第54回 最終回、訪ね歩いた47人の思い出をアーサーさんが振り返りました。
1年4か月の取材、1年間の放送もついに最終回を迎えました。
「昔の戦争話」を聞くつもりでこの番組を始めたアーサーさんでしたが、「これから生きていく智恵を学んだ」との思いを吐露し番組は終わりを迎えました。この番組の秋の出版化を目指しアーサーさんの旅はまだまだ続きます。
1年4か月の取材、1年間の放送もついに最終回を迎えました。
「昔の戦争話」を聞くつもりでこの番組を始めたアーサーさんでしたが、「これから生きていく智恵を学んだ」との思いを吐露し番組は終わりを迎えました。この番組の秋の出版化を目指しアーサーさんの旅はまだまだ続きます。
全国様々な方々の戦争体験を探してきたアーサーさんですが、もっとも近い存在である人に聞いていなかった事に気づきました。向かったのはお姑さんにあたる澪子さんのお宅。愛国少女だった澪子さんには、戦争に負けると語った母の言葉が信じられなかったそうです。
日系人部隊の一員として欧州戦線に向かった今村さんは洋上でドイツの降伏を知りました。兵坂さんは、日系人とともに志願して収容所に入ったフィリピン系の義兄のエピソードを語ってくれました。
1942年の大統領令署名を受け日系アメリカ人達12万人は収容所や拘置所などに強制的に送られることとなりました。このうちの7割は、アメリカの市民権を持つ二世、三世の人たちでした。
カリフォルニアで生まれたリッチ日高さんは真珠湾攻撃の日以来、厳しくなった周囲の視線を今も覚えています。連行された父親に続いてリッチさんもまたコロラド州の強制収容所に送られました。
核の恐ろしさを通訳の立場から世界に伝え続けている「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表の小倉桂子さん。広島には世界中の「核の被害者達」が日々訪れています。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った
大量虐殺「ホロコースト」では数百万人の命が奪われました。
しかし現在アメリカに暮らすモリス・チャンドラーさんは、
カトリック教徒の習慣とポーランド語を徹底的に身に着け、
ユダヤ人であることを隠し続けることで生きて戦後を迎えることができたのです。
児童文学の名作を数多く世の中に送り出してきた山中恒さん。
軍国少年だった自らの経験を元に膨大な資料を調べあげ戦時中の軍国主義教育を描いた
「ボクら少国民」シリーズやテレビドラマにもなった「あばれはっちゃく」シリーズなどの
著者としても知られています。
硫黄島の戦いで重傷を負うものの九死に一生を得た秋草さん。捕虜として送られた先はアメリカ本土、バージニアの捕虜収容所でした。秋草さんは太平洋戦争が激しさを増す中、ドイツ人、イタリア人の3人で収容所の厨房係を命じられます。
日本軍よりも米軍に多くの死傷者を出した硫黄島の戦いは、2万1千人余りの日本兵のうち生き残った者がわずか1023人という悲惨な戦いでもありました。そのわずかな生存者の一人が、通信兵として硫黄島に赴任していた秋草鶴次さんでした。
択捉島で生まれ育ち、5歳で追われるように一家で島を離れた鳴海さん。川の豊潤な流れや遡上してくるカラフトマスの群れは雄大な自然とともに新鮮な記憶として残っています。進駐してきたロシア兵たちは意外にも皆とても優しく人たちでしたが、ある日豹変し、鳴海さんの自宅から金品を奪っていったのでした。
南方の激戦地に資源調査隊員として赴任した飯田さんは、やがてゲリラの討伐隊にも狩り出されていきました。戦後はBC級戦犯として死刑を求刑され、重労働20年の判決を受けるなど辛苦を味わいます。10年間の収容生活を送った飯田さんが紡ぎだす思いにアーサーさんも心震わせずにはいられませんでした。
8月15日。気象観測所に郵便局から電話が入り、女性局員が中島さんに「日本が負けた」と告げました。翌日、機密資料を焼却中にソ連機による機銃掃射を受け逃げ惑った中島さん。その後逞しく樺太で3年の月日を過ごします。
子どもの頃から雲を眺めるのが好きだった中島さんは陸軍気象部に合格し軍属として勤務する事に。父親が単身赴任で暮らす樺太(現サハリン)への配属替えを願い出た中島さんの希望はかない極北の地を踏むことになりました。
東大在学中、学徒動員で心ならずもゼロ戦パイロットに選抜された手塚さん。沖縄戦では特攻隊に選ばれずほっとしたのも束の間、本土決戦のための出撃を命じられます。手塚さんは覚悟を決め出発基地の観音寺に向かったのでした。
原田さんは真珠湾攻撃の後、ウェーク島の戦い、ボートダーウィンの空襲、コロンボ空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いと幾度もの死線を越えて終戦を迎えました。戦後は敵機パイロット達との再会も果たします。
17歳で海軍に入隊した原田さんは真珠湾に哨戒部隊として出撃します。真珠湾攻撃は大成功に終わりますが、前線の攻撃部隊から詳細な報告を聞いた原田さんには攻撃が成功とはどうしても思えないのでした。
日本の主権回復目前のGHQ。面接に合格し職員となった篠原さんは、カフェで語らうアメリカ人の男女たちの姿に洋画の中にいるような気分に。一方で机に脚を乗せてリンゴにかぶりつく上官の姿には茫然とする日々でした。
近藤さんがアナウンサーとしてNHKに入局したのは1944年10月、男性アナたちの多くは戦地に出征していた時代でした。8月15日、近藤さんは同僚アナたちとともに局に集合を命じられ玉音放送を聴きます。
当時、小学生だった持丸さんのお宅は中国戦線から帰還した自動車部隊の兵士たちの宿舎となりました。それはわんぱく盛りの持丸少年にとって楽しい記憶として残っています。
八丈島で生まれ育った沖山さん。旅館に呼ばれ硫黄島に出撃する特攻隊員たちの前で歌った思い出や、その後見知らぬ軽井沢へ集団疎開に向かった思い出などを語ってくれました。
八丈島から小笠原に軍属として徴用された奥山さん。八丈島に戻る船が米軍の魚雷攻撃を受け船は2分も経たないうちに轟沈しました。八丈島から小笠原に向かった仲間で助かったのは奥山さんを含めわずか3人でした。
童謡「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」などで知られる作曲家、
大中恩(おおなか めぐみ)さん。
大中さんは、72年前神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会で
スタンドから出征してく先輩学徒を笑顔で見送りました。
そして後に自身も士官候補生として海軍に入隊し、特攻隊を志願しました。
ちばさん一家が日本への帰国を果たしたのは敗戦からおよそ一年後。
物心がつく前に大陸に渡ったちばさんにとって初めて目にした日本は
玄界灘の美しい島々でした。一家は福岡から故郷の東京・千葉を目指して
更なる過酷な旅を続けます。
およそ27万人の満蒙開拓移民が入植した満州。6歳になったばかりのちばてつやさんもその一人でした。
敗戦と同時に凶器を手に塀を乗り越えてくる人々から逃げまどう地獄のような日々から一家を救ったのは
偶然通りかかった父の中国人の親友、徐さんでした。
アーサーさんがこの番組の取材を通して学んだことは「知ったつもりでいたけれども、実は何も知らなかったのだ」という事だそうです。いくつかのエピソードに触れながらこの半年を振り返ります。これから臨む半年に向けて。
今週は、広島に落とされた原子爆弾により、11才の時に被爆した
「川崎市折鶴の会」の会長、森政忠雄さんと爆心地近くで大やけどを負ったお兄さんの話です。
「雪風」はいくつもの死線を乗り越え、そして終戦を迎えます。しかし雪風と西崎さんは外地にいる日本人、1万3千6百人を内地に連れて帰る第二の仕事が待っていました。
戦艦「大和」が沈んだ1945年4月の「沖縄水上特攻」で戦った、駆逐艦「雪風」の元乗組員、西崎信夫さん。前半では出征から凄まじい洋上での戦いまでを語って頂きました。
「南部俵積み唄」で知られる民謡歌手の舘松栄喜さん。
満州に渡り、マレーの虎・山下大将に仕えソ連との激戦を経て
シベリアに2年以上の抑留生活とまさに波乱万丈の軍隊生活でした。
「満州の星くずと散った子供たちの遺書」などの著者、増田昭一さんは
学徒としてソ連の戦車に突撃する部隊に急きょ編入され、九死に一生を得ます。
そして戦後は旧満州の新京に作られたソ連の難民収容所に収容されました。
しかしそこは、子供たちが飢えや寒さ、病気で次々に命を落とす厳しい場所でした。
沖縄から本土に向かう途中、米軍の攻撃で沈没した悲劇の疎開船「対馬丸」。
学童ら1788名中1482名が命を落としたこの大惨事から生還した数少ない一人が平良啓子さんです。
Podcastでは、沈没事故から生還後の平良さんの数奇な出会いや沖縄戦での苦闘など
放送ではご紹介できなかったお話もお聴きいただけます。
玉音放送目前の14日夜から空襲を受けた埼玉県熊谷市。焼夷弾の雨の中を逃げ延びた森村さんが
翌朝見た残酷な光景が社会派作家を生むきっかけともなりました。
Podcastでは、森村さんの反戦、平和への揺るぎない思いが、太平洋戦争の検証とともに語られます。
松原淳さんは自宅で兄とともに昼ご飯の「すいとん」を作っていたときに、
原爆の閃光が自宅の窓を覆いました。
しかし爆風の瞬間、兄が咄嗟に弟の身を守ってくれたのです。
松原さんの語る原爆の話は常に家族の物語です。
1945年8月6日、8時15分。上空600メートルで炸裂した原子爆弾は、
一瞬にして広島の街を壊滅させました。
朝、腹痛を訴えた大岩さんは、母の「今日は学校を休みなさい」の一言が生死を分けました。
大岩さんの脳裏に浮かぶのは前日喧嘩をした親友の姿。
70年前の永遠の別れから、今も仲直りができていません。
長崎県の対馬は海上の要所として本土から部隊が駐屯。学校は兵舎として接収され、
宮良さんの自宅にも士官達が寝泊りしました。
Podcastでは、戦時下の対馬の話だけでなく、
宮良さんご夫妻が戦後取材し「湖南丸と沖縄の少年たち」という絵本にもした
湖南丸の悲劇や、戦時中の朝鮮半島、台湾の事など多岐に渡り語って頂いています。
元沖縄県議会議員の宮良作さんは、日本の植民地となっていた台湾で少年時代を過ごしました。
Podcastでは、宮良さんが長年に渡り調査を続けてきた様々な離島の戦争の記録、
「軍神と呼ばれた故郷・与那国島出身の大舛松市大尉の話」、
「波照間島などの人たちを苦しめた戦争マラリヤの話」など、
離島に横たわる悲しい戦争の話を語って頂いています。
戦後50年談話を発表した村山元総理。後半では、兵役を体験した村山元総理の戦争観、
平和観とともに、政治家になる気もなかった村山さんがなぜ総理の座に着くことになったのか
赤裸々に語ってくれました。
陸軍の軍曹だった1945年の7月、アメリカの飛行機が上空から撒いたビラでポツダム宣言を読み
日本の敗戦を悟った村山元総理。まさか自分がその半世紀後に総理大臣として戦後50年談話を
発表することになるとは考えてもいませんでした。
映画や小説でも知られるひめゆり学徒隊は、
負傷した兵士の看護活動を主な任務に編成された学徒隊でした。
死んでいった友人達の声、終戦を告げた米軍通訳の声、色々な人達の声を
今に伝えながらひめゆり祈念館の館長、島袋淑子さんは平和の尊さを訴えます。
8年間、沖縄県知事を務めた大田昌秀さんは、鉄血勤皇隊・千早隊の一員として
地獄絵図のような戦場の光景を目のあたりにして来ました。
戦後の沖縄の変遷、そして沖縄戦終結の日の定説に対する異論など
多岐に渡る大田さんの語りは、沖縄の歴史を知る貴重な資料とも言えます。
今回は前半と後半の2部構成です
8年間、沖縄県知事を務めた大田昌秀さんは、鉄血勤皇隊・千早隊の一員として
地獄絵図のような戦場の光景を目のあたりにして来ました。
戦後の沖縄の変遷、そして沖縄戦終結の日の定説に対する異論など
多岐に渡る大田さんの語りは、沖縄の歴史を知る貴重な資料とも言えます。
今回は前半と後半の2部構成です
今回は60歳を過ぎてから25年にわたって、仲間の遺骨を探し集めた、
元日本軍兵士、西村幸吉さんの話です。
出兵した将兵の9割が生きて戻れなかったと言われている東部ニューギニア戦線。
西村さんも22歳の夏に、その最前線で壮絶に戦った一人でした。
毒ガス工場の島に学徒動員された岡田黎子さんは
戦争が終わりほっとしたのもつかの間、救護のため被爆地・広島に入り
内部被ばくする悲劇にも見舞われます。
岡田さんの体験、そして平和への熱いメッセージをお送りします。
慶大在学中に学徒動員で士官クラスとなった岩井さん。子供の頃から国家主義を疎んじ、
アメリカとの戦争にも勝てるとは思っていなかった岩井さんが、なぜ人間魚雷「回天」の乗組員に
志願したのか?その理由を語ってくれます。戦後は翻訳者として活躍した岩井さん、
アーサーさんとは哲学や文学の世界でも議論が盛り上がりました。
「東洋一」と称され、戦時中零戦などのエンジンを
月に2千台生産していた中島飛行機武蔵製作所とは
一体どのような施設で、工員たちはどのように生活していたのか?
彼らは上空に姿を見せたB29を見て何を思ったのか?
古内さんの戦争体験は、戦場体験とも空襲体験とも視点の違う戦争体験です。
その証言にアーサーさんも驚きを持って聞き入りました。
パンプキン爆弾の話、戦後中島飛行機の遺産がバイクに姿を変えていった話など
放送でご紹介できなかった話が満載です。
奄美群島・喜界島出身の詩人で東洋大学名誉教授の郡山直さん。
アメリカの教科書にもその詩が紹介された郡山さんの戦中、戦後の記憶は、
徴兵の話、闇船のエピソード、留学生としてアメリカに向かった話、
そしてアメリカで故郷の人に救われた思い出など多彩です。
当時の奄美や沖縄の景色、アメリカの風景が生き生きと浮かんできます。
今回は10円カレーでおなじみの日比谷松本楼社長・小坂哲瑯さん。公園がまさに自然や昆虫で溢れていた戦前、軍が高射砲を設置し空襲で燃え上がった戦中、松本楼がGHQに接収された戦後。
アーサーさんが「究極の定点観測」と呼んだ松本楼の物語はまさに東京という街の移ろいそのものです。
戦前から落語界に身を置くただ一人の現役落語家・四代目三遊亭金馬師匠。
噺家になった経緯や戦時中の「禁演落語」について、戦後二つ目に昇進した驚きの理由から「八代目林家正蔵戦中日記」の話まで放送では紹介しきれなかった逸話が満載です!
アニメーション映画の巨匠、高畑監督は反戦、平和、命を尊ぶ言論でも知られています。小学4年生の時に経験した岡山空襲から戦後の教師たちの変化まで、映画を観るように活き活きと語り続けて頂きました。放送では長くお届けできなかった、高畑さんの「憲法九条への思い」を是非Podcastで受け止めて下さい。
時代の軋みを最前線で撮り続けてきた94歳の現役報道写真家、福島菊次郎さん。馬の手入れ係として徴兵された福島さんは、自爆兵として太平洋戦争を生き残りました。その数奇な運命を辿ります。
長野県上田市の小高い丘の上に建つ「無言館」は「戦没画学生の慰霊」という他に類を見ない美術館です。今回は館長の窪島誠一郎にお話を伺いました。
今回は落語家・初代林家三平さんの妻で、エッセイスト、戦争の語り部として活動されている海老名香葉子さんの根岸のご自宅を訪ね、東京大空襲の話を伺いました。この空襲で両親、兄弟をはじめ親族18人を亡くした海老名さんの思いはただひたすらに「平和」です。
アメリカ生まれの詩人、アーサー・ビナードが70年前の戦争を訪ねる旅に出ました。
来日して25年、中原中也賞を受賞するなど詩の世界で活躍してきた アーサーさんの目線は、世界中で平和な暮らしを願う「普通の市民」の目線です。
いろいろな立場で戦争と向き合った皆さんの話の中に、未来を良くする智恵を探し求めてアーサーさんはマイクを片手に70年前の戦争の語り部を訪ね歩きます。
一回目は、アーサーさんが自分自身を語ります。