戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』

毎週土曜日 早朝5:00〜5:10
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小笠原から帰る船が魚雷で撃沈。九死に一生を得た奥山公男さん

奥山さんちでひとり.JPG
やって参りました東京都八丈島。
しかし、この八丈島にも多くの戦争の傷跡が遺されています。


今回は、15歳、16歳の時に東京都八丈島から小笠原に軍属として徴用された奥山公男(おくやま きみお)さんに話を聞きました。
奥山さんちで2人.JPG
頭上のハイビスカスが南の島を感じさせます。

奥山さんは1943年12月、16歳で軍属として徴用され東京から小笠原に向かう船に八丈島から乗船しました。そして同じく軍属として徴用された島の仲間30~40人とともに小笠原の父島に向かい、半年間「電探」今で言う「レーダー」の作製に携わりました。

当時の父島は二見港という立派な港を建設し軍備も食糧も準備万端。まさに要塞化していたわけですが、そんな小笠原をあえて米軍は避けて通り過ぎて行きました。しかし奥山さんたちが八丈島に戻る船は米軍の魚雷攻撃を受け船は2分も経たないうちに沈没。奥山さんいわく「まさに轟沈(ごうちん)」だったそうです。救命ボートをめがけて飛び降りた奥山さんでしたが運悪く船とボートの間の海中に落下。泳ぎ達者な奥山さんは沈んでいく船の渦に巻き込まれないよう懸命に泳いでいたところ、幸いにも流れてきた救命道具に掴まり九死に一生を得ました。島から小笠原に向かった仲間で助かったのはわずか3人でした。

奥山さん3人.JPG
案内して下さった林さんとスリーショット。まだ8月、皆さん暑そうです....


途中から歯に衣着せぬ2人の舌戦が始まり、インタビューは脱線。完全に毒舌漫才と化してしまいました。暑い昼下がりの八丈島。奥山さん宅の庭のベンチに腰かけて、鳥の鳴き声や虫の鳴き声を聴きながら、話は猥談にまで及ぶ始末(汗)  年の差も国籍の差も超えた友情の生まれた2人でした。
奥山さんとスイカ.JPG
お土産に奥山さんの畑で採れたスイカを頂いたアーサーさん。帰りの飛行機もスイカを抱いて乗りました。

奥山さんちの虫.JPG
虫も沢山いました。自然豊かな八丈島です。

アーサーのインタビュー日記

奥山さんたちがどうして15歳や16歳の時に最前線の小笠原に軍属として送られたかと言うと、ひとつには学校の校長先生が奥山さんの個人情報を軍に提供してことがあります。奥山さんの場合は「四男だから戦地に送っても良い」となったと。そういう風に学校が、軍に対して情報提供を行ったり下請けの組織として生徒を振り分けて選んで軍に差し出すという役割を果たしていたわけです。その話を聞きながら僕は母国アメリカのことを思い浮かべていました。アメリカの教育システムも陸軍、海軍、海兵隊としっかりつながっていて学校と軍が連携し若者を教育現場から戦場に軍の組織の中に引き込んでいきます。その勧誘の仕方も情報提供を受けて地域地域にあわせているのですが、やはり学校と軍の連携が大事なパイプとなっています。「70年前の日本と今のアメリカがしっかりつながっている。組織のやっていることはどこもそんなに変わらないな」と感じていました。
改めて今の日本の教育制度を冷静に見つめてみると日本の学校もいつでも軍隊に人材を提供する組織になりうると思います。
もちろんそうなるかどうかは我々国民次第だと思いますが、そうなりうることも奥山さんの話を聞いたうえで改めて真剣に考えなければならない事だと思います

作曲家、大中恩さん。音楽を離れ特攻に向かう戦友たちを見送った海軍生活

今週は童謡「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」などで知られる作曲家、大中恩(おおなか めぐみ)さんにお話を伺いました。91歳を迎えた今も現役の作曲家として活躍を続けている大中さんは東京音楽学校(いまの東京芸大)の学生だった72年前の1943年10月21日、神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会でスタンドから出征してく先輩学徒を笑顔で見送り、戦意高揚の歌として愛された「海ゆかば」を歌いました。その後、大中さんもまた学徒として海軍に入隊。先輩兵士たちの鉄拳を受ける日々を送ることになります。大中さんの父親もまた「椰子の実」などの作品で知られる作曲家の大中寅二さん。寅二さんに弟子入りした作曲家志望の学生たちの出征していく姿を見ていた大中さんもまた海軍に入り、同僚兵士たちが特攻として旅立っていくのを見送りました。自身も特攻を志願するものの目が悪く不合格となった大中さんは今から思えば落ちて良かったと思えるものの、当時は無念さでいっぱいでした。そして敗戦。音楽の夢を絶ち亡くなっていった仲間たちの分も背負って70年間譜面に向かってきた人生ですが、それを決して声高に言わず照れながら話す大中さん。その温かい人間性が感じられるインタビューでした。

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終戦直後、大中さんの自宅はGHQ本部のご近所にあり、何とマッカーサーの執務室が家の窓から見えたそうです!窓から手を振るマッカーサーの子供たちや美人の奥様の姿を良く記憶しているそうです。クリスマスの日、合唱している大中家に一緒に歌わせてくれと訪問してきた進駐軍の兵士たち...。そのおおらかさにアメリカとはおおらかで凄い国だと実感したそうです。このエピソードにはアーサーさんも驚いていました。ぜひともPodcastでお聴きください。


なお、大中さんの作曲家生活も戦後の長さと同じ70年。大中さんが率いてきた合唱団「メグめぐコール」の演奏会が、10月31日(土)に紀尾井ホールで行われます!

アーサーのインタビュー日記

「海ゆかば」という歌が好きで時々聴きます。この歌は日本では「軍歌」という扱いになっていて、探そうとするとたいてい軍歌のアルバムに入っています。しかし「海ゆかば」は詩を書いた奈良時代の歌人・大伴家持も、メロディを生み出した大中さんの師匠・信時潔さんも軍歌を作るつもりはなく、ただ良い曲を作ろうとして生まれた詩とメロディーです。しかし、それが時の権力者によって軍歌にされてしまいました。大中さんからその話を伺い、詩人として自分の作品がどういう風に利用されるかを考えて作らなければいけないと改めて思いました。想定外の悪用もありうる事ですが、おかしな解釈が成り立たないようにしなければいけないなと感じました。
大中さんは今も曲を作り続けていて実に多様性に富んだ豊かな作品が沢山ありますが、僕が今まで聴いてきた大中さんの歌は、軍歌からもっとも遠い位置にある作品だと思いました。「海ゆかば」のように歪曲されないように作られているとも感じました。歌を作ることができる自由があるという事と、もっと沢山歌を作りたかったのに戦場で犠牲となっていった仲間たちへの思いも、大中さんの作曲活動の原動力になっているという事も言えると思います。

帰国を果たしたちばてつやさんの目に映った日本(ちばさん後編)

「あしたのジョー」「のたり松太郎」などで知られる漫画界の巨匠、ちばてつやさん。両親や幼い弟たちと共に帰還船に乗り日本への帰国を果たしたのは敗戦からおよそ一年後の1946年7月でした。物心がつく前に両親に連れられ朝鮮半島から満州へと渡ったちばさんに日本の記憶はありません。しかしちばさんの目に最初に飛び込んできた日本の景色は玄界灘に浮かぶ美しい島々でした。
ようやく福岡の港に到着し念願の帰国を果たしたちば一家、今度は肉親の待つ関東地方への長い旅路が始まります。祖母の住む九十九里浜に近い街の駅。ボロボロの服を身にまとった一家は、日が暮れてから駅を出発し、祖母が暮らす家に向かい疲れた足を前に進めました。半分寝ながら母親に手を引かれ到着した祖母の家。懸命に扉を叩く父親。中から聞こえてくる騒々しい音、そして姿を見せた祖母の驚きの顔。1年ぶりに安心に包まれてついた寝床の安らぎ。ちばさんのお話を聞きながら我々も長い帰国の旅を追体験できました。70年前とは思えない生々しい戦争の記憶と家族の思い出です。

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戦争論、平和論。初対面とは思えないほど意気投合したお二人でした。

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アーサーさんとあしたのジョー、鼻の形が似ていませんか?

アーサーのインタビュー日記

「引揚者」という言葉を国語辞典で引いてみたところ「外地での生活を引き払って内地に帰ってきた人々」という定義になっていました。ちばてつやさんの話を聞いた後には、この「外地での生活を引き払う」という動詞表現に引っかかりを覚えます。「引き払う」という事ではなく、追い払われる、生き延びるために命を繫ぐという表現の方がより現実に近いと思います。逆に「引揚者」を和英辞典で引くと「returnee」というあまり使われない言葉が出てきます。この「returnee」という言葉に響きも言葉も近い「refugees」という言葉があります。日本語に置き換えると「難民」です。今、世界を見渡すと「難民」の数が激増していますが、内戦に陥っているシリアという国の人々は生きていけず、命をつなぐために、追い払われて国外に出ています。彼らの体験とちば一家の体験は本質的なところでは重なるのではないでしょうか。満州で暮らしていた時にちばさんは両親に「内地って何?」「日本って何?」と聞いたそうです。すると両親は「おばあちゃんが住んでいるところだ」と説明してくれました。ちば一家6人が奇跡的に生きて帰国しどうにか「おばあちゃんの住んでいる」千葉までたどり着いた時に、ようやくちばさんの「難民生活」は終わりをつげました。
シリアをはじめ世界の難民の人々が、今何を必要としているか?何を求めているのか?そして彼らに何ができるのか?という問題を考える上で、ちばさんの体験はとても貴重なものになると思います。

ちばてつやさんの話を聞いていると、根本的な事を大きな疑問符とともに突き付けられます。それは「日本とは何だろう?」「国家とは何ぞや?」という事です。
僕はアメリカに生まれ育ち22歳の時に日本に来ましたが
ちばさんは東京に生まれて赤ん坊の時に大陸に渡りました。
そして日本ではなく「内地」と言う言葉を使って、我々が「日本」と呼んでいる列島を遠くから大人たちの話を通じて見ていました。
ちばさんたちは満州の中で「日本人」という特権階級にいたわけですが、ちばさんのお父さんは人間として他の民族、他の言語を話す人たちと接し、徐集川さんという一人の同僚と親友の契を結びました。そしてこの2人の友情が結果としてちば家の6人の命を救ったわけです。徐さんは危機的な状況の中で、民族の線引きや国家の問題をこえてちばさん一家を匿ってくれました。一方、その国家は一日で崩壊し、ちばさんたちをはじめとする開拓団27万人を何の説明もなく異国の地に捨てました。しかし国家を超えた権力とは違うルートで作られた友情や人間関係が一家を救い、それがずっとちばさんの人生の中で続いています。そしてちばさんの作品にもつながっているのです。「日本」と僕らが普段使っている国の名前は「国家」を指すときと生活に基づいた「人間」を指すときに大分意味が違います。今も沖縄や北海道で使われる「内地と外地」という言葉はとても重要な線引きだと思います「内地と外地」という言葉を忘れずに、日本の満州の歴史を忘れずに「国家を疑い、人を信じる」という生き方がちばさんの話の中からはっきり見えてきました。

漫画家ちばてつやさんが満州で体験した終戦(ちばさん前編)

1932年に今の中国東北部に建国され、事実上日本の支配下に置かれた満洲国。日本からはおよそ27万人の満蒙開拓移民が入植し、戦時中は日本国内よりも豊かな暮らしを送っていたと言われています。しかし日本の敗戦と同時に生活は暗転。ソ連軍や現地住民に追われ逃げまどうまさに地獄の日々が始まります。そして6歳になったばかりのちばてつやさんもその一人でした。
親切だった中国の人たちの態度が敗戦の色が濃くなるにつれ変化していく様子。敗戦と同時に塀の向こうから聞こえてきた爆竹の音。そして凶器を手に塀を乗り越えてくる人々...。ちばさんのお話を聞きながら手に冷汗を感じる一方、偶然通りかかった父親の友人、徐(じょ)さんに救われるエピソードには荒れ野の中で一輪の花を観る様な思いでした。そしてアーサーさんが尋ねた「徐さんってひょっとしたら...」の一言でちばさんの表情が少し変わりました。その質問とは...。


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ちばさん宅の応接間に永遠の名作「あしたのジョー」の大イラストが!顎だけですみません...

アーサーのインタビュー日記

ちばてつやさんの話を聞いていると、根本的な事を大きな疑問符とともに突き付けられる思いです。それは「日本とは何だろう?」「国家とは何ぞや?」という事。僕はアメリカに生まれ育ち22歳の時に日本に来ましたが、ちばさんは東京に生まれ、赤ん坊の時に大陸に渡りました。そして「内地」と言う言葉を使って我々が「日本」と呼んでいる列島を遠くから大人たちの話を通じて想像していました。ちばさん一家は満州の中で「日本人」というある種特権階級にいたわけですが、ちばさんのお父さんは、「人として」他の民族、他の言語を話す人たちと接し、徐集川(じょしゅうせん)さんという一人の現地人の同僚と親友の契を結んでいました。そして2人の友情が結果として、ちば家6人の命を救ったわけです。徐さんは危機的な状況の中で、民族の線引きや国家の問題をこえてちばさん一家を匿ってくれました。一方で頼りにしていた「国家」は一日で崩壊し、ちばさんたちをはじめ開拓団27万人を何の説明もなく異国の地に捨てました。しかし国家を超えた権力とは違うルートで作られた友情や人間関係が一家を救い、その記憶がちばさんの人生の中で続いています。そしてちばさんが生みだす作品にもつながっているのです。「日本」と僕らが普段使っている国の名前は「国家」を指すときと生活に基づいた「人間」を指すときに大分意味が違います。今も沖縄や北海道で使われる「内地と外地」という言葉はとても重要な線引きだと思います「内地と外地」という言葉を忘れずに、日本の満州の歴史を忘れずに、「国家を疑い、人を信じる」という生き方がちばさんの話の中からはっきり見えてきました。

アーサーが番組の半年を振り返りました

「アーサー・ビナード 探しています」はお陰様を持ちまして10月3日(一部の局は4日)で番組スタートから半年となりました。
先日逝去された福島菊次郎さんに元日の夜にお話を伺ったのがインタビューのスタート。戦争体験者を訪ねる全国行脚も9ヶ月を超えました。

ちなみに10月3日は、日本と同じ敗戦国のドイツが再統合してちょうど四半世紀を迎えた日でもあります。今年1月に亡くなったドイツのワイツゼッカー大統領は戦後40年の議会演説で「過去の歴史に目を閉ざすものは現在にも盲目となる」という歴史的な台詞を残しました。アーサーさんがこの番組の中で語り続けて来たのもまさに「歴史を見つめ直し、そして学ぼうよ」という事です。
先日アーサーさんは、アメリカ・インディアナ州にあるノートルダム大学に講義のため招かれて訪米(帰国?)してきました。その際、関係者の皆様のお力添えでシカゴまで足を伸ばし日本人強制収容所にいた方々や、ナチスによるホロコースト体験をお持ちの方などにインタビューをしてくれています。放送は、12月から1月を予定しておりますのでもう少しお待ちください。

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初めて一人で使った文化放送のマイクとICレコーダー。
録音できたかどうかは「怖くて確認してない」とのこと。マジですか(恐)
果たしてその結末は......


お知らせ
Podcstの更新などが、担当者の体調不良により遅れています。楽しみにして頂いている中、心苦しいのですがもう少しお待ちください。

アーサーのインタビュー日記

この半年間は驚きの連続でした。番組で学んだことは「自分はまだ何も解ってはいなかったんだ」ということ。それは今まで知らなかった史実だけでは無く、知ったつもりでいた歴史も含めてです。いろいろな方に聞かされていた「戦時中の日本では、敵性外国語の英語を使う事は一切禁じられていたんだ」という話も、詩人の郡山直さんが語ってくれた「鹿児島師範学校時代の英語教師は、勝っても負けても将来英語が必要になるんだと授業をサポタージュした我々を叱られました」という話や、学徒動員され人間魚雷にも志願した岩井忠正さんの「海軍では普通に英語を使ってましたよ」という話で僕の先入観はいとも簡単に覆されました。これから半年後に再び、「半年前の自分は何も知らなかったな」と思えるように、皆さんとともにあの時代を振り返り、そして学ぶ旅を続けていきたいと思います。

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