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◆12月17日(月)
ニック・カーショウ 「ザ・リドル」
イギリス・ブリストル出身のニック・カーショウ。10代でギターを始めたニックは、ハイ・スクールに入ると、ハード・ロック・バンドを結成。78年、ジャズ・ファンク・バンド、「フュージョン」に参加し、プロとしてデビューします。その後、グループを脱退し、地道に作ったデモ・テープがレコード会社の目にとまり、83年にシングル「アイ・ウォント・レット・ザ・サン・ゴー・ダウン」でデビュー。84年セカンド・シングル「恋はせつなくが」がヒットし、一躍有名になります。
甘いルックスであったことからアイドル的な人気が高まり、85年にリリースした2枚目のアルバム「ザ・リドル」からのシングル、この曲「ザ・リドル」がヒットし、全英3位を記録します。
ニックは、その後2年間で全英チャート7曲連続トップ20ヒットを放ちますが、ポップ・アイドルとしての人気に疲れ切ったニックは、アイドルからの脱皮を計ろうとして、86年、自らプロデュースしたアルバム『ラジオ・ミュージコーラ』をリリース。セールス的には不振でしたが、ソングライターとして活動を始めるようになります。その後は、ジェネシスのトニー・バンクスやボーイ・ゾーンのローナン・キーティング、ブリトニー・スピアーズなどへ楽曲を提供し、売れっ子ソングライターとなっています。またエルトン・ジョンのツアーにギタリストとして参加するなど、裏方として活躍しながら、昨年、7枚目のオリジナルアルバムを『ユーブ・ガット・トゥ・ラフ』をリリースしています。
◆12月18日(火)
槇原敬之 「冬がはじまるよ」
高校時代に憧れの坂本龍一のラジオ番組でデモテープがかかったことがきっかけとなり、大学浪人中も音楽活動を続け、「アクシアミュージックオーデション'89」で、グランプリを受賞。90年シングル『エヌジー』とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューした槙原敬之。
91年3枚目のシングル『どんなときも。』が、映画『就職戦線異状なし』主題歌、ケンタッキーフライドチキンのCFソングになり、オリコンチャートで1位になり、160万枚を超す大ヒットとなります。この『冬がはじまるよ』は、91年リリースされた4枚目のシングルで、サッポロビール「冬物語」のCMソングにもなり、槇原敬之の人気を決定づけるヒット曲となります。
その後は「もう恋なんてしない」「NO.1」「スパイ」などのヒット曲を生み出し、去年リリースしたアルバム『ライフ・イン・ダウンタウン』で、アルバム総売上枚数が井上陽水を抜き、男性ソロ歴代1位となっています。
先月15枚目のオリジナルアルバム『悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。』をリリースし、16年ぶりに2度目の紅白歌合戦出場も決まりました。この曲は、先月エブリ・リトル・シングがサッポロ冬物語のCMソングとしてカバーしています。
◆12月19日(水)
レーナード・スキナード 「スィート・ホーム・アラバマ」
この曲「スィート・ホーム・アラバマ」のヒットからアメリカ、アラバマ州出身のロック・バンドと誤解されがちですが、実は、フロリダ州ジャクソンビル出身の6人組レーナード・スキナード。バンド名の由来は、事あるごとに彼らを呼びつけ「髪を切れ!」とうるさく言っていた体育教師レオナルド・スキナーの名前をもじってつけられています。
68年、バンドのコンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビュー、活動の拠点をアトランタに移した頃に「ジョリー」のヒット曲で知られているアル・クーパーに見い出されてアル・クーパーがプロデュースし、1973年にアルバム『レーナード・スキナード』でメジャー・デビューします。3人のギタリストで、アメリカ南部の土着なカントリーセンスとブルース感覚を融合した音楽性が注目され、このアルバムから「フリー・バード」がヒットします。
74年にセカンド・アルバム「セカンド・ヘルピング」をリリース。このアルバムからこの曲「スウィート・ホーム・アラバマ」がヒットし、レーナード・スキナードの名は一躍世界中に知れ渡ります。
実はこの曲は、ニール・ヤングが南部男を皮肉った曲「サザン・マン」に対するアンサー・ソングであったというエピソードもあります。77年に、飛行機事故によってメンバーを失うという悲劇に見舞われますが、90年代に入り、バンドは再結成。現在も精力的に活動しています。
◆12月20日(木)
甲斐バンド 「安奈」
甲斐よしひろ、長岡和弘、大森信和、松藤英男の4人からなる甲斐バンド。
高校時代から本格的に音楽活動を始め、1974年「第3回ハッピー・フォーク・コンテスト」で優勝した甲斐よしひろを中心に結成された甲斐バンドは、シングル「バス通り」でデビューします。
1975年にリリースしたセカンドシングル「裏切りの街角」が75万枚を超すセールスを記録し、一躍その名が知られるようになりました。1978年にリリースした「HERO/ヒーローになる時、それは今」が、初のナンバー1ヒットになり、180万枚を超す大ヒットとなって、日本のロックバンドとして確固たる地位を築きます。
この曲「安奈」は、1979年にリリースされたシングルで、この頃から甲斐バンドは、「箱根芦ノ湖畔」「大阪花園ラグビー場」「新宿副都心」といった、通常ライブが行われなかった場所でライブをし、1985年には両国国技館のこけら落としでミュージシャンとして初めてライブを行って話題になります。
しかし、1986年甲斐バンドは解散。
甲斐よしひろは、ソロとして、その後、カイ・ファイブとして活動を続けますが、1996年に期間限定で、甲斐バンドを再結成。2001年にも15年ぶりにアルバム『夏の轍』をリリースするなど、何度か再結成を行っていますが、今年12月12日には、品川ステラボールで一夜限りの復活ライブを行って話題になりました。
◆12月21日(金)
USA・フォー・アフリカ 「USA・フォー・アフリカ」
1984年にイギリスで、ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピア難民の飢餓救済のためのバンド・エイドが成功した事がきっかけとなって企画されたUSA・フォー・アフリカ。
まず、ハリー・ベラフォンテがライオネル・リッチーとケニー・ロジャースのマネージャーであるケン・クレイガンに連絡したことが発端となって、プロジェクトがスタートします。そして、ライオネル・リッチーからクインシー・ジョーンズへ、クインシーからマイケル・ジャクソンに話が伝わって、ライオネル・リッチーとマイケル・ジャクソンが作詞・作曲を手掛けます。
一方、ケン・クレイガンは、参加アーティストを募り、シンディ・ローパー、ダイアナ・ロス、ヒューイ・ルイス、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、スティービー・ワンダーといった錚々たるメンバー総勢45名が無償での参加を決めます。
まず、トトのスティーブ・ポーカロ、デビッド・ペイチといった6人のメンバーが、ベーシックなカラオケを作り、1985年1月28日にクインシー・ジョーンズの下で、45人のスーパースターが一堂に会し、この曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」のレコーデォングが行われました。
バンド名となったUSA・フォー・アフリカは、「ユナイテッド・サポート・オブ・アメリカ」の頭文字とアメリカ合衆国の略称のダブルミーニングで、世界的な話題を呼び、瞬く間に世界各国で、ナンバー1に輝きます。最終的には、アメリカだけでも750万枚のシングルセールスを記録し、シングル、アルバム、関連商品のすべての売り上げと、著作権料を合わせた6300万ドルは全額、アフリカ飢餓基金に寄付するという大プロジェクトになりました。
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