番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT

◆3月9日(月)
スキャットマン・ジョン  「スキャットマン」

アメリカ、ロサンゼルス郊外のエルモンテ出身のスキャットマン・ジョン。本名はジョン・ラーキンというのですが、彼は、生まれながらに吃音(きつおん)という言葉の障害を抱えていたために、ほとんど誰とも話をすることがなかったそうです。ただ、幼い頃からエラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロング、チャーリー・パーカーといったジャズの世界に魅了され、ジャズピアノに出会い、それが、彼にとって唯一のコミュニケーションの手段となります。そして、南カリフォルニア周辺のジャズクラブで演奏しながら、生計を立てていたのですが、折からの不況も手伝って、1994年、仕事を求め、ベルリンに移住します。
そこで、妻がエージェントに渡したカセットテープの中に収められていたスキャットソングに目が留まり、急きょスキャットマン・ジョンという名前で、この曲「スキャットマン」で、52歳という年齢でメジャーデビューを果たします。吃音という障害をスキャットにしてダンスミュージックと融合させ、「テクノスキャット」というジャンルを開拓したこの曲は、ドイツをはじめ、ヨーロッパ各国で1を獲得。その流れは、日本にもおよびます。日本では、この曲を収めたデビューアルバム『スキャットマンズ・ワールド』が250万枚を超す大ヒットとなり、プッチンプリンやカネボウ化粧品のCMにも出演し、一躍時の人となりました。その後も活躍が期待されましたが、1999年、ガンのために57歳で亡くなっています。

◆3月10日(火)
上條恒彦  「出発の歌」

役者になりたくて、長野県から上京した上條恒彦。「舞台芸術学院」という演劇学校にはいるものの、仕事がなく、アルバイト生活を余儀なくされていた彼は、先輩の紹介で、歌声喫茶で歌うようになり、1969年、NHKの歌番組「ステージ101」で、歌手としてデビューします。そして、1971年、「世界歌謡祭」に参加する日本代表の選考会で、“六文(ろくもん)銭(せん)”の小室等が、上條恒彦との共演を提案。上条恒彦と六文銭として、この曲「出発(たびだち)の歌」で出場し、グランプリを獲得。
シングルチャートを一気に駆け上がり、大ヒットしました。翌72年には、ドラマ「木枯らし紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」を歌い、これがヒット。男らしい歌い口が評判となり、一躍時の人となります。その後は、俳優としての活動にも精力的に取り組むようになり、中でも「3年B組金八先生」の社会の服部先生役として有名になりました。

◆3月11日(水)
ヘヴィ・D&ザ・ボーイズ   「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」

アメリカ、フィラデルフィアのテンプル大学で知り合ったダリル・ホールとジョン・オーツ。ダリルは、テンプトーンズ、ジョンは、マスターズというローカルバンドでそれぞれ活動をしていましたが、解散後、親交を深めていくようになり、ふたりはまず、ソング・ライターとしてレコード会社と契約を結び、デモテープ制作を始め、1972年、アルバム『ホール・オーツ』でデビューします。しかし、なかなか成功を収めることが出来ず、75年にレコード会社を移籍し、77年のアルバム『ロックン・ソウル』からシングルカットされた「リッチ・ガール」が初めて全米1を獲得し、ようやくその名が知られるようになります。
この曲「キス・オン・マイ・リスト」は、1980年に発表した初のセルフ・プロデュースアルバム『モダン・ボイス』からの3枚目のシングル曲で、2曲目の全米1に輝くとともに、アルバムは初のミリオンセールスを記録し、2人の黄金期がやってきます。その後は、「プライベート・アイズ」「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」「マンイーター」「アウト・オブ・タッチ」と4曲の全米bPソングを世に送り出しますが、その後はソロ活動が目立つようになり、91年に活動休止状態になってしまいます。しかし、95年に2人での活動を再開させ、2003年には『ドゥ・イット・フォー・ラブ』、2004年にはカバーアルバム『アワー・カインド・オブ・ラブ』を発表し、来日公演も果たしました。ジョン・オーツは今年1月に6年ぶりとなるソロアルバム『1000マイルス・オブ・ライフ』を発表し、先月ソロ来日公演をおこないました。

◆3月12日(木)
トゥ・ビー・コンティニュード  「君だけを見ていた」
ボーカルの岡田浩暉、ギター&キーボードの後藤友(ゆう)輔、コンピューター・プログラミングでキーボードの佐藤鷹の3人で結成されたトゥ・ビー・コンティニュード。1991年、シングル「君がいたから」でデビューし、ポップな楽曲を世に送り出し、その名が知られるようになります。この曲「君だけを見ていた」は、トゥ・ビー・コンティニュードの9枚目のシングルで、岡田も出演した中山美穂主演のドラマ「もしも願いが叶うなら」の挿入歌になり、50万枚を越すヒットを記録し、彼らを代表する1曲になります。
その後、「逃げたりしない」「うまく言えないけど」などのシングルヒットを放ちますが、2000年に活動休止を宣言し、それぞれ個人として活動をするようになります。岡田浩暉は、その後、ガーデン・イールというバンドを結成しますが、現在は俳優として活躍しており、後藤友輔は、現在アカシアオルケスタの藤原岬のサウンドプロデュースを手掛け、佐藤鷹はルルティアの音楽プロデューサーとして活動しています。

◆3月13日(金)
エアロスミス  「ミス・ア・シング」

スティーブン・タイラー、ジョー・ペリー、トム・ハミルトン、ジョーイ・クレイマー、ブラッド・ウィットフォードの5人からなるアメリカ・ボストン出身のハードロックバンド・エアロスミス。チェーン・リアクションというバンドのフロントマンだったスティーブン・タイラーが、ジョー・ペリー、トム・ハミルトンのバンドに出会って衝撃を受け、そこにジョーイ・クレイマーとブラッド・ウィットフォードが加わる形で、エアロスミスを結成。1973年、アルバム『野獣生誕』でデビューします。地道なライブ活動で着実にステータスを確立させながら、3枚目のアルバム『闇夜のヘビー・ロック』から「スウィート・エモーション」、「ウォーク・ジス・ウェイ」がヒット。初のプラチナアルバムを獲得します。さらにデビューアルバムから「ドリーム・オン」を再発売すると彼らを代表する1曲となり、アメリカナンバー1のライブバンドに成長します。
1980年代前半、ドラッグや人間関係の問題で人気が低迷しますが、86年、RUN(ラン) D(ディー).M(エム).C(シー)がカバーした「ウォーク・ジス・ウェイ」にスティーブン・タイラーとジョー・ペリーがゲストとして参加。これが“ラップとロックの初のハイブリッド作品”として大ヒットしたことで、再びエアロスミスに注目が集まり、第2の黄金期を迎えます。そして、93年には、アルバム『ゲット・ア・グリップ』が初の全米ナンバー1を獲得し、全世界で1200万枚の売上げを記録。世界的なロックバンドとして成功を収めます。
この曲「ミス・ア・シング」は、スティーブン・タイラーの実の娘であるリブ・タイラーも出演した映画『アルマゲドン』のメインテーマ。エアロスミスとしてシングル・チャートで初の全米ナンバー1に輝き、アカデミー賞最優秀主題歌賞にもノミネートされました。現在、エアロスミスは、ニューアルバムの制作中ですが、メンバーの怪我が相次いで、作業が思い通りに進んでいないということです。




 

 

 



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