいました。

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戦争が終わる間際、メリー大家さんの一家は、シカゴに移りましたがアパートを借りることもできませんでした。空き室はあるのに貸してくれない。敵国、日本への憎悪が貸主たちに「部屋はもう一杯です」と言わしめていたのです。中国人に対しては第二次世界大戦当時アメリカの友国だったため差別待遇はありませんでした。しかしアメリカ人には日本人と中国人の見分けはつきません。だから中国人たちは「私は日本人ではありません」というバッヂを胸につけて生活していたそうです。


最後に、ジェーン日高さんをご紹介します。

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ジェーン日高さんは先週ご登場頂いたリッチ日高さんの奥様です。離婚した父親がワイオミング州のハートマウンテン強制収容所の中で結核にかかって死んだ際の思い出を語ってくれました。訃報を受けてジェーンさんは母とともに自分たちが暮らしていたアーカンソー州のジェローム刑務所から汽車に乗り、遠路はるばるワイオミング州まで向かいました。しかしハートマウンテンの駅に着くと、預けていたはずのスーツケースが届いていません。スーツケースが誤ってワイオミング州のデンバーではなくコロラド州のデンバーに運ばれてしまっていたのです。当然スーツケースに入れていた喪服もありません。しかし親切な日系人達が服を貸したり面倒をみてくれたそうです。6月のお葬式でしたが雪が降っていたことを記憶しています。どの収容所も、人が暮さない寒々としたところに作られていたのでした。葬儀を終えて、ジェロームに再び戻ることになったジェーンさん母娘。汽車に乗っていたところ、途中でアメリカ兵たちが乗りこんできました。するとジェーンさんたちは彼らに席を譲らねばならなくなったのです。席が足りない場合は日系人が席を譲ることになっていました。ジェーンさんのご主人のリッチさんは、戦時中、電車が満員になった際に降りることを命じられた記憶もあります。砂漠の中なのでどこで降ろされたのか次の電車がいつ来るのか何ももわからない場所で降ろされました。当時の日系人がどのように扱われていたかが良くわかるエピソードです。

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ジョーンさんとジーンさん

強制収容所に入れられる際に、日系人たちは皆、住んでいた家を置いていくか他人に貸していくことになりました。多くの人は裏切られて家を取られてしまいましたが、ジェーンさんの祖父母は幸いにも信頼できる人に託していたので無事返してもらうことができカリフォルニアに戻ることができました。
一方、ジェーンさんは戦後、シカゴにあるユダヤ系の宝石店に就職しました。ユダヤ人が経営する店で働く日系人は多かったそうです。ヨーロッパとアメリカでともに差別され家を追われ強制収容所に送られたもの同士、勤勉な民族性も似ていました。戦後シカゴには2万人くらいの日系人が集まったそうです。日本人が知らない日系人の歴史です。

ジェーンさんの母親たちの世代は強制収容所にいたときの話を家の中でも全く話しませんでした。あの強制収容が人権侵害や違法だったという話も体験者同士では話さなかったそうです。その理由を、ジェーンさんは「おそらく恥ずかしかったからだろう」と説明してくれました。何の罪もないのに犯人扱いされて収容所に入れられたことが「恥ずかしい」ことだったのです。犯罪者扱いされた恥ずかしさで記憶を葬って当時の日系人たち。恥ずかしかったか理由をジェーンさんは、「アメリカ政府の処置を仕方がないこと」と受け入れてしまったからではないかとも話してくれました。

アーサーのインタビュー日記

合衆国憲法と照らし合わせると、日系人たちが強制収容所に入れられるという事はあり得ない話です。しかしそれが実際に70年以上前、アメリカ政府によって行われました。本来は政府に責任を突きつけて然るべき話ですが、「恥ずかしくて」家族の間でもその話はできませんでした。僕はその話を聞いて日本の当時の戦陣訓に出てくる「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が頭に浮かびました。アメリカ政府は巧妙に国民を操作するために、「恥」の心理を使い責任を取らずにこの問題を葬ってきましたが、改めてこの問題と向き合い歴史を繰り返さないこと。3人の話を伺いそのことの意味の大きさを改めて痛感しました。

日系人シリーズ第1回~「開戦の日から周囲の視線が変わったな」リッチ日高さん

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去年の9月、アメリカに帰国したアーサーさん。渡米の目的は、インディアナ州にあるノートルダム大学の講義に招かれたためでした。後ろの電光掲示板は「アーサー、来る!」かな。

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真面目に講義をやっています。

忙しい合間を縫って、ノートルダム大教員のヘザーさんの車の助手席に乗せてもらって向かった先は大都会シカゴ。日本ではほとんど知られていませんが、シカゴは日系人にとってとてもゆかりの深い場所で、戦後、最大で2万人もの日系人たちが暮らしていた場所なのです。アメリカ・カルフォルニア州北部の町モデストで両親がクリーニング店を営んでいた日系2世のリッチ日高さん。

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仕事を求めてアメリカに渡った宮崎県出身の父とハワイ生まれの母が切り盛りする店は白人の客たちで賑わっていました。しかし日米開戦の翌日からは周囲の厳しい視線がリッチさんたちにも注がれるようになり、白人の客たちの足は遠のきます。さらにモデストの日系人社会のリーダーだったリッチさんの父親は、日系人であるというだけで開戦から2日後に当局に連行され取り調べを受けることになりました。一度、帰宅した父親はその2日後に再び拘束され、FBIとともに帰宅。荷物をまとめると「みんなとお別れだ」と言い残し捕虜収容所へと消えていきました。父親とリッチさんが強制収容所で再会できたのは、それから2年後のことでした。
戦争が始まると、リッチさんの身の回りにも変化が起きます。一番仲の良かった白人の遊び仲間がリッチさんと全く遊んでくれなくなります。彼は日高さんに言いました。「うちの母さんに、お前と遊ぶのを禁止されたんだ」学校でもクラスメートたちは日系人のリッチさんと全く口をきいてくれません。そんな毎日が続き、少年だったリッチさんの胸に暗い影を落としました。
そのうち日高さんたち残された家族も強制収容所に送られることとなります。列車に乗せられ「窓の外は見るな」と言われて三日三晩の旅。デンバーで乗り換えて着いた先は、コロラド州のアマチ強制収容所でした。
家も財産も奪われ打ちひしがれる大人たち。しかし若くて腕白小僧だったリッチさんは怖い父親の監視も無くなったのを良いことに悪友でもある年上の兄弟たちといたずら三昧の生活を送ることになります。ある日、兄弟たちとともに収容所の外に忍び出るとパトカーを盗みドライブを楽しんでいたリッチさん。前から来た追跡のパトカーに体当たりをしかけて道路の外に追い払うと、車を降りてちりちりばらばらに逃亡し、夜にそっと収容所に戻りました。しかし翌日になると万事休す。捕まった日高さんたちに課せられた罰は、毎週末に役所や警察の車両をピカピカに磨くという仕事。「坊やたち。そんなに車が好きなら、毎週その大好きな車をたっぷり磨かせてあげることにするか」厳しくもどこかユーモラスな収容所生活をたくましく生き抜いたリッチさんたちでしたが、悪運も尽きる日が来ます。いたずらが過ぎて、お兄さんが車を荒らしをしてお縄になり、ついに収容所を追われることとなりました。しかし、アメリカ政府は土地も家も白人が奪ってしまったカリフォルニアに日系人たちが戻ることを禁じていました。そこでリッチ日高さんたち一家が向かった新天地がシカゴだったのです。

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アーサーさんと、リッチさんジェーンさんの日高さんご夫妻です。
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アーサーのインタビュー日記

リッチさんと話していて実感したのは「ああ、この人はアメリカ人だな」という事でした。快活で陽気なリッチさんは、僕よりもよほどアメリカ人らしい人物だなとも感じました。そんなリッチさんの家族がアメリカ軍の邪魔をすると事はとても考えられず、収容所に入れる理由はどこにもみあたらないのです。しかしリッチ日高さんの一家が、カリフォルニアの社会に溶け込んで地域で役割を果たし、白人や黒人たちと毎日触れ合っているとアメリカ政府にとって都合の悪いことがひとつあります。日系人である日高家の人たちが、自分たちと変わらない「人間」であることがアメリカ中のいろんな人に伝わってしまうのです。日系人(日本人)たちもまた「人間である」と理屈ではなく実感としてつかめるのです。お互いが「わかりあえる」ということがわかるのです。そうなると、焼夷弾を雨あられとばかりに降らせて東京を焼き払うとか、まして広島や長崎に原爆を落とすということがアメリカの世論として難しくなります。一般のアメリカ人たちが日本に焼夷弾や原爆を落とす理由が理解できなくなるのです。だから強制収容所に日系人たちを収容したのは「わかりあえない社会を作る」「共感が広がらない社会を作る」とうい戦略だったのではないでしょうか?「アメリカ人」のリッチ日高さんを前にしてそう思いました。

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