◆12月 15日(月)
ブレンダ・ラッセル 「ピアノ・イン・ザ・ダーク」
アメリカ、ニューヨーク出身のブレンダ・ラッセルは、父親がR&Bグループ、インクスポッツのメンバーだったこともあり、幼い頃から音楽に興味を持っていました。12歳でカナダ、トロントに引っ越した時に、地元のバンドに参加し、音楽活動をスタートさせます。そして、ミュージカル「ヘアー」のカナダ・バージョンに参加し、そこで、ブライアン・ラッセルと知り合い、結婚。ブライアン&ラッセルという夫婦ユニットを結成します。その後、活動の拠点をロサンゼルスに移すと、そこで、エルトン・ジョンに見いだされ、2枚のアルバムを発表しましたが、成功を収めることが出来ず、ユニットを解消、私生活でも離婚してしまいます。
1979年、ブレンダは、トミー・リピューマのプロデュースの下、アルバム『ブレンダ・ラッセル』でソロデビューを果たします。この曲「ピアノ・イン・ザ・ダーク」は、1988年の4枚目のアルバム『ゲット・ヒア』からのシングル・カットで、全米6位を記録。さらにグラミー賞の2部門にノミネートされ、ブレンダの最大のヒット曲となりました。
90年代に入ると、ティナ・ターナーやダイアナ・ロス、レジーナ・ベル、レイ・チャールズなどへ楽曲を提供し、ソングライターとして知られるようになり、数多くのミュージシャンから絶大な信頼を得るのですが、アメリカ音楽業界とのギャップから表舞台から姿を消していました。しかし、2004年にアルバム『ビトウィーン・ザ・サン・アンド・ザ・ムーン』を発表し、来日ライブも行い、往年のファンを喜ばせました。
◆12月 16日(火)
トム・キャット 「ふられ気分でロックンロール」
1978年、女性ボーカルのトムを中心に結成された「ファンキー・ノイズ」が、何度かのメンバーチェンジを繰り返し、1984年、5人組のトム・キャットとなります。トム・キャットは、ヤマハのポプコンつま恋本選会でグランプリを受賞。さらにその後、進んだ「世界歌謡祭」でもグランプリを受賞して、この曲「ふられ気分でロックンロール」でデビューします。
トムの顔半分を覆いつくすほどの大きなサングラスで歌う姿がインパクトを与えて、翌85年にかけてのロングヒットとなり、オリコンシングルチャートでは、最高位が4位だったものの、85年の年間チャートでは18位を記録しました。その後、JALの沖縄キャンペーンソング「サマータイム・グラフィティ」や、アニメ「北斗の拳2」の主題歌である「タフ・ボーイ」などのヒット曲を放ちました。
◆12月 17日(水)
ビリー・ジョエル 「ピアノ・マン」
アメリカ、ニューヨーク州出身のビリー・ジョエルは、3歳からクラシック・ピアノを 習い始め、神童といわれる腕前でしたが、ビートルズに出会い、
ロック・アーティストになることを決意し、地元のロング・アイランドでピアノ弾きとして そのキャリアをスタートさせます。ハッスルズというバンドでプロとしてデビューし、
2枚のアルバムに参加しましたが、解散。すぐに、アッティラという 2人組のユニットを結成しデビューしましたが、全く売れませんでした。
そして、1971年、ついにソロ・デビューアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』を 発表しましたが、すぐに成功を収めることができませんでした。そして、
ビリー・マーティンという名前でピアノ・バーで弾き語りをして生計を立てながら、 デモ・テープ用で作った「キャプテン・ジャック」という曲がラジオでオンエアされて
ヒットしたことで、1973年、改めてCBSからアルバム『ピアノ・マン』が 発売されることになります。この曲「ピアノ・マン」は、ビリー・ジョエル最初のヒット曲となり、
アルバム『ピアノ・マン』は、ゴールド・ディスクを獲得し、ここから「ピアノ・マン」という ニックネームで呼ばれるようになりました。
その後、アルバム『ストリートライフ・セレナーデ』『ニューヨーク物語』 『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』といった名作を次々と生み出し、
アメリカを代表するミュージシャンとなります。1993年アルバム『リバー・オブ・ドリームズ』発表後、現役ミュージシャンとしての活動からの引退を示唆していましたが、昨年14年ぶりにオリジナル曲である「オール・マイ・ライフ」を発表。
先月18日に、1日限りの東京ドームコンサートを行いました。
◆12月 18日(木)
大事MANブラザーズバンド 「それが大事」
立川俊之を中心に山田哲生、戸村公彦、田岡広宣、吉田理恵の5人組で 結成された、大事MANブラザーズバンド。バンド名は、「人間には忘れちゃいけない大事なものがある。
それを歌っていきたい。」という気持ちと、大好きなオールマンブラザーズバンドのバンド名をくっつけてつけられたそうです。1991年、シングル「MO-RIO」、アルバム『大事な気持ち』でデビューしますが、
鳴かず飛ばず状態でした。
そしてこの曲「それが大事」が3枚目のシングルとして 発表され、スポーツ番組のエンディング・テーマとなった後に、
『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のテーマソングになり、 翌92年までのロングヒットなり、180万枚を超すセールスを記録して、92年の年間シングルセールス第4位をマークしました。その後、大事MANブラザーズバンドは、1996年解散し、リーダーの立川俊之は
ビッグ・バンドのT.T.オーケストラを結成、現在はソロとして活動しています。
◆12月 19日(金)
サラ・ボーン 「ラバーズ・コンチェルト」
サラ・フィッツジェラルド、カーメン・マクレエと共に“女性ジャズ・ボーカリスト御三家”の一人に挙げられているサラ・ボーン。アメリカ・ニュージャージーに生まれ、12歳の頃からオルガンの弾き語りを始め、アマチュア・コンテストに出演するようになります。19歳の時、アポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」で優勝。
これがきっかけとなり、ビリー・エクスタインに認められて、アール・ハインズ・オーケストラに入団。プロとしてデビューすることになります。1945年にはソロ歌手としてデビュー。当時の最先端のモダン・ジャズであった“ビバップ・スタイル”を歌い方に生かして、1947年〜51年まで、ダウンビート誌の女性歌手部門で1位の座をキープ。ジャズ・ボーカリストの枠を超越した「ザ・シンガー」として賞賛されました。さらに「サラ・ボーン・ハイ・ファイ」や「ノー・カウント・サラ」では、マイルス・デイビスやカウント・ベイシーと共演。ジャズ・ファンの大きな支持を受け、サラ・ボーンの黄金期を迎えました。
この曲「ラバーズ・コンチェルト」は、幅広い音楽性を持ち合わせたサラ・ボーンが、ジャズの枠にとどまらずポップスに挑戦した1曲。バッハの「メヌエット」を基調にしたポップなナンバーで、元々は黒人女性グループ“トイズ”がヒットさせた曲をカバーして有名になりました。特に日本では数多くのコマーシャル・ソングに採用。最近では竹内結子主演のドラマ「不機嫌なジーン」の挿入歌にもなりました。
1980年代中盤以降も精力的なライブ活動を行い、1987年にはブラジルの音楽家たちの作品を歌った「ブラジリアン・ロマンス」を発表。来日を控えていましたが、1990年4月、肺がんで倒れ、66歳で亡くなりました。
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