戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

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硫黄島の戦いからの生還者、秋草鶴次さん(前編)

今回は、栃木県の足利市にやってきたアーサーさん。硫黄島の壮絶な戦いの渦中にいた秋草鶴次さんにお話を伺いました。

秋草さん1.JPGのサムネール画像

東京都心から、南へおよそ1250キロ。日本本土とサイパン島のほぼ中間に位置する太平洋の小島、硫黄島。戦前は約1100人の日本人が暮らす穏やかな島でしたが、アメリカ軍にとって日本への大規模空襲を行うための、日本軍にとって本土上陸を防ぐための防波堤としての最重要拠点として激しい戦闘が繰り広げられることとなりました。女性や老人、子供たちは島を追われ、若年壮年の地元男性たちは軍属として戦闘に巻き込まれていきます。
クリント・イーストウッド監督の2部作でも描かれた1945年の2月から3月にかけて行われた硫黄島の戦いは、日本軍よりも米軍に多くの死傷者を出した戦いでもあった一方、2万1千人余りの日本兵のうち生き残った者はわずか1023人という悲惨な戦いにもなりました。そしてそのわずかな生存者の一人が、今回お話を伺った秋草さんです。

秋草鶴次さんは硫黄島に、前の年の7月、海軍の通信隊員として17歳で赴任。どこに向かうのかもわからないまま、連れて来られたその島にある、菊池さんというお宅の庭に設けられた北通信所が、秋草さんの最初の着任地でした。

秋草さんのモールス機.JPGのサムネール画像
当時の秋草さんの仕事道具です


その後、正月早々、配置替えを命じられ向かったのが玉名山の通信科。戦いの最前線にあるこの場所に来た事で、秋草さんは寿命が何ヶ月も縮まったことを覚悟したと言います。


「十七歳の硫黄島」「硫黄島を生き延びて」の著作でも知られる秋草さんのお話は、詳細で緻密で論理的です。通信員という硫黄島を地理的に俯瞰し把握していた職業とも関係しているのかも知れません。余談ですが、話の中で秋草さんは、クリント・イーストウッドの映画の中で擂鉢山が見えるシーンの誤った描写についても指摘していました。興味深いお話は近々更新するPodcastでご確認下さい。

秋草さんの黒い砂.JPGのサムネール画像
硫黄島の黒い砂。クリントイーストウッド監督の「硫黄島の戦い」では、北欧の火山島アイスランドの黒い砂のビーチで撮影が行われたそうです。この砂は本物の「硫黄島の黒い砂」です。

来週の後半では、右の手と左の足に重傷を負った秋草さんが、壕の中で隠れた苦しい生活の後、米軍の捕虜となりアメリカ本土に送られた際のエピソードなどを伺います。


アーサーのインタビュー日記

僕は日本語という言語に出会う前に、すでに硫黄島という日本語を知っていました。もちろんそれはローマ字で綴られた「IWOJIMA」です。アメリカで聞いた「IWOJIMA」、映画でも観た「IWOJIMA」は、それが硫黄島という島の名前である以前に、米軍が苦戦しながらも勝利した戦い、Mount Suribachiに星条旗が翻った戦い、そんな象徴的な意味が強く入っていたと思います。
そんなIWOJIMAという単語が、硫黄島(いおうとう)という「島」であることを意味していることを理解したのは実は来日してからです。秋草さんはその壮絶な戦場となった硫黄島で九死に一生を得た体験を語ってくれました。時間の関係で放送できなかった箇所では、戦が始まる前の美しい硫黄島の景色を写真を見せながら解説もしてくれました。秋草さんが硫黄島で暮らしている間、いかに植物や動物、美しい海や山、砂浜の黒い砂の様子まで細やかに観察したかということに僕は驚嘆しました。秋草さんには、美しい島がどのように戦場として変貌していったのか、あの戦争は硫黄島にとってどういうものだったのかという事を俯瞰する視点があります。そのような視点があることで、日本軍と米軍の戦い、どちらの勝ち負けかという次元を超えた、戦争が持つ「破壊の本質」も見えてくると思いました。そして戦争の爪痕、傷痕が硫黄島には今も生々しく残っている事こそが、あの戦争の本質だったと学ぶこともできました。

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