◆1月 19日(月)
レインボー 「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」
ディープ・パープルを脱退したリッチー・ブラックモアが、1975年にロニー・ジェイムス・ディオをボーカリストに迎えて結成したレインボー。アルバム『銀嶺(ぎんれい)の覇者(はしゃ)』でデビューするものの、ロニー以外のメンバーは全員解雇。ジェフ・ベック・グループに参加していたドラマー、コージー・パウエルが加わり、レインボーの最初の黄金期を迎えます。
セカンドアルバム『虹を翔る覇者』では、中世的なサウンドとリッチーの独特なギターのリフに、コージーのパワフルなドラミングが加わって、レインボーの人気が確立されます。しかし、リッチーがアメリカのリスナーに合うポップな音楽性を目指し始めたために、ロニーが脱退。2代目のボーカルとしてグラハム・ボネットが加入した4枚目のアルバム『ダウン・トゥ・アース』が発表されると、この曲「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」がヒットしました。
この曲は、もともとラス・バラードの曲で、それまでの音楽性から一新してしまったために、ファンの間でも賛否が分かれ、ドラムのコージーが脱退。さらにボーカルも3代目のジョン・リン・ターナーへと変わってしまいます。続くアルバム『アイ・サレンダー』からは「アイ・サレンダー」がヒットしましたが、1984年、ディープ・パープル再結成の話が持ち上がり、リッチー自身がディープ・パープルに戻ることを決断。レインボーは解散しました。
◆1月 20日(火)
ディーン 「このまま君だけを奪い去りたい」
初めに、ドコモのポケベルのCMのタイアップ曲として決まっていたこの「このまま君だけを奪い去りたい」は、作詞をワンズの上杉(うえすぎ)昇(しょう)、作曲を織田哲郎が担当し、この曲を歌うボーカリストを探していた時、歌手を目指して上京していた池森秀一に歌わせたところ、評判が良かったために、ボーカリストに起用。そこに、急きょキーボードの山根公(こう)路(じ)が加わって、ディーンを結成し、この曲で1993年デビューとなりました。オリコンシングルチャートでは最高2位となり、発売1週間でミリオンセールスに迫る勢いのヒット曲となり、さらに、10週連続ベスト10入りというロングヒットで、最終的には160万枚というセールスを記録しました。
1994年には、ギターの田川(たがわ)伸(しん)治(じ)とドラムの宇津本(うずもと)直(なお)紀(き)がメンバーに加わり、5枚目のシングル「瞳そらさないで」を発表すると、この曲が再びミリオンセールスを記録。オリコンシングルチャートでも初の1位を獲得し、ディーンは、一躍時代を代表するグループになります。続けて、発表した1STアルバム『ディーン』も150万枚を超える大ヒットとなり、史上初、1STシングルと1STアルバムが共にミリオンヒットを記録しました。99年にドラムの宇津本が脱退して、3人組となりますが、去年はデビュー15周年を記念して、初めて日本武道館でライブを行い、今年、5月に再び日本武道館でのライブが決定しています。
◆1月 21日(水)
サベージ・ガーデン 「アイ・ウォント・ユー」
オーストラリア、ブリスベン出身の2人組ユニット、サベージ・ガーデン。メンバーはボーカルのダレン・ヘイズとキーボードのダニエル・ジョーンズ。ロンドン出身でオーストラリアのブリスベンで「レッド・エッジ」というバンドで活動していたダニエル・ジョーンズが、ボーカル募集の広告を出したところ、当時大学生だったダレン・ジョーンズがやってきました。しばらくすると、2人は「レッド・エッジ」を脱退し、サベージ・ガーデンを結成。1995年、地元のレコード会社と契約を結び、この曲「アイ・ウォント・ユー」でデビューしました。世界デビューのきっかけは、オーストラリアで行われた音楽コンベンションに参加したテキサス州のラジオDJがこの曲を自分の番組でオンエアしたことで、曲への問い合わせが殺到して、全米各地で話題となり、ソニーがワールドワイド契約を結びました。
この曲は全米シングルチャートで4位を記録し、アメリカだけでなく、ヨーロッパ、アジア、そして日本でも大ヒットしました。オーストラリア版グラミー賞、アリア・アウォードでは記録タイとなる10部門で受賞し、名実共にオーストラリア1バンドとなり、デビューアルバム『サベージ・ガーデン』のセールスは全世界で1100万枚を超し、不動の人気を確立します。1999年に発表されたセカンドアルバム『アフェメーション』からの1STシングル「アイ・ニュー・アイ・ラブド・ユー」が2曲目の全米1となり、900万枚のセールスを記録しました。2000年のシドニー・オリンピックの閉会式では、ライブ・パフォーマンスを披露するなど、高い人気を見せていたのですが、わずか2枚のアルバムを発表しただけで、2001年、解散し、その後、ダレンはソロ活動をスタートさせ、ダニエルはプロデューサーとして活動をしています。
◆1月 22日(木)
近藤房之助&織田哲郎 「ボンバー・ガール」
中学時代をロンドンで過ごして15歳で帰国した織田哲郎。高校時代にバンドを結成し、オリジナルの作品を作り始めます。1980年、織田哲郎&(アンド)ナインス・イメージでバンドデビューを果たし、83年にはアルバム『ボイス』でソロとしてもデビューします。この頃から並行して作曲家としても活動をスタート。86年、チューブに提供した「シーズン・イン・ザ・サン」が大ヒットし、メロディー・メイカーとしての才能が開花。B.B.クイーンズに提供した「おどるポンポコリン」はレコード大賞を受賞しました。
この「おどるポンポコリン」を歌っていたB.B.クイーンズのメンバーが近藤房之助で、ブルース、ルーツロック、R&B色の濃い“ブレイクダウン”というバンドでデビュー。1986年に解散してしまいますが、1990年にソロとしてデビューを果たし、その後B.B.クイーンズに参加して、一躍その名が知られるようになります。そして、1992年、近藤房之助&織田哲郎というユニット名でこの曲「ボンバー・ガール」を発表し、ヒットしました。
その後、織田は「いつまでも変わらぬ愛を」がソロ作品として初のシングルチャート1位を獲得し、ミリオンセールスを記録。現在は、ソロ活動のほかにプロデューサーとしても活躍しています。一方、近藤は、コアなファンの心つかんで離さないディープな音楽活動と同時に様々なアーティストとのコラボレーションを実現させています。
◆1月 23日(金)
ドリス・デイ 「ケ・セラ・セラ」
アメリカ・オハイオ州出身のドリス・デイ。子供の頃から歌や踊りが好きで、バレリーナを目指していたのですが、14歳の時に交通事故に遭遇。激しい踊りができなくなり、バレリーナの夢を断念しなければならなくなります。しかし、16歳の時にジャズのレス・ブラウン楽団の専属歌手となり、1944年、「センチメンタル・ジャーニー」が大ヒット。ミリオンセールスを記録しました。その後、48年には、映画「洋上のロマンス」で銀幕デビュー。50年には主題歌もヒットした「二人でお茶を」などが人気となり、女優としての地位を不動のものとします。
この曲「ケ・セラ・セラ」は、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「知りすぎていた男」の主題歌で、アカデミー賞主題歌賞を獲得。世界的な大ヒット曲となりました。日本ではペギー葉山がカバーし、ヒットしました。
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