戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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気象観測を夢見て陸軍気象部に就職した中島邦男さん

子どもの頃から雲を眺めるのが好きだった中島邦男さんは終戦の前の年の3月、近所の電柱に貼ってあった陸軍気象部の要員募集を偶然見て応募し見事合格し杉並の高円寺にある陸軍気象部に軍属として勤務する事に。しかし雲を眺めていた頃からの憧れだった観測部への配属はかなわず、予報部で勤務することになりました。当時、中島さんの父親は日本最北の地であった南樺太に単身赴任中。戦時中であるにも関わらず本土では想像もできないほどの海産物を手土産に帰省する姿を見て、樺太への赴任を志願し許可をもらいます。青森まで汽車で向かい青函連絡船に乗り、函館から再び鉄路で稚内へ。そしてぎゅうぎゅう詰めの船に体を押し込んで揺られること8時間、大泊港に到着したのは夜の事でした。

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当時は大谷と呼んでいたソコルにある落合陸軍気象観測所に着任した中島さんは晴れて希望だった観測の担務に就く事になりましたが、冬にはマイナス40度にもなる極寒の地での夜の雲の観測作業。耳の凍傷に耐え、窓を揺らす鋭い風の音にも耐えて中島さんの観測生活は続くのでした。

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アーサーのインタビュー日記

中島さんは陸軍気象部に入ると、ひたすら暗号を読み解く仕事をずっとやらされていたそうです。その理由は当時気象情報は軍事機密として扱われていたからです。どういう組織が何を機密にするかをみるとその組織が何を狙っているかどういう状況に置かれているかが良くわかります。しかし日本軍が気象状況を全部機密にしなければいけなかった事が僕には驚きでした。
自分の生まれ育ったアメリカの軍が当時何を機密にしていたか、今何を隠しているかは大事なポイントです。核開発においてプルトニウム作りがいかに重要だったかもよくわかります。しかし日々の気象情報が秘密にされるということは、アメリカから隠すというよりも自国民から隠す、つまり自国の軍が先に飛んでくるか敵機がやってくるかということを日本政府が先に把握する。それは日本国民の心理に影響していった気がします。4年近い年月、気象情報がずっと秘密とされ、一般国民が日々天気予報、気象状況に触れない中で戦局が厳しくなりました。そして多くの日本人が最後の最後には「神風という暴風が吹くかもしれない」と信じていたのでしょう。その心理的な状況と日々全く情報が入ってこないということがどこか深いところでつながっていたかもしれません。

神風特攻隊の元隊員 手塚久四さん

東京帝大在学中に学徒動員された手塚さん。経済学部でアメリカの交通事情を学び、アメリカの産業規模の大きさを知り尽くしていた手塚さんにとって、彼らとの戦争はあまりに無謀な事と思えたのでした。しかし知力のみならず運動能力にも長けた手塚さんは、座った椅子をぐるぐる回した後1分以内に立ち上がるといったテストに心ならずも合格し戦闘機パイロットに選ばれます。特攻隊志願について「熱望」「希望」「否」と書かれた調査票を10分間にらみ続けた手塚さん。希望という字を消して「望む」と書き直しました。この時、ひとりだけ「否」と書いた早稲田の学生は制裁を受けたものの特攻隊には選ばれなかったそうです。手塚さんは沖縄戦では特攻メンバーに選ばれずほっとしたのも束の間、沖縄戦の惨敗を受けて召集された本土決戦のための特攻メンバーに選ばれます。
香川県の観音寺基地からの出発を命じられ、死を覚悟して北海道・千歳の部隊から陸路出発した手塚さんたち。途中の仙台駅で聴いた玉音放送に愕然としながらも、戦争が終わったことと「自分は死ななくて済むことになった」ことがすぐにはむすびつかなかったそうです。

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貴重な機体と貴重な人材を無駄に使う特攻戦には合理性が無いと説く手塚さん。一方で、自己犠牲の精神は自爆テロとは違うものであると、ジャーナリストのマクスウェル・テイラー・ケネディ(ロバート・ケネディの子供)に熱く語ったこともあります。

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手塚さんが搭乗したゼロ戦の模型。同僚を訓練中に亡くした悲しい思い出や、訓練で小樽の上空を飛んだ清々しい思い出。旋回を繰り返した緊張の記憶。さまざまな思い出の上に手塚さんの反戦への思いが込められています。

アーサーのインタビュー日記

手塚さんは話の中に本当に熟慮してもっとも適切な言葉を選んで表現される方です。それは手塚さんが特攻隊に組み込まれるときの体験にも現れていて「熱望か希望か、それとも否か」の中でどれも選ばず「望む」と書いたエピソードも手塚さんの言葉の適切さへのこだわりだと言えると思います。
しかし「東大まで行って特攻隊で死ぬのは嫌だ」と思った手塚さんですら「否」とは書けない時代でした。その「書けない」ところに、突っ込んで自爆していく以外の道が全て閉ざされていた仕掛けが隠されていると思います。特攻隊がまさに突撃してくる現場だけをみていた当時のアメリカ兵達は「神風のパイロットたちはみな人殺しの機械だ」「自爆集団だ」「テロ集団だ」とみていたけれども、アメリカ兵達は手塚さんが「望む」と書かざるを得なかった希望調査の現場は見ていません。「本当は死にたくない」「本当はその道を選びたくない」若い青年たちがどのように組み込まれていったのか?それがわからなければ、なぜ彼らが「突っ込んできたのか」を理解できないと思います。
早稲田の学生がひとり希望調査で「否」と書いたそうです。つまり、当時越えられなかったはずの境界線を少なくとも一人は越えていたということを手塚さんから聞きました。その学生は「否」と書いたことで殴られたけれども、特攻隊として突っ込まずには済んで手塚さんと同様、戦後に命がつながりました。私たちが組織に組み込まれ自分の意思と全く違うことをやらされるときには、そこに向かっていく過程の途中で抵抗できる場面が必ずあるはずです。私たちがどうやって生きていくか?その重要な課題が手塚さんの話の中に示されていたと思います。

原田要さん 太平洋戦争、その後の死闘

今週も先週に続いて、元ゼロ戦パイロット、原田要さんにお話を伺いました。真珠湾攻撃に哨戒部隊として参加した原田さん。その後、ウェーク島の戦い、ボートダーウィンの空襲などを経て、コロンボ空襲では敵の戦闘機5機を撃墜、逃げるイギリスの戦闘機ホーカー・ハリケーンを深追いしてしまいます。煙を噴いて水田に落下した敵機を確認し空母に戻ると、すでに空母蒼龍の姿は有りませんでした。着陸する母艦を失った戦闘機に残された運命は墜落する事だけです。原田さんは敵機にぶつかって死ぬと決め、先ほど敵機が墜落した現場に戻りますが、なぜか敵機の姿はありませんでした。それから、56年後、イギリスのジャーナリストを経由して、その時の敵機のパイロットだったジョン・サイクスさんが存命だという事を知らされた原田さんはイギリスに向かい、涙の再会を果たします。その後、戦争の行方を大きく変えた自身も九死に一生を得た大惨敗のミッドウェー海戦を経て、ガダルカナルの戦いではついにアメリカのグラマン戦闘機と撃ち合いともに墜落しました。
しかし、またしても奇跡的に命を長らえ、負傷帰国した原田さんは神風特攻隊の教官を務め、8月15日の敗戦を迎えます。しかし物語はそこで終わりませんでした。何とそのグラマンのパイロット、アメリカ人のジョー・フォスさんとも1991年に再会を果たしていたのです。

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フォスさんに機体が撃たれた際に飛び散った破片が左腕に突き刺さりました。

最前線の死闘と戦後の再会のドラマ。小説でも描けない人間の物語です。お国のために飛び続けた原田さんの総飛行時間は、およそ8000時間。凄まじい戦争の現場を知り尽くした原田さんが辿り着いた境地は「戦争ほど愚かなものは無い」という信念でした。

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前のめりの姿勢で語り続けた原田さん。本当の戦争を見た人だからこそ伝わる反戦の意味です。

アーサーのインタビュー日記

原田さんは、ゼロ戦というもの凄く速く恐ろしい戦闘機のパイロットでした。原田さんが敵機と撃ち合い、そして撃ち落とし、また自身も撃ち落とされた話を聞くと背筋が寒くなり、どういう感覚だったのか想像するだけで怖い話です。しかし同時に、原田さんの話を聞いていると、撃ち合っている相手、戦っている敵の顔もところどころ見えてきて、人間同士が命のやりとりをしていたという感覚も鮮やかに伝わってくるのです。今も戦争は続いています。シリアで戦闘機が撃ち落とされるニュース、アフガン、イラクで無人偵察機が地上の誰かを撃ち殺すというニュースを聞き、一体どういう状況で命のやり取りが行われたか考えると、パソコンによる遠隔操作で無人偵察機を動かし、カメラで確認しながらゲームの延長線上でやっているような感覚だと思います。原田さんの戦争体験と70年経った今の戦争は「人間同士の感覚」が変わったのだと思います。 

しかし原田さんの物語は、単なる飛び道具の問題だけでは終わりません。原田さんは、自分が撃ち落とした敵が実は生き残っていた事を知って、アメリカやイギリスまでに行ってその相手と対面して語り合い互いがどうやって命をつないだか確認しているのです。
そういう命の確認作業が、原田さんの戦争体験とつながって
戦争がいかに間違った方向に人間を引っ張っていくかを知りました。
原田さんは戦争体験を語りながら戦争を憎んでいる人です。
しかし敵を憎んでいるわけでも、自分自身を否定しているわけでもありません。
戦争が自分と自分の敵にさせた事を人間として憎んでいるのです。
そんな原田さんの持っている感覚、原田さんの到達した戦争の大きな否定は、
技術の進歩で敵と顔を合わせなくてよい戦争の時代になってもおおいにあてはまると思います。戦争を止めるには原田さんの戦争体験と原田さんの平和作りの体験が実に役に立つと思うのです。

長崎原爆を探しました

文化放送のホームページでお知らせしていた「ウェンズデープレミアム アーサー・ビナード 長崎原爆を探して」。今日(9日)放送させて頂きましたのでご報告いたします。今回は特別編という事でアーサーさんの眼差しで70年前の長崎原爆を追いかけました。

ウラン型の広島原爆と違いプルトニウム型の長崎原爆は、すでに7月20日から練習投下用のパンプキン爆弾という名の模擬爆弾が全国に投下され多くの死者を出していました。終戦翌年のマーシャル諸島の原爆、さらにその後に至るまで地球を汚染していったのは自然界にあるウランではなく人工的に作られたプルトニウム型原爆です。そんなプルトニウム爆弾に焦点をあてた今回の番組は、アーサーさんにとっても新たな発見がありました。


日本では誰も知らなかったその謎を解き明かしたのは、愛知県春日井市に住む元中学教師、金子力さんたちのグループです。敗戦前日(戦争終結はすでに決定していた)の8月14日に、なぜ春日井に爆弾を落とされなければならなかったのか?その素朴な疑問から始まった調査は、山口県の高専教授、工藤洋三さんらの力強い協力を得てアメリカの公文書館や国会図書館の資料探訪を続けることとなりました。その結果わかった事実が、空襲を行う部隊とは全く別の「原爆を投下する部隊」が存在し、彼らが8月6日と9日に原爆を投下するため、そして投下した後も模擬爆弾という5トン爆弾を落とし続けていたという事でした。地元の空襲を調べた結果がまさか広島や長崎に行き着くとは思ってもいなかったと金子さんは語っていました。

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金子さんとアーサーさん。アーサーさんが手に持つ金子さんと工藤さん編著の「原爆投下部隊」は凄い資料本です。

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地元の慰霊碑に手を合わせたアーサーさん。

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金子さんたちが収集した貴重な資料の数々。

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そしてこれが、パンプキン爆弾の破片です。空襲では通常1トン爆弾でした。しかしパンプキンは5トン爆弾です。それはつまり原爆と同じなのです。違いは中に入っているものがプルトニウムか通常爆薬かです。


そして12日(土)からいよいよ公開となる山田洋次監督の新作映画「母と暮せば」に主演している俳優の吉永小百合さんに出演して頂きました。吉永さんは長崎原爆で息子を亡くした母親をとても切なく演じています。そして吉永さんは常に原爆被爆者に思いを寄せてきた方でもあります。広島、長崎、沖縄、そして福島と続ける吉永さんの朗読の旅「第二楽章」。その英訳を担当しているのが何とアーサーさん。吉永さんとは3月以来の再会でした。
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アーサーさん自身が悩んでいるテーマである「戦後生まれの自分が広島や長崎の人たちの思いを語り継ぐためにはどうすれば良いのか?」 そのヒントとして吉永さんは「毎回初めてのつもりで淡々と読む事でしょうか」とアーサーさんに優しく語ってくれました。「いくら大きい声で話しても足りないくらい大きな悲しみだから」と。静かで優しい口調に強く熱い思いを秘めた吉永さんでした。


なお、今回の「探しています」特別編「長崎原爆を探して」。1月10日に長崎放送でも放送して頂く事になりました。長崎の方はもう少しお待ちください。そして長崎以外の方は誠に恐れ入りますがラジコプレミアムで1月10日にもう一度お楽しみ頂ければと思います。

元ゼロ戦パイロット、原田要さんが語る真珠湾攻撃

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今回、アーサーさんがやってきたのは長野です。長野駅から一路向かったのは元ゼロ戦パイロット、原田要さんのお宅。乗車したベテランのタクシー運転手さんのお子さんも通ったというひかり幼稚園が、原田さんの仕事場でした。戦時中、敏腕パイロットして激戦を戦い抜いた原田さん。戦後は何と幼稚園の園長先生として、子供たちに「平和の大切さ」を語りかけていたのでした。そして、御年99歳!

どのような方なのか想像しながら、やや緊張気味にお宅を訪問したアーサーさんでしたが、待っていたのはこの笑顔。3秒で打ち解けることができました。
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原田要さんは多くの著書もあり、ゼロ戦乗りとして戦争の最前線の現場がどのようなものであったかを語って来たまさに生き証人。原田さんが語り始めたのは75歳の時だそうですが、それから四半世紀が経とうとしています。そしてまもなく12月8日を迎えますが原田さんはあの真珠湾攻撃の際のメンバーの一人。哨戒機に乗って日本の航空母艦を守るのが役目でした。
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このノートは、原田さんの出撃メモ。戦後、公式資料は上官命令で焼却させられましたが、詳細な資料を記憶と証言を元に再構築しました。まさに一級の戦争資料です。


今から74年前、1941年12月8日。
日米開戦、太平洋戦争の始まりとなったハワイ・オアフ島の真珠湾攻撃。日本の大東亜共栄圏構想をめぐり、経済封鎖を打ち出したアメリカとの交渉が決裂。日本は、太平洋での戦いを優位に進めるため、アメリカ太平洋艦隊の中心基地となっていた真珠湾への奇襲を計画。6隻の航空母艦を中心とした、日本海軍の機動部隊が総攻撃を行いました。原田要さんは、17歳で海軍に入隊。1936年にパイロットとなり、その真珠湾攻撃に哨戒部隊として参加します。攻撃の急先鋒として突撃の覚悟を固めていた原田さんに待っていた司令は、ベテランパイロットで下士官でもあったからこそ空母を守れという指示でした。そして真珠湾攻撃は大成功に終わります。しかし攻撃部隊からの報告を聞いた原田さんには、この攻撃が成功とは思えないのでした。その理由を原田さんは「もっとも攻撃して欲しかった空母がいなかったとの報告を受けたから」と語ってくれました。原田さんの脳裏に浮かんだのは、
「彼らは我々の攻撃を知っていたのではないか」。これは日中戦争から戦場の最前線で戦ってきた原田さんの経験が紡ぎ出した疑念でした。

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今夏、スタッフが訪問した現在の真珠湾。お土産コーナーも充実し、観光地の装いですが、日本人が少なかったのが印象的でした。

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数々の展示。アメリカ人にとって日本の攻撃部隊がいかに恐ろしかったかというのが伝わってきました。アーサーさんもこの真珠湾を訪れた事があります。

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次週も引き続き、原田要さんのお話をお送りします。
真珠湾攻撃に参加した原田さんはその後コロンボやミッドウェー、ガダルカナルなどで戦い、終戦を迎えます。しかし原田さんの戦争ドラマはそれでは終わりません。何と戦後、空中で撃ち合ったアメリカやイギリスの兵士と涙の再会を果たすのです。

アーサーのインタビュー日記

真珠攻撃はアメリカ国民にとっても日本国民にとってもとてつもなく重要な出来事です。太平洋のどちら側から見るかによって意味や解釈が大きく変わってしまうので、その真珠湾攻撃の現場にいて攻撃に立ち会った方から直接話を聞けるということは僕にとってはまるでタイムマシンに乗るくらいのスリルがありました。そして話を伺い、原田さんが淵田さんたちと一緒に飛んで攻撃に参加せずに空母を守る哨戒の任務に就いた事がとても良かったと強く思いました。哨戒部隊という立ち位置、任務だったので原田さんは攻撃から戻ってきた仲間にまず「空母はあったか?空母を沈めたか」と聞いたのですが、空母はいなかったと聞いたときに「これはまずい」と感じたそうです。それをご本人は出撃させてもらえなかった自分のひがみもあったからという言い方もされていました。しかし、そういう立ち位置だったからこそ本質を見抜くことができ、攻撃を終えて成功させて戻って来た高揚感ではなく冷静に空母が無いという事の意味を捉えていましたのではないでしょうか。それがまさに真珠湾攻撃を正確に読み解く鍵だと思います。軍艦を沢山沈めて日本に戻ったら日本のメディア=大本営は大成功と伝えて、現場を知らない具体的に戦争がどう進められるか理解していない国民は喜びました。一方、アメリカ国民も表面的な事だけを伝えられて「日本はずるい、日本は奇襲攻撃をやった、日本はとんでもない」と。全くアメリカの軍隊の中枢にいる人が考えていることは違うことを表面だけの報道を大々的に浴びせられ実写フィルムを含めて皆が大騒ぎのメディアのPRに巻き込まれて....それを真に受けて「戦争だ」と。いっきに戦争を嫌がっていた世論も変わり戦争に突っ走っていきました。宣戦布告もすぐに可決という流れができていきました。しかしアメリカ国民は自国の軍隊がすでにレーダーを開発していることも知らないし事前に真珠湾攻撃を知っていたかも知れないという事も知らされていません。偶然なのか意図的なのか決定的な証拠は出てきませんが、空母が全て留守だったという事はとても不思議なことだし、もしアメリカ国民がその現場の状況を知っていたらもう少し懐疑的に政府のプロパガンダを捉える事ができたはずです。日本国民もアメリカ国民も踊らされていて、そして踊った結果とんでもない殺し合いの太平洋戦争をやったと言うことが、原田さんの現場の立ち位置や彼が語った話からからくりとしてあぶり出されます。

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