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ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
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◆1月21日(月)
パット・ベネター  「ウィ・ビロング」

アメリカ、ニューヨーク出身のパット・ベネター。母親がオペラ歌手であったことから、オペラ歌手を目指しトレーニングを積むのですが、オペラの世界に馴染めずに、その夢を断念。ナイトクラブで歌っている所を、クリサリス・レーベルの創設者に実力を認められ、1979年、アルバム『真夜中の恋人たち』でデビューします。26歳でデビューと遅咲きでしたが、ギターのニール・ジェラルドの協力もあり、シングル「ハートブレイカー」がヒットし、その名前が知られるようになります。
全米2位を記録したセカンドアルバム『危険な恋人』からのシングル「強気で愛して」がトップ10に入るヒットとなり、第23回アカデミー賞では、最優秀女性ロック・ボーカル賞を獲得します。1983年の第26回アカデミー賞まで、4年連続でこの最優秀女性ロックボーカル賞を受賞し、アメリカン・ミュージック・アワードでは3年連続で最優秀女性ボーカル賞を獲得するなど、実力派女性ロックシンガーとしての地位を確立します。
この曲「ウィ・ビロング」は、1984年にリリースした6枚目のアルバム『トロピコ』からのヒット曲で、彼女自身最大のヒット曲となります。
その後、ギターのニールと結婚し、子供を出産し、育児のために休養に入りますが、1988年にアルバム『ワイド・アウェイク・イン・ドリームランド』で復帰。2人目の子供の出産・育児もあり、ゆったりしたペースで作品づくりに取り組むようになりますが、2003年、6年ぶりに『ゴー』というアルバムをリリースし話題になりました。

◆1月22日(火)
ばんばひろふみ  「サチコ」

立命館大学在学中に知り合ったメンバーと「ジャッケルズ」を結成し、プロデビューしたばんばひろふみ。その後、「ジャッケルズ」を脱退し、1971年に、今井ひろし、高山弘とともに「バンバン」を結成します。シングル「何もしないで」でデビューしますが、なかなかヒット曲に恵まれませんでしたが、1975年、高山が脱退した後リリースされた、荒井由実が作詞作曲を担当したシングル「いちご白書をもう一度」が、オリコンbPを獲得します。1977年に、「バンバン」は解散。翌年、「ばんばひろふみ&ホットスタッフ」として、シングル「最終フライト05便」でソロデビューします。
この曲「サチコ」は、1979年にリリースしたシングルで、100万枚を超すミリオンヒットとなりました。作詞を担当した小泉長一郎から歌詞を渡されたばんばひろふみが、新幹線の中の数分間で曲を作り上げたというエピソードが残っています。ばんばひろふみは、シンガー以外にも「セイヤング」といった、ラジオの深夜放送の黄金時代を築いた名パーソナリティとしても有名で、2004年にはNHKの連続テレビ小説「わかば」に俳優として出演するなど、幅広い活動を行っています。

◆1月23日(水)
グロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーン  「1、2,3」

キューバで生まれ、1歳の時にキューバ革命のために家族でアメリカのマイアミに亡命したグロリア・エステファン。奨学金を得てマイアミ大学に進学し、そこで、同じくキューバを追われた、エミリオ・エステファンと出会い、グロリアの音楽的才能に気づいたエミリオの説得で、マイアミ・ラテン・ボーイズというバンドに参加します。大学卒業後、そのエミリオと結婚し、本格的に音楽活動に専心するべく、バンド名をマイアミ・サウンド・マシーンに改めます。
そして、1980年にCBSと契約を結び、スペイン語のアルバムをリリースし、ラテン・アメリカ圏でその名が知られようになります。ラテン・ミュージックとダンス・ミュージックをポップにミックスし、1984年リリースした、初の英語でのシングル「ドクター・ビート」が、ヨーロッパと日本でブレイク。1985年、英語でのセカンドアルバム『プリミティブ・ラブ』から、「コンガ」、「バッド・ボーイ」がヒットし、世界的にブレイクします。この曲「1,2,3」は、3枚目のアルバム『レット・イット・ルース』からのシングルカットで、他に「エニシング・フォー・ユー」が、初の全米No.1シングルに輝き、このアルバムは、全世界で600万枚を超す大ヒットとなります。
順風満帆でしたが、1990年、ツアー・バスがトラックに追突され、グロリアは背骨を2箇所も折り、再起不能と危ぶまれます。しかし、必死のリハビリと強い精神力で、奇跡のカムバックを果たし、1993年、スペイン語のアルバム『ミ・ティエラ』が、グラミー賞ラテン部門の最優秀アルバム賞を獲得。アトランタオリンピックの公式賛歌「リーチ」を閉会式で歌い、全世界に感動を呼ぶなど、アメリカからラテン・アメリカ圏で最も成功したスーパースターといえます。
去年、エミリオが監督を務めた映画『90マイル』のサントラを担当し、アラブで初となるライブを、アラブ首長国連邦のドバイ国際映画祭で行なって、話題になりました。

◆1月24日(木)
小坂明子  「あなた」

父親が作曲家で著名な指揮者であったことから、3歳からピアノと戯れ、5歳でどんな曲でも弾きこなしてしまうという早熟の天才少女だった小坂明子。大阪音楽大学付属高校ピアノ科に進学し、2年生の時、授業中にノートの隅に書いたこの曲「あなた」を“ガロに会いたいから”という理由で応募したヤマハ「ポプコン」でグランプリを獲得。さらに世界歌謡祭でもグランプリを獲得し、わずか16歳でこの曲でデビューを果たします。オリコンのシングルチャートで1位を獲得するだけでなく、1ヵ月後には100万枚を超すセールスを記録し、1974年度、年間2位のミリオンヒットとなり、紅白歌合戦にも出場します。
セカンドシングル「もう一度」も10万枚を超すヒットとなるのですが、この「あなた」のインパクトがあまりも強すぎて、1983年までに通算5枚のアルバムと13枚のシングルをリリースしただけで、歌手活動をやめてしまいます、その後、結婚し、2人の子供に恵まれ、作曲家としての活動をスタート。
中森明菜、高橋真梨子などへ楽曲を提供したり、ミュージカル「セーラームーン」の音楽監督を担当するなど2000曲以上の楽曲を世に送り出します。おととしには、23年ぶりに『ピアニッシュ』というオリジナルアルバムをリリースし、歌手としても活動を再開させ、ツアーも行い、話題になりました。
この曲「あなた」は、現在までに200万枚超すセールスを記録。高校の国語の教科書にも掲載された国民的なヒット曲であり、南沙織、天地真理、チャラ、そして、徳永英明が『ボーカリストU』の中でカバーされています。

◆1月25日(金)
マンフレッド・マン  「ドゥ・ワー・ディディ・ディディ」

南アフリカ・ヨハネスブルグ出身のジャズ・ピアニスト“マンフレッド・マン”と、イギリス・アンドーバー出身のドラマー“マイク・ハグ”が、サマーキャンプで出会い、そこにボーカルのポール・ジョーンズを迎えて、マン・ハグ・ブルース・ブラザーズというバンドを結成。1963年に5人組編成になり、バンド名をリーダーの“マンフレッド・マン”に改めて、レコードデビューを果たします。
デビュー当時は、ジャズとリズム&ブルース路線が受け入れられませんでしたが、3枚めのシングル「5−4−3−2−1」がイギリス国内で初めてヒットし、この曲「ドゥ・ワー・ディディ・ディディ」は、イギリスのみならず、アメリカでもナンバー1に輝き、不動の人気を獲得します。
この曲はもともと男女混成のコーラスグループ「エクサイターズ」の曲でしたが、全く売れず、マンフレッド・マンがポップにアレンジした結果、大ヒットしたものです。その後も、ボブ・ディランのカバー「マイティ・クイン」がヒットしますが、メンバーチェンジが激しく、1969年にバンドは解散。その後、マンとハグは、マンフレッド・マン・チャプター・スリーを結成し、さらにマンフレッド・マンズ・アース・バンドとして、1977年に「光で目もくらみ」で、全米bPに輝きます。
1983年にはマーキークラブ25周年イベント出演のため、19年ぶりにオリジナルのマンフレッド・マンが再結成され、話題になりました。

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