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ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆2月16日(月)
ホイットニー・ヒューストン&ジャーメイン・ジャクソン  「やさしくマイ・ハート」

1992年に主演した映画『ボディガード』の主題歌「オールウェイズ・ラブ・ユー」が、全米シングルチャートで14週連続ナンバー1を記録。サウンドトラックの全世界のセールスが3000万枚を超し、日本でも300万枚という洋楽史上最高のセールスという驚異的な記録を持っているホイットニー・ヒューストン。15歳の時、ゴスペル・シンガー、シシー・ヒューストンのバック・コーラスに参加し、17歳からはグラビアの表紙を飾るトップモデルとして活躍していました。1984年には、事故で再起不能と言われたテディ・ペンダグラスと、復帰作「ホールド・ミー」で共演。スタジオ・セッション・シンガーとして知られるようになります。
この曲「やさしくマイ・ハート」は、ジャーメイン・ジャクソンのアリスタ・レコード移籍第一弾アルバム『ダイナマイト』に収録された曲で、堂々たるデュエット・ボーカルが話題となり、デビュー前にすでに「噂の人」となります。そして1985年、この曲も収めたアルバム『そよ風の贈りもの』でデビュー。全世界で2300万枚という驚異的なセールスを記録し、「最もセールスを挙げたデビューアルバム」として音楽史にその名を刻みました。 一方のジャーメインは、このアルバムにプロデューサーとして名を連ねていますが、その後は、ゴシップ的な発言ばかりが注目を集めるようになってしまいます。そのジャーメインによると「今年、ジャクソン5が再結成するプロジェクトが進行している」という発言をしており、もし、実現すれば“最もインパクトのあるリユニオンになる”と言われています。

◆2月17日(火)
橋幸夫・吉永小百合  「いつでも夢を」

11歳で、ラジオドラマ「赤(あか)胴(どう)鈴之助(すずのすけ)」で芸能デビューを果たした吉永小百合。1962年、映画『キューポラのある街』に主演し、純情な娘役が評判となり、ブレイクします。その後、作曲家である吉田正(ただし)の門下生となり、シングル「寒い朝」でレコードデビューし、歌手としても成功を収めます。一方の橋幸夫は、1960年、デビュー曲である「潮来(いたこ)笠(がさ)」が爆発的な大ヒット。「股旅」モノでブームを起こし日本レコード大賞新人賞の第1号の受賞者となります。そんな橋幸夫も吉田正の門下生であったことから、この曲で、吉永小百合とのデュエットが実現。30万枚を超す大ヒットとなり、1962年の第4回日本レコード大賞を受賞しました。さらに、第35回春の選抜高校野球の入場行進曲になりました。
また、この曲のヒットで、橋幸夫は、それまでのイメージチェンジを果たして、青春歌謡の第1人者となり、1966年シングル「霧氷(むひょう)」で再び日本レコード大賞を受賞。人気・実力を兼ねた若手1歌手となります。その後も同じ場所に安住することのない橋幸夫は、サーフィンやホッドロッドなどの洋楽のリズムを取り入れたエレキ歌謡を生み出し、「恋のメキシカン・ロック」で頂点を極めました。

◆2月18日(水)
エルトン・ジョン&キキ・ディー   「恋のデュエット」

1997年に亡くなったダイアナ妃の追悼歌として発表された「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」が全世界で3700万枚以上のセールスを記録し、シングルとしての販売枚数のギネス記録をもっているエルトン・ジョン。ロンドン王立音楽院在学中からプロとして活動していましたが、リバティ・レコードが行ったオーディションで、作詞家バーニー・トーピンと出会い、ソング・ライティング・チームを結成。1968年「アイブ・ビーン・ルージング・ユー」でデビューし、セカンドアルバム『エルトン・ジョン』からの「僕の歌は君の歌」が世界的なヒットとなり、一躍スターの仲間入りを果たします。その後1972年に発表したアルバム『ホンキー・シャトー』以降、75年までに発表した7枚のアルバムはすべて全米1に輝いています。
この曲は、1976年に発表した、イギリス、ブラッドフォード出身のキキ・ディーとのデュエット曲でエルトン・ジョンにとって初めて本国イギリスのシングル・チャートで1に輝き、全米と全英で1位というビッグ・ヒットとなり、キキ・ディーの知名度も一気に高まりました。キキ・ディーは16才からロンドンのローカルバンドのシンガーとしてそのキャリアをスタートさせ、モータウンレーベルから2人目の白人シンガーとして1970年にデビューしたのですが、成功を収めることが出来ずに、1973年、エルトン・ジョンが作ったロケット・レーベルからエルトンのプロデュースのもと再デビューし、76年にデュエットしたことで、その才能が一気に開花しました。その曲のヒット後、エルトン・ジョンはウェンブリーアリーナでの公演中に引退を表明
し、2年間、音楽活動を休止しますが、引退を撤回。81年に、キキ・ディーと再びデュエットを果たし、1993年にもエルトンのアルバム『デュエット・ソングス』の中でもシングル「トゥルー・ラブ」で3度デュエットを実現させています。

◆2月19日(木)
藤谷美和子・大内義昭  「愛が生まれた日」
12歳の時に「ポテトチップス」のCMで芸能界デビューを果たした藤谷美和子。1978年、学園ドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」に出演して人気を集め、女優としての地位を確立します。この曲「愛が生まれた日」は、1994年に発表された藤谷美和子の歌手としてのデビューシングル。オリコンでのシングルチャートは5位でしたが、藤谷美和子が主演したドラマ「そのうち結婚する君へ」の挿入歌としてロングヒット。ミリオンセールスを記録しました。さらにその年の全日本有線放送大賞最優秀新人賞を獲得し、紅白歌合戦にも初出場を果たしました。
デュエットした大内義昭は、1984年に「デュ・プレクス」というバンドでデビュー。バンド解散後は、小比類巻かほるの楽曲を手掛けるなど作曲家として活動し、1988年にソロデビュー。94年にこの曲で藤谷とデュエットし、その名が知られるようになりました。その後、大内義昭は、地元である北九州に戻り、「九州アーティスト学院」を開校。若手の育成を行っています。

◆2月20日(金)
ピーター・ガブリエル&ケイト・ブッシュ  「ドント・ギヴ・アップ」

トニー・バンクスやマイク・ラザフォードとともにジェネシスを結成し、1969年に『創世記1(ワン)』でデビューしたピーター・ガブリエル。ジェネシスとして3枚目のアルバム『ナーサリー・クライム』で、“プログレ文芸派”といわれるドラマチックで叙情的なジェネシスサウンドを確立。そして、演劇的なパフォーマンスが話題になりますが、1975年、ピーター・ガブリエルは、突然、ジェネシスを脱退してしまいます。1977年にソロとしてデビューすると、それまでのジェネシス・サウンドは払拭され、ポップス感が研ぎ澄まされるようになります。そして、1985年に発表したアルバム『ソウ』で全英1位を獲得し、頂点を極めます。特にこの『ソウ』からシングルカットされた「スレッジハンマー」は、イギリスとアメリカで同時にナンバー1に輝き、ピーター・ガブリエルの名前を世界中に知らしめました。
この曲「ドント・ギヴ・アップ」は、同じくアルバム『ソウ』からの3曲目のシングルカット。ケイト・ブッシュとのあまりにも純粋すぎるデュエットが話題になり、イギリスのシングルチャートで9位を記録しました。ケイト・ブッシュはこのデュエットの後、区切りとして初のベストアルバムを発表して、1989年にアルバム『センシュアル・ワールド』で本格的な全米への進出を果たします。その後、ケイト・ブッシュは子育てに専念するために、第一線から姿を消しますが、2005年、12年ぶりのニューアルバム『エアリアル』を発表。話題になりました。一方、ピーター・ガブリエルは、期待された2006年のジェネシスの再結成に参加せずファンをがっかりさせましたが、映画『ウォーリー』の主題歌「ダウン・トゥ・アース」がアカデミー賞のオリジナル歌曲賞にノミネート。今月22日に行われるアカデミー賞の受賞が期待されています。



 

 

 



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