戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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広島を世界に向けて伝える通訳者の小倉桂子さん

アーサーさんのもう一つの拠点である広島に帰ってきました。

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向かった先は広島平和祈念資料館です。

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広島原爆による被爆体験者であり、原子爆弾の怖さを通訳として海外に伝え続けているボランティア団体「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表の小倉桂子さんにお話を伺いました。

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1945年8月6日、当時8歳だった小倉桂子さんは、爆心地から2.4キロの自宅近くで被爆しました。「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」。厳しかった父の命令で学校を休み自宅にいた小倉さんは助かりました。小倉さんのお兄さんは島根県境の学童疎開先にいましたが何も伝えられず、幾日か経ってから教師たちに広島が壊滅状態になったとの事実を知らされました。50人のクラスメートのうち家族が全員無事だったのは小倉さんのお兄さんを含めたった2人。父親の予感とそのほかの偶然の重なりで家族全員が救われたのは、まさに奇跡に近い事でした。

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とは言え当時は核の怖さが国民に知らされておらず入市被爆などの二次被害も相次ぎました。怪我もしていない周囲の人たちが、ある日突然亡くなっていく。それは小倉さんにとって恐怖以外の何物でもありませんでした。学校に登校した一人の級友は、核兵器の閃光を直視したために片目の視力を失いましたが、長らくその事実を小倉さんにも伝えていなかったそうです。

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自身の被爆体験を家族の間でも長らく口にしなかった小倉さんは主婦として平穏な暮らしを送っていましたが、37年前に広島平和記念資料館の元館長、小倉馨さんを突然亡くします。夫の死にうちひしがれていた小倉さん。その小倉さんに連絡をくれたのは旧知の作家でジャーナリストのロベルト・ユンクでした。ユダヤ系オーストリア人でホロコーストの大量虐殺を生き延びたユンクは、アメリカによるマンハッタン計画の取材をきっかけに広島原爆の悲惨さを世界に伝えた人物です。
ユンクが世界に知らしめたひとりが、折り鶴のエピソードで知られる佐々木禎子さん。禎子さんの物語はユンクから世界に広まり、逆に世界から日本に伝わりました。
そのユンクにより、原発取材の通訳を依頼された小倉さんでしたが、固辞します「通訳をした事もないし、英語が上手なわけでもない。それに私はもう42歳だ」しかしユンクは「肉親の死という悲しみを知り、原爆の恐ろしさをも知るあなたがもっともふさわしい」と半ば強引に通訳の世界に担ぎ出しました。ユンクの意思を継ぎ、夫馨さんの意思を継ぎ、「広島」を世界に伝えるだけではなく、チェルノブイリ事故やスリーマイル島事故、南太平洋の核実験....広島を訪れる世界の核被害に苦しむ人々の体験をも聴き続けています。
アーサーさんのインタビュー日記に出てくる「ヒロシマ辞典」..今も買えます。

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こちらは、小倉さんらH.I.P平和のためのヒロシマ通訳者グループ発行の新刊本。

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広島カープや宮島の情報を知りながら平和都市・広島の顔を覗けます。英語の学習にもなり、一粒で三度おいしい!? 小倉さん達HIPの皆さんの思いは、平和運動とは違う目線で新たに広島を伝える事に向かっています。

アーサーのインタビュー日記

ロベルト・ユンクの通訳は本当に大変だったと思います。僕も少しだけ通訳の仕事をしたことがあるのですが、物理学者では無い小倉さんは、それまで原子力や核開発の勉強などしたことはありませんでした。広島原爆は体験していますが、通訳者としての勉強もしたことがなかった小倉さんが、半ば強引に頼まれてユンクの通訳を務めた事が出発点になり、世界中の被爆者の体験を聞いて、日本から世界へ、世界から日本へ伝える生活を35年近く送ることになりました。小倉さんの話を聞いて、改めて広島の被爆体験とは何かということをもう一度考えました。それは皆が20世紀から21世紀にかけて共有してきた歴史であり、現実でもあるのかもしれません。たとえ自身が被爆体験を持っていなくても、小倉さんの話に耳を澄ましてみると必ずどこかで自身の体験とつながってきます。広島の被爆は、アメリカにおける核実験から始まりますが、それはウラン鉱山です。ウラン鉱山で被曝したのは広島や長崎の人たちではなくアメリカの鉱山労働者たちです。最初の各被害者は僕と同じアメリカ人であるとも言えるのです。そして、南太平洋やチェルノブイリ、そして福島と…広島の体験は広島で終わらず、今までずっと続いてきました。ユンクが1980年に広島に来た時も、原爆の取材ではなく原子力開発に関する取材でした。福島で今も続く問題は、三十数年前から今に至るまで小倉さんが通訳してきた体験がつながったひとつの結果と言えるのです。
今から30年以上前に、「ヒロシマ辞典」という本を小倉さんとその仲間たちが編集しました。今も買う事ができます。僕も1冊持っていて、ずいぶんお世話になっているのですが、「広島」の事を調べるのはもちろん「福島」の事を英語で語る時にも参考にしたりします。福島の体験も広島の体験も、ミクロネシアの島々の核実験被爆の体験も、チェルノブイリ原発事故の被害者の体験も、スリーマイル島事故の被害者の体験も…全てつながっているということが、小倉さんの通訳体験からみえてきます。

ポーランドに生まれホロコーストを生き延びたユダヤ人のモリス・チャンドラーさん

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺のことを「ホロコースト」と呼びます。強制収容所での過酷な労働や広場に集めての銃殺や人体実験、ガス室での毒殺・・・ユダヤ人の絶滅を狙った様々な迫害や殺戮は人類の歴史に暗い影を落とし、今も史実の検証や戦犯に対する裁判が続けられています。このホロコーストを生き延びた一人が、今回お話を伺ったモリス・チャンドラーさんです。チャンドラーさんは1924年、ドイツの隣国ポーランドでユダヤ人の家庭に生まれました。ポーランドに侵攻してきたナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害は1939年、チャンドラーさんが住んでいた村にも忍び寄ります。その時、モリス・チャンドラーさんは15歳でした。

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インタビューしたのは、シカゴにある息子のポールさんのご自宅。チャンドラーさんは現在ミシガン州在住です。そしてミシガン州と言えば、アーサーさんの生まれ故郷というご縁!


ドイツが侵攻したポーランドでもチャンドラーさんの暮らすワルシャワなどの都市部ではユダヤ人たちがゲットーと呼ばれた狭い区画に押し込められました。チャンドラーさんは地方の農家に住み込んで働く事にしましたが、その農村部にもナチスの魔の手は忍び寄りユダヤ人を雇うことが禁じられます。しかしチャンドラーさんが働いていた農家の女主人は辞去を伝えたチャンドラーさんに対して「もう少し待っていなさい」と命じます。深夜になり帰宅した役場務めをしている女性の甥が握りしめていたのは、チャンドラーさんと同世代の亡くなった男性の身分証明書。「あなたはこれからこの人になりすますのです」 そう伝えた甥は、チャンドラーさんにカトリック教徒になりすますための習慣や挨拶などを3時間に渡って徹底的に伝授したのです。


チャンドラーさんは、カトリックにおける「聖人」とは何かについて話をしてくれました。当時、ポーランドにおいてもドイツにおいても、ユダヤ人を匿う事は自分の家族や家や財産も危険にさらす行為でした。自分が生き延びるために他人の身分証明書を準備し、カトリックの風習や言葉を教えて送りだしてくれたポーランドの農家の女性とその甥。チャンドラーさんは「彼らこそが聖人なのだと思う」と話してくれました。

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40年以上経って後、チャンドラーさんは自分を助けてくれたポーランド人の農家の女性の所在を確認する事ができました。チャンドラーさんの友人が彼女を村に訪ねました。そしてチャンドラーさんがアメリカで元気に暮らしていると報告した瞬間、彼女は驚きと喜びのあまり泣き崩れたそうです。彼女はチャンドラーさんから預かった写真を大切に保管してくれていました。そしてその写真は40年の時を超えてチャンドラーさんの元に戻ることになりました。チャンドラーさんは彼らと念願の再会を果たすためにポーランドを訪れる事になりました。しかしチェルノブイリ原発事故が発生してアメリカ人に対する旅行規制がかかったために渡航はできなくなります。夢はかなわず、その後、再会を果たせぬまま女性は亡くなります。しかし生きているうちにチャンドラーさんの無事を報告する事ができたのはせめてもの救いでした。チャンドラーさんを救ってくれた農家の女性とその甥には、イスラエルにあるホロコースト博物館から「諸国民の中の正義の人」という称号が贈られました。彼らのおかげ生き延びるきっかけをつかんだチャンドラーさん。その後アメリカに渡って子供が生まれ、そして孫ができました。

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アーサーさんとモリスさん、孫のカイラさんと息子のポールさんです。
写真には写っていませんが、モリスさんとアーサーさんの橋渡しをして下さったのはポールさんの奥様でシカゴの大学で教べんを取る日本人の近松暢子さんです。カイラさんは今年来日し、広島・福山にある日本で唯一のホロコースト教育センターで祖父チャンドラーさんの経験を語る予定です。 チャンドラー家の物語は、子から孫へと語り継がれています。


なおモリスさんの体験は、2014年に出版された
「Three Minutes in Poland: Discovering a Lost World in a 1938 Family FilmHardcover(グレン・カーツ著)」でも詳しく綴られています。 日本語での出版を強く願うばかりです。


Podcastでも日本語の訳を重ねたバージョンでお送りしますが、アーサーさんの「モリスさんの温かみのある声を皆に聴いて欲しい」というリクエストで、モリスさんの声をそのまま生かした形で改めてホームページにアップする予定です(日本語訳をホームページに掲載します)。少しお時間を頂く事になると思いますが、どうかお待ちください。

アーサーのインタビュー日記

僕は母国語である英語以外の言葉、全く知らなかった「日本語」という言葉に分け入って今まで生きてきました。だからチャンドラーさんがポーランド語に分け入っていった体験と少なからず共通点を見つけることができます。しかし、チャンドラーさんと僕には大きな違いがひとつあります。僕は普段の生活の中で、日本語ができるかどうか試されることはあっても命を取られる事はありません。ところがチャンドラーさんは少しでも表現や発音を間違えると命を奪われるという究極の試され方で、毎秒毎秒を乗り越えて生き延びることができました。チャンドラーさんがどのようにカトリック教徒のポーランド人達の生活に心や行動を合わせていったかという体験を聞いて、改めて人種差別というものは一体何なのだろうという疑問が湧いてきました。チャンドラーさんはユダヤ人の言葉や文化、過去を捨てたわけではありませんが、ポーランドと言うもう一つの文化と言葉と宗教を完璧に身に着けることで生抜きました。しかもその体験を僕に語ってくれた際に使った言語は英語。それだけではなく、チャンドラーさんが自身を振り返る際にはポーランド人になりすましたユダヤ人になりきっているのですから本当にすごいことです。チャンドラーさんの存在は、言葉を変えて文化を変えて生き延びていくことができる...人間はそういうすごい才能のある生物なのだという事を教えてくれます。
チャンドラーさんは彼自身の生き方がそのまま、人種差別がいかに愚かであるかという事を、皆に示している存在だと思います。

作家、山中恒さんが今も探し続ける「戦争の不条理」

児童文学の名作を数多く世の中に送り出してきた山中恒さん。自らの経験を元に膨大な資料を調べあげ戦時中の軍国主義教育を描いた「ボクら少国民」シリーズなどの著者としても知られています。

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お互いの著書を手に


子どもの頃、大林宣彦監督の青春映画「転校生」に胸をときめかせた方も多いでしょう。あの映画の原作「おれがあいつであいつがおれで」の原作者が、児童読物作家の山中恒さんです。子どもの頃、土曜日になるとテレビドラマ「あばれはっちゃく」を観て少しだけガキ大気分に浸った方も多いでしょう。山中さんはその「あばれはっちゃくシリーズ」の原作者でもあります。

天皇陛下に仕える小さな皇国民という意味で、戦時中、小学生たちは「少国民」と呼ばれていました。学校では基礎的な軍事訓練も行われ、男の子なら兵隊になることに憧れた時代に山中さんも子供時代を過ごします。1931年、満州事変が起こった年に北海道の小樽で生まれた山中さん。日中戦争から太平洋戦争と続く「15年戦争」の只中で少年時代を過ごし14歳で終戦を迎えます。ドイツ映画「世界に告ぐ」を教材に、ボーア戦争においていかにイギリス兵が残虐だったかをすり込まれていた山中さんは、当時の教師の教えに沿って、アメリカ軍に捕まる前に自決することを覚悟します。しかし友人は「お前は司令官でも参謀総長ではなく、ただの中学2年生のガキだぞ」「どうしても死にたければ、先生たちが死ぬのを見届けてからそうすれば良い」と諭されました。しかし自決する先生は一人もいませんでした。終戦直後、まだ「原爆なんて鏡で跳ね返せる」と生徒たちに暴論を披歴していた教師たちでしたが、一月も経つと、今度は軍国教育のバイブルだったはずの教科書の「墨塗り」を子供たちに命じます。山中少年が戦争から学んだ教訓は「大人を信用するな」「権力者を疑え」でした。

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これが噂の山中さんの書庫。蔵書が何と2万冊!
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タグをつけ背表紙を貼って実に丁寧に分類されています。当時の日本の雑誌や書籍だけではなく、日本の事情を伝える戦時中のアメリカの雑誌コーナーなども充実していて、戦争を太平洋の西側と東側から眺める事ができる一級資料の数々です。山中さんが長い月日をかけて古書店を巡り集めたもので、その膨大さと資料の希少さに書架を眺めながらアーサーさんもただ茫然...

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恐ろしいタイトルの本も!

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アーサーさんにとってはまさに「宝の山」状態。予想通り、読み耽りはじめたのでした。

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ところが5分以内に山中さん宅を辞し、急いで会社に戻らないと「吉田照美 飛べサルバドール」の出演が間に合いません。「また来ます」と約束し、山中さんと奥様の典子さんに手を振りながら名残惜しげなアーサーさんでした。

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3月21日(月)まで東京・町田の町田市民文学館では「児童読物作家、山中恒-子どもと物語で遊ぶ」展が開かれています。ぜひ足をお運びください。ちなみに最終日を除く毎週月曜日と、2月12日(金)、3月10日(木)はお休みですのでご注意ください。

アーサーのインタビュー日記

山中さんが膨大な資料を収集し書きあげた「靖国の子」(©大月書店 1600円+税)という本の中に、三重県の国民学校4年生の大井君の詩が出てきます。
「僕のからだ」というタイトルです。
~僕のからだは御国のからだ 大きくなれば戦争で きっとりっぱに働きます。僕の兄さん三等水兵 病気でたおれて死にました 僕が大きくなったなら きっとかたきを討ってみせます。御国のためなら 死んで忠義を尽くします。死んで御国に御奉公をつくします。~
この大井君の言葉を2016年の日本の言論空間の中で読んだり聞いたりすると違和感を覚えます。しかし、あの時代を生きて、あの時代に日本の学校教育を受けた子供たちにとっては日常の言葉の範囲内、日常の考え方だったのでしょう。「死んで忠義を尽くす」と小学校4年生が誓う事が普通だったのだと思います。山中さんはこの時代を体験して、それを踏まえた上で自身の作品を書いています。沢山の消えてしまった声、子供たちの言葉、そして当時の大人たちの教育を資料の中から掘り起こして整理し、2016年に生きる人間が「あの時代」に分け入って、皆の話が聴けるように間口を広くし奥行も作ってくれています。そのことで私たちが現在と当時を比較することができるし、今の時代の中で慣れてしまい気づかない異常さや違和感もきちんと感じ取ることができるのです。それがとても貴重な事です。今の時代をきちんと批判しそのおかしさを見抜き、そして騙されないために、「70年前80年前の日本は何だったのか」という事を見渡してつかむ必要があるのではないでしょうか。

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