番組について
ONAIR REPORT
BACK NUMBER
◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT
◆5月5日(月)
デペッシュ・モード  「ピープル・アー・ピープル」

イギリス、バジルドン出身の同級生だったビンス・クラーク、アンドリュー・フレッチャー、マーティン・ゴアが結成したバンドに、シンガーのデイブ・ガーンが加わって出来たデペッシュ・モード。コンピレーション・アルバムに参加したのをきっかけに1981年、シングル「ドリーミング・オブ・ミー」でデビュー。着実にシングル・ヒットを重ねて、1STアルバム『ニュー・ライフ』がイギリスのアルバム・チャートで10位を記録し、ニューロマンテック系バンドとしてイギリス国内で知られるようになります。しかし、音楽性の違いから、主な作詞・作曲を手掛けていたビンスが脱退。新たにアラン・ワイルダーが加入し、シンセサイザーとサンプリングが絶妙にミックスしたエレクトリック・ポップバンドとして、ドイツを中心にヨーロッパ各国で人気を博します。
そして、デペッシュ・モードが世界的に知られるようになるきっかけとなった曲が1984年にリリースされたこの曲「ピープル・アー・ピープル」。この曲は、全英シングルチャートで4位、全米チャートでも13位とアメリカでもヒットし、この曲が収められたアルバム『サム・グレート・リウォード』は、過去最高のセールスを記録します。ワールド・ツアーも成功させ、8枚目のアルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・ディボーション』はイギリスとアメリカで初登場1位になりましたが、アラン・ワイルダーが脱退を表明。デイブ・ガーンが薬物の過剰摂取で、2分間心臓が停止するという事態が起きて、バンドは存亡の危機を迎えます。しかし、1997年アルバム『ウルトラ』を発表して、見事復活を遂げ、2005年にもニューアルバム『プレイング・ジ・エンジェル』を発表。去年、MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードで最優秀グループ賞を獲得しました。

◆5月6日(火)
ブルー・ハーツ  「情熱の薔薇」
別々のバンドで活動していた甲本ヒロトと真島昌利が、それぞれのバンドの解散をきっかけにブルーハーツを結成。その後、メンバー・チェンジがあって、河口純之助と梶原徹也が加わり、ブルーハーツのメンバーが揃います。キャッチーなメロディと不器用ながら、メッセージ性のある歌詞をシンプルに投げかけるスタイルとユニークなライブパフォーマンスが、若者たちの心をわしづかみにし、ライブの動員数を増やしていきます。
そして、1987年2月に、シングル「人にやさしく」をインディーズで発表。5月に「リンダリンダ」でメジャーデビューすると、その名前は一気に全国的に知られるようになり、1988年2月には武道館ライブも行ないます。5枚目のシングル「トレイン・トレイン」がドラマ「はいすくーる落書」の主題歌になり、アルバム『トレイントレイン』は50万枚を超すセールスを記録。一躍日本の音楽業界のトップシーンに登りつめます。
この曲「情熱の薔薇」は、1990年に発表された9枚目のシングルで、ドラマ「はいすくーる落書2」の主題歌になり、オリコンシングルチャートで初の1位に輝きました。しかし、1995年、突然、解散を発表。8年間の活動に終止符を打ちました。その後、甲本と真島は、ハイロウズを結成するも、2005年に活動休止、現在は、クロマニヨンズとして活動をしています。

◆5月7日(水)
レターメン  「涙の口づけ」

アメリカの、ブリガム・ヤング大学の学生だったジム・パイクとボブ・エンゲマン、そしてラウンジ・シンガーのトニー・ブタラの3人がロサンゼルスで1960年に結成したコーラス・グループ、レターメン。レターメンとは、スポーツ万能の選手を総じていいますが、彼らはどんなジャンルの音楽も3人のハーモニーでアレンジするという意味をこめて、 このグループ名にしました。そして、1961年、キャピトルから「今宵の君は」というスタンダード・ナンバーをカバーしてデビューすると、ゴールド・ディスクを受賞します。彼らは、いわゆる古い曲を新しい感覚でリメイクして、ヒット曲を世に送り出していきます。
1967年、ボブ・エンゲマンに代わって、ジムの弟であるゲーリー・パイクがメンバーになりますが、この曲「涙のくちづけ」はその3人が放った1969年のヒット曲で、ブライアン・ハイランドが歌っていた曲をカバーして、日本でも大ヒットし、レターメンの名前が知られるようになりました。
その後もメンバーチェンジが行われて、現在は、トニー・ブタラ、ドノバン・スコット・ティー、マーク・プレストンの3人となり、ラスベガスを中心にアメリカ各地を回り、また、メジャーリーグの国歌斉唱にも参加するなど、今なお、現役で活躍しています。

◆5月8日(木)
加藤登紀子  「百万本のバラ」

東京大学に在学中の1965年、日本アマチュア・シャンソン・コンクールで優勝し、シングル「誰も知らない」でデビューした加藤登紀子。シングル「赤い風船」がヒットし、レコード大賞新人賞を受賞します。
アイドル的な人気で、現役東大生歌手だった加藤登紀子は、1969年投獄中の元全学連委員長、藤本敏夫を思って作った曲「ひとり寝の子守唄」が大ヒットし、レコード大賞歌唱賞を受賞。72年には、獄中の藤本と電撃結婚します。その後、日本各地に伝わる名曲を発掘して歌った企画アルバム『日本哀歌集』にも収録された、「知床慕情」が140万枚を超すミリオンヒットを記録し、再びレコード大賞歌唱賞を受賞します。
この曲「100万本のバラ」は、ロシア人、アーラ・ブガチョワのカバー曲で、1987年に発表し、大ヒットしました。また、この年、加藤が石原裕次郎に提供した「わが人生に悔いなし」、中森明菜に提供した「難破船」をカバーしてヒットしています。
近年では、若いアーティストとの交流も盛んで、2006年にはフジロックフェスティバルに、昨年はap bank fesに出演するなど、世代を超えた人気を集めています。7日には、日本のポップスをカバーしたアルバム「SONGS?うたが街に流れていた?」が発売されました。

◆5月9日(金)
ヒートウェイブ  「ブギーナイツ」

アメリカ・オハイオ州出身のジョニー・ワイルダー、キース・ワイルダー兄弟によって結成された8人組ロックバンド・ヒートウェイブ。ジョニーがドイツで兵役についていたこともあって、イギリス人でキーボードのロッド・テンパートンなど、アメリカ、イギリス、ドイツ、チェコ、スペインといった人種混合の多国籍なバンドとして、ドイツで結成されます。
バンド名である"ヒートウェイブ"は、彼らが練習していたドイツの建物が夏でも暖房がついていて、一年中ものすごく暑かったところからきています。その後、活動の拠点をイギリスに移すと、1977年、アルバム『トゥ・ホット・トゥ・ハンドル』でデビュー。そして、この曲「ブギー・ナイツ」が全米2位の大ヒットとなり、続く「オールウェイズ・アンド・フォーエバー」もミリオン・ヒットを記録します。
セカンドアルバム『セントラル・ヒーティング』からも「グルーブ・ライン」がヒットしますが、ジョニー・ワイルダーが地元オハイオで、交通事故で重傷を負い、さらにほとんどの楽曲を作曲していたロッド・テンパートンが脱退したことで、1984年、ヒートウェイブは解散してしまいます。
その後、ジョニーは、ゴスペルシンガーに転身し、ロッドは、クインシー・ジョーンズお抱えの作曲家として、マイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」や「スリラー」を書いています。
また、ヒートウェイブもヒップホップ・アーティストに再評価され、1990年に一度再結成を果たしました。

PAGE TOP

サウンド オブ マイスター トップページ 玉川美沙たまなび INAX JOQR 文化放送 1134kHz 音とイメージの世界 SOUND OF MASTER サウンド オブ マイスター