12月6日の放送告知
11月29日の「みのもんたのニッポン discover again」
ノンフィクション作家の野地秩嘉(のじ・つねよし)さんのお話は、いかがでしたか?
放送を聴き逃してしまったという、あなた!!
11月30日(月)20時から12月7日(月)17時まで、こちらのブログ内で、アーカイブ音源をお聴き頂けます。
さて、次回(12月6日)のゲストも、ノンフィクション作家の野地秩嘉さんです。
ゆったりとしたリズムで話す野地さんは、会話の「間(ま)」を怖がらないですね。
人の話を聴くのが仕事のノンフィクション作家の中で、それは特に際立っている感じがします。
今度は、先月1周忌を迎えた高倉健さんについてお聴きしました。
野地さんは著書「高倉健インタヴューズ」で、健さんの仕事観や人生観、好きな映画などに迫っています。
私はこの本を3年ほど前に買って読みましたが、帯には健さんのコメントとして、「人生で大事なものはたったひとつ。心です」と書いてありました。
どういうことなのだろう?と思って読み進めた記憶があります。
健さんに18年で10回インタビューした野地さんは、みのさんとの対談で健さんの声を( )みたいと答えていました。
( )の部分は、是非、放送を聴いてみてのお楽しみです。
18年で10回しか会えない人・・・
いや、野地さんにとっては18年で10回も会えた人なのでしょうね。
また、高倉健さんの著書「あなたに褒められたくて」は、随分と前に図書館で読みましたが、健さんのお母様に対する愛が綴られていました。
大スターで、謎の多いイメージのある健さんが、少し身近に感じられたものです。
野地さんの本、「川淵キャプテンにゴルフを習う」(プレジデント社)、「ヨーロッパ美食紀行」(小学館文庫)、「ヤンキー社長」(日経BP)も是非ご一読ください。
『打ち合わせの天才』(光文社新書)も面白いですヨ!去年、神保町の喫茶店「ミロンガ」で貪るように読みました。
構成作家 後藤知紀
11月29日の放送告知
11月22日の「みのもんたのニッポン discover again」
武田信玄の次男、信親(のぶちか)の血を引く武田邦信(たけだ・くにのぶ)さんのお話(2週目)は、いかがでしたか?
放送を聴き逃してしまったという、あなた!!
11月23日(月)20時から11月30日(月)17時まで、こちらのブログ内で、アーカイブ音源をお聴き頂けます。
さて、次回(11月29日)のゲストは、ノンフィクション作家の野地秩嘉(のじ・つねよし)さんです。
野地さんは1957年に東京で生まれ、早稲田大学・商学部を卒業後、出版社勤務、美術プロデューサーなどを経て、執筆活動を始めました。
ビジネス、食、芸術・芸能、海外文化などに携わる人たちを幅広く取材しています。
「キャンティ物語」、「高倉健インタヴューズ」、「ヤンキー社長」など、著書も数多く、1964年の東京オリンピックを支えた人々を今に伝える「TOKYOオリンピック物語」で、ミズノスポーツライター賞・優秀賞を受賞しています。
今回は野地さんに、2020年の東京オリンピック・パラリンピックについてお聴きしました。
中学生の時、みのさんの番組(カムトゥゲザー)を聴いていた野地さん。
「洋楽を選ぶセンスがよく、話も面白かった。みのさんは将来、今以上にすごくなると思った」と話していました。
野地さんが子どもの頃の世田谷では、妹や弟をおんぶして空き地で野球を楽しむ子どもたちがいて、まだ牧歌的な雰囲気が残っていたとか。
次の放送では、2020年の東京大会に向けて、野地さんが語ります。
さらに今月28日、野地さんの最新刊が出ます!「川淵キャプテンにゴルフを習う」(プレジデント社)です。
また、「ヨーロッパ美食紀行」(小学館文庫)も出版されていますので、こちらも是非ご一読ください。
「ヤンキー社長」(日経BP)もオススメです。
野地さんと話していると、とにかく会話が弾みますね。
言葉数は少ないものの、1つ1つのフレーズがストンと腑に落ち、言葉選びが的確です。
ボクサーに例えるなら、手数は少ないものの、急所を狙う正確なパンチで相手を追い込むタイプでしょうか。
普段、取材対象者が気持ちよく喋っている光景が目に浮かびます。
そして人脈の広さは、第一印象から相手に信頼される誠実さでしょうね。
今までお会いした人の中で、あぁ、こういう人になりたいと思った一人が野地さんです。
構成作家 後藤知紀
11月22日の放送告知
11月15日の「みのもんたのニッポン discover again」
武田信玄の次男、信親(のぶちか)の血を引く武田邦信(たけだ・くにのぶ)さんのお話は、いかがでしたか?
放送を聴き逃してしまったという、あなた!!
11月16日(月)20時から11月23日(月)17時まで、こちらのブログ内で、アーカイブ音源をお聴き頂けます。
さて、次回(11月22日)のゲストも武田邦信(たけだ・くにのぶ)さんです。
武田家のルーツは信玄を飛び越え、平安時代の清和(せいわ)天皇に行きつくという名門で、武田邦信さんは信玄から数えて16代目、清和天皇から数えて32代目です。
今度の放送では、国連難民高等弁務官事務所の国内委員会・理事を務める武田さんに、日本の難民認定や丸紅時代のお仕事についてお聴きしています。
15日の放送で、武田さんは信玄と上杉謙信の川中島の戦いに触れています。
両者が同盟を結ぶなど、お互いのプライドが邪魔してあり得なかったことでしょうが、同盟を結んでいたらどうなっていたのか。
非常に面白い展開になっていたでしょうね。
自由に歴史を考えられる楽しみには、「もしも・・・」にあります。それは、とりわけ戦国時代ですが・・・
その武田と上杉が激突した川中島の戦いの第4ラウンド(1561年)は、千曲川が血で染まるほどの激闘でした。
この戦いで信玄の弟・信繁が戦死しており、お墓のある典厩寺(てんきゅうじ)の宝物館には、上杉謙信から送られてきた香典袋が展示されています。
私はこれを見てビックリしましたね。
敵将・信玄の弟に香典を送ってきた上杉謙信・・・義理固いと言われていますが、そこまでやるかと。
謙信からしてみたら、討ちとったのは自分の軍だが、お互い死力を尽くして戦ったのだから、せめて香典を送らせてくれということだったのでしょうか。
つまり、信繁はそれほどの人物だったのです。
信繁は兄・信玄をよく補佐し、家臣からの人望も厚く、信濃の諸葛亮孔明と言われた真田昌幸は、1567年、次男に信繁と命名しました。そう、真田幸村の本名です。
ところで、武田家では父・信玄と長男・義信の折り合いが悪く、駿河侵攻をめぐって両者の対立は決定的となり、信玄は義信を切腹に追い込むのですが、もしあと10年、いや5年でもいいから信繁が生きていれば、兄・信玄と甥・義信の仲を取り持ち、懸案だった駿河攻めについてもソフトランディング出来たかもしれません。
となると、武田勝頼は武田家を継ぐことなく、信玄の四男というポジションのままだったでしょう。
誰かが亡くなることで、誰かのその後の人生が変わることは今の世の中でも同じですが、武田家にとって川中島での信繁の死は痛恨の極みでした。
構成作家 後藤知紀
11月15日の放送告知
11月8日の「みのもんたのニッポン discover again」
日本経済新聞・社会部編集委員の井上亮(いのうえ・まこと)さんのお話(3週目)は、いかがでしたか?
放送を聴き逃してしまったという、あなた!!
11月9日(月)20時から11月16日(月)17時まで、こちらのブログ内で、アーカイブ音源をお聴き頂けます。
さて、次回(11月15日)のゲストは、歴史ファン必聴!武田信玄の子孫、武田邦信(たけだ・くにのぶ)さんです。
戦国時代、信玄のもとで大きく勢力を拡大した武田家は、今なお歴史ファンから絶大な人気を集めています。
戦国大名としての武田家は、信玄の四男・勝頼が織田信長によって滅ぼされましたが、次男・信親<のぶちか:出家後は竜芳(りゅうほう)と名乗る>が若い頃に僧侶となっており、その子どもたちが難を逃れたため、武田家の血脈は途絶えることなく現在まで受け継がれています。
また、信親は盲目だったとのこと。
武田邦信さんは、信玄から数えて16代目となる武田家の当主で、1948年、東京で生まれました。
武蔵工業大学(現・東京都市大学)を卒業後、丸紅に入社し、現在は国連難民高等弁務官事務所の国内委員会・理事を務めています。
今回は武田さんに、ご先祖の武田信玄についてお聴きしました。
武田さんとお会いするのは8年ぶりでしたが、当時と変わらず、非常に温和で紳士でしたね。
番組出演も二つ返事でご快諾頂きました。ありがとうございました。
古戦場マニアの私は、武田信玄に関する場所だと、信玄が信濃の豪族・村上義清と戦った上田原や砥石城跡、上杉謙信と戦った川中島、徳川家康と戦った三方ヶ原を訪れたことがありますが、武田軍が織田軍に大敗を喫した長篠へはなかなか行く気にはなれません。
ただ長篠では、毎年、織田軍(徳川軍)と武田軍で合同慰霊祭が行われており、地元の方々が450年にわたって武田軍の御霊を慰めてきたとか。
これは素晴らしいことです。
戦国大名としての武田家は1582年に滅びますが、本能寺の変の後、家康は武田家の遺臣を積極的に取り入れ、徳川軍はさらに強くなりました。
家康は若い頃から敵将の信玄に領国経営や戦略・戦術を学ぼうという姿勢があり、ここが凄いところです。
1572年冬、三方ヶ原の戦いで信玄から野戦に引きずり込まれ、苦い経験をした家康ですが、その28年後、石田三成ら西軍を大垣城から関ヶ原に引っ張り出し、野戦で決着をつけることに成功しました。
あの時、大垣城を素通りして大坂城を攻めると見せかけた家康は、かつて浜松城を素通りされ、信玄に戦国大名としてのプライドを傷つけられた経験を存分に生かしました。
もしかしたら信玄の直弟子は家康なのではないか、そんなことを考えてしまいます。
構成作家 後藤知紀
11月8日の放送告知
11月1日の「みのもんたのニッポン discover again」
日本経済新聞・社会部編集委員の井上亮(いのうえ・まこと)さんのお話(2週目)は、いかがでしたか?
放送を聴き逃してしまったという、あなた!!
11月2日(月)20時から11月9日(月)17時まで、こちらのブログ内で、アーカイブ音源をお聴き頂けます。
さて、次回(11月8日)のゲストも、日本経済新聞・社会部編集委員の井上亮さんです。
日本の原発政策を中心にお話し頂きました。
井上さんは博学で日本の近現代史に精通し、様々な角度から歴史をみつめる重要性を訴えています。
その著書「熱風の日本史」の中では、『美醜を呑み込み、本当の自画像を正視できるのが成熟した大人であり、国家である」と語っています。
今月1日の放送では新聞報道についてお話し頂きましたが、「熱風の日本史」で私が印象に残った1つの項目が202ページに書いてある『1940年、亡国前の乱舞 「神国」と「ドイツ」ブーム』です。
近代の新聞が学んで来たこと、それは「戦争と愛国」は儲かること。
日清・日露戦争、満州事変でも新聞は売れに売れました。
そして井上さんの言葉を借りれば、1940年は、大日本帝国が滅亡へ向かって引き返せない第四コーナーを回った年だとか。
この年に締結された日独伊三国同盟について、朝日新聞は「国際史上画期的の出来事」、東京日日新聞は「崇高にして人道的である。世界いづれの国がこれに反対しうるか」と、各紙がこぞってこの同盟を礼賛しました。
今、振り返れば、異常とも思える熱狂ぶりです。
やはりメディアも国民も、現実を知らないということは怖い・・・そう気づかされます。
戦時中、陸軍や海軍の中でもアメリカと戦争して勝てるわけがないと言う人はいました。
それなのに、どうして対米戦を止めることが出来なかったのか。
戦局が悪化するやアメリカに制空権を握られ、東京大空襲をはじめ、日本各地に落とされた焼夷弾、そして広島と長崎への原爆で数え切れないほどの国民が亡くなりました。
日本の近代史は、無念の死を遂げた人たちの上に成り立っているのではないでしょうか。
戦後70年、歴史から学ぶことがたくさんあります。
8日の放送も、是非聴いてください。
構成作家 後藤知紀
みのもんた
歴史・文化・芸能・スポーツなどに造詣が深いみのもんたが【東京】【日本】【時代】【人間】をテーマに、各界の著名人をゲストに迎えます。
対談を通じて、日本の伝統・文化、日本人の生き方など様々な事象を掘り下げ、「再発見」し、未来につながる理想の日本、そして日本人の姿を描き出します。
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