東日本大震災から7年~地元発ビジネスのいま ③女性たちが想いを織り込む~宮城県南三陸町 南三陸ミシン工房
宮城県南三陸町は20mほどの津波が押し寄せ、多くの命が犠牲になった。
また、6割以上の建物が被害を受け、半分以上の町民が避難生活を余儀なくされた。さまざまな支援の手が差し伸べられるなかで、熊谷安利さんが所属するボランティアグループではミシンを配った。支援物資で届いた服の丈を直したいという声が挙がっていたためだ。
三陸沿岸には縫製工場が集まり、ミシンの扱いに手慣れた女性が多い。そのことに気付いた熊谷さんは、ミシンでモノを作り売ることで被災した女性をサポートしたいと「南三陸ミシン工房」を2011年10月に旗揚げ。
木を基調にした工房は、夏は涼しく冬は暖かい。座って作業していても外が見えるよう低く設置した窓からは四季の移り変わりが飛び込んでくる。現在は10名の女性が、専用の工房で職業用のミシンを扱う。大手メーカーの下請け業務と、オリジナル商品の販売を行っている。
生地は熊谷さんが仕入れているが、あるとき、京都の大学生が工房独自のデザインをプレゼントしてくれた。ワカメやタコといった南三陸の名産品があしらわれている。"南三陸"の文字が隠れているのは学生ならではの遊び心だろうか。「がんばっぺし!!」という温かみのある言葉を冠したポーチやペンケースは、地域の商店街、さんさん商店街のほか、インターネット通販でも販売されている。
ミシンの腕に覚えのあるメンバーたちの中で、唯一、ほぼ手作業で商品を作っている方がいる。大森つや子さんは、川崎で教鞭をとったのち、2007年に退職して生まれ故郷である南三陸町に戻ってきた。悠々自適の老後を過ごすはずだったが、居を構えた細浦地区を20mの津波が襲った。
防災グッズを備えていたものの、気が動転したのか、ハンカチ1枚だけを持って避難した大森さん。集落が濁流に飲み込まれる様子を呆然と見つめるしかなかった。「泣く暇も無かった」と振り返る。
その後、仮設住宅での暮らしを始めると、大森さんは手縫いの趣味を活かし、ミシン工房に参加した。「何もしていないと、無くしたものを数えてしまうんですよ。家があった。ミシンもあった。材料もあった。本もあった。食器もあった。それが全部一瞬で無くなったわけですよ。思い出して悔しくなったり情けなくなったりして。でも、作っている時は無心になれるし、楽しいんですよ。お金も貰えるし、社会と繋がっているって感じがしたんです」
ミシンが苦手な一方、手縫いの細かい作業が得意な大森さんは、高台に新たに建てた自宅の太陽光が差し込む部屋で、自らの名前を冠した商品「大森さんの小銭入れ」を几帳面に作っている。
「結構手間暇かかるんですよ~。ラミネート加工してある生地を切ってアイロンをかけて、裏地を付けてキルティングをして・・・。バイアスという斜めに切った生地を埋め込んでね。これが大変なんだけど...」
「大変なの」、「この作業は嫌い」と言いつつ、工程を説明する大森さんは笑顔で、声も明るく弾む。ミシン工房の他のメンバーも舌を巻く芸の細かさで、「わかる人ほど精巧さに驚く」出来栄えなんだそうだ。
「"コレに価値がある"って伝えたいです。被災地を売り物にするのはイヤなんです。甘えたくないなって思います」
このプロ意識は、南三陸ミシン工房の熊谷安利さんやメンバーにも共通している。どうしても、時間が経てば「買って応援」の機運は下がってしまう。だからこそ熊谷さんは品質に妥協をしなかったし、工房の女性たちには、それに応えるだけの技術があった。
実際に、「応援のつもりで買ったら、縫製が素晴らしくてびっくりした」という便りも届くという。
とはいえ、品質が良いだけでは売れない時代。熊谷さんは、商品に被災地の想いを織り込むことを考えた。それが、タグに縫い付けられた"hang in there"というメッセージだ。
「"hang in there"という言葉には、"乗り越えられない壁があっても、何とか乗り越えて行こう"という意味があるらしいんです。震災を体験してたくさんの方から応援を頂いて、私たちはきょうまでミシンを踏んでいる。皆さんも、負けずに頑張ってやっていこうと、そんな思いが込められているんです」
単なる布製品に、「頑張っていこう」というストーリーが付与されている。先ほどの大森つや子さんは教師時代、「やるからには手を抜かないこと」を児童たちに教えていたという。
「泣いてばっかりもいられないし。いつまでも"被災者だから"じゃなくて、やることに誇りを持っていきたいんです。そして、やったことが正当に評価される世の中になってほしいなって思うんです」
確かな技術に裏打ちされた高い品質と前向きになろうと織り込まれたメッセージが人々に勇気を与えている。
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