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◆12月3日(月)
フォーク・クルセダーズ 「悲しくてやりきれない」
龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌の読者欄に、バンドメンバーの募集をしたことで結成されたフォーク・クルセダーズ。結成当時は5人組でしたが、1967年、加藤和彦、北山(きたやま)修(おさむ)、平沼義男の3人となり、解散記念として「ハレンチ」というアルバムを自主制作します。しかし、「ハレンチ」の中に収められていた「帰って来たヨッパライ」と、「イムジン河」が関西のラジオ局を中心にオンエアされると、問い合わせが殺到し、この状況を察知したレコード会社がデビューの話を持ちかけます。解散を決意していたものの、レコード会社の説得によって、1年間という期間限定で、平沼の代わり、はしだのりひこをメンバーに加えて、1968年、「帰って来たヨッパライ」でデビューすると、180万枚というオリコン史上初のミリオンヒットを記録します。そして、セカンドシングルとしてリリースした「イムジン河」が、政治的理由で発売中止となり、1ヵ月後にこの「悲しくてやりきれない」をリリースし、大ヒットします。
「イムジン河」がリリース出来なくなったことで、次の曲をリリースせざるを得ない状況で、「イムジン河」を逆さまに弾いたら、この曲が出来たという、いわく付きの1曲となりましたが、その後、吉田拓郎、おおたか静流、奥田民生など、多くのアーティストにカバーされるヒット曲となります。
1年後にフォーク・クルセダーズは解散しますが、北山修は作詞家として、加藤和彦はソロに転向後、サディステック・ミカ・バンドを結成し、はしだのりひこは「シューベルツ」とともにヒット曲を生み出していきます。
そして、2002年には、はしだに代わって、THE ALFEEの坂崎幸之助がメンバーに加わり、期間限定ながら、フォーク・クルセダーズを再結成しました。
◆12月4日(火)
紙ふうせん 「冬が来る前に」
1967年に後藤悦治郎と平山泰代のデュエットに、後のハイ・ファイ・セットになる山本俊彦、新居潤子、大川茂の3人が加わって、赤い鳥を結成します。そして、1971年に「翼をください」が100万枚を超す大ヒットとなるのですが、音楽的な路線の違いが顕著になり、赤い鳥は1974年に解散。後藤悦治郎と平山泰代は夫婦デュオ・グループ・紙ふうせんを結成、赤い鳥時代よりもポピュラー色を強めたフォーク・ミュージックに向かっていきます。
この曲「冬が来る前に」は1977年にリリースしたシングルで、この年のレコード売り上げの年間2位を記録します。夫婦ならではの美しいハーモニーで武器に人気を集め、トップグループの地位を確立していき、1998年には、赤い鳥時代にヒットした「翼をください」の新バージョンが日本サッカー協会のオフィシャル応援歌になりました。
◆12月5日(水)
高石ともや 「受験生ブルース」
日本のフォーク・ソングの歴史を辿っていくと、いやおうなく辿り着いてしまうといわれている日本のフォークの源流、高石ともや。大学に入学したものの、学費を稼ぐために住み込みで働いている時に、ギターに出会い、アメリカのフォークソングを元に日本語のフォークを歌うようになります。
1966年の「フォーク・フォーク・フォーク」というコンサートに飛び入りで参加し、そこで、見出されて「かごの鳥ブルース」でデビューします。そして、全国の労働組合や反戦集会、フォーク・ソング・コンサートで歌うようになると、急激に支援者が増え、1968年にこの曲「受験生ブルース」が大ヒットします。
また、自ら音楽事務所を設立し、岡林信康をはじめ、フォーク・クルセダーズ、中川五郎、高田渡などが所属し、フォークの一大拠点となりました。しかし、反戦運動、学生運動と共にメッセージ・フォークを歌う生活に疲れ、1969年の冬眠コンサートを最後に音楽活動を休止し、アメリカに渡ってしまいます。帰国後は、ナターシャ・セブンを結成し、音楽活動を再開するだけでなく、30代でマラソンを、40代でトライアスロンをはじめ「シンガー・ソング・ランナー」として脚光を集めています。
◆12月6日(木)
シモンズ 「恋人もいないのに」
田中ユミと、玉井タエの2人からなる女性デュオ、シモンズ。このシモンズという名前は、2人が大ファンだった―「サイモン&ガーファンクル」のサイモン(SIMON)に由来しています。2人は、高校時代からデュエットを結成し、ベッツー&クリスのカバー曲などを歌って、ライブ活動を行うようになります。
そして、毎日放送のオーディションで優勝したことがきっかけとなり、1971年、この曲「恋人もいないのに」でデビューします。本当は、「あの素晴らしい愛をもう一度で」がデビュー曲になる予定で、話が進んでいたのですが、北山修と加藤和彦が歌うことになってしまい、急遽、この曲でデビューすることになります。ところが、60万枚を超す大ヒットとなって、この年の日本レコード大賞新人賞を受賞します。その後も「ひとつぶの涙」「ふりむかないで」などをヒットさせますが、100曲以上のCMソングを歌い、特に明治製菓チェルシーのCMソングが有名になりました。
しかし、人気絶頂の1974年に、玉井タエが結婚したことで解散。田中ユミはソロ活動に入りますが、1996年、元ジャネッツの青木まり子と新生シモンズを結成します。
1999年に一度解散しますが、2006年に新生シモンズを再結成して、活動をしています。
◆12月7日(金)
山本コータローとウィークエンド 「岬めぐり」
山本コータローは、大学在学中に、幼なじみの4人でソルティー・シュガーを結成し、シングル「ああ大学生」でデビュー。1970年にリリースしたセカンドシングル「走れコータロー」がオリコン1位に輝き、日本レコード大賞新人賞を獲得します。
中央競馬に在籍し、2着か3着になる“コウタロー”という競走馬をイメージして作られた曲でしたが、山本コータローがいつもバンド練習に遅刻してくることから、このタイトルになったというエピソードがあります。
その山本コータローが、ソルティー・シュガー解散後、森一美、板垣秀雄とともに作ったのが『山本コータローとウィークエンド』。1974年、この曲「岬めぐり」でデビューし、大ヒットします。
1978年にウィークエンドは解散しますが、2005年、一部メンバーを変えて、『山本コータローとほぼウィークエンド』として再結成し、今年ニューアルバムをリリースしました。
また、音楽活動の傍らでテレビ番組の司会・タレントとしても活躍し、最近は、白鴎大学教授としても教鞭をとるなど幅広く活動しています。
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