やって参りました東京都八丈島。
しかし、この八丈島にも多くの戦争の傷跡が遺されています。
今回は、15歳、16歳の時に東京都八丈島から小笠原に軍属として徴用された奥山公男(おくやま きみお)さんに話を聞きました。
頭上のハイビスカスが南の島を感じさせます。
奥山さんは1943年12月、16歳で軍属として徴用され東京から小笠原に向かう船に八丈島から乗船しました。そして同じく軍属として徴用された島の仲間30~40人とともに小笠原の父島に向かい、半年間「電探」今で言う「レーダー」の作製に携わりました。
当時の父島は二見港という立派な港を建設し軍備も食糧も準備万端。まさに要塞化していたわけですが、そんな小笠原をあえて米軍は避けて通り過ぎて行きました。しかし奥山さんたちが八丈島に戻る船は米軍の魚雷攻撃を受け船は2分も経たないうちに沈没。奥山さんいわく「まさに轟沈(ごうちん)」だったそうです。救命ボートをめがけて飛び降りた奥山さんでしたが運悪く船とボートの間の海中に落下。泳ぎ達者な奥山さんは沈んでいく船の渦に巻き込まれないよう懸命に泳いでいたところ、幸いにも流れてきた救命道具に掴まり九死に一生を得ました。島から小笠原に向かった仲間で助かったのはわずか3人でした。
案内して下さった林さんとスリーショット。まだ8月、皆さん暑そうです....
途中から歯に衣着せぬ2人の舌戦が始まり、インタビューは脱線。完全に毒舌漫才と化してしまいました。暑い昼下がりの八丈島。奥山さん宅の庭のベンチに腰かけて、鳥の鳴き声や虫の鳴き声を聴きながら、話は猥談にまで及ぶ始末(汗) 年の差も国籍の差も超えた友情の生まれた2人でした。
お土産に奥山さんの畑で採れたスイカを頂いたアーサーさん。帰りの飛行機もスイカを抱いて乗りました。
アーサーのインタビュー日記
奥山さんたちがどうして15歳や16歳の時に最前線の小笠原に軍属として送られたかと言うと、ひとつには学校の校長先生が奥山さんの個人情報を軍に提供してことがあります。奥山さんの場合は「四男だから戦地に送っても良い」となったと。そういう風に学校が、軍に対して情報提供を行ったり下請けの組織として生徒を振り分けて選んで軍に差し出すという役割を果たしていたわけです。その話を聞きながら僕は母国アメリカのことを思い浮かべていました。アメリカの教育システムも陸軍、海軍、海兵隊としっかりつながっていて学校と軍が連携し若者を教育現場から戦場に軍の組織の中に引き込んでいきます。その勧誘の仕方も情報提供を受けて地域地域にあわせているのですが、やはり学校と軍の連携が大事なパイプとなっています。「70年前の日本と今のアメリカがしっかりつながっている。組織のやっていることはどこもそんなに変わらないな」と感じていました。
改めて今の日本の教育制度を冷静に見つめてみると日本の学校もいつでも軍隊に人材を提供する組織になりうると思います。
もちろんそうなるかどうかは我々国民次第だと思いますが、そうなりうることも奥山さんの話を聞いたうえで改めて真剣に考えなければならない事だと思います