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◆9月3日(月)
ジョン・ウェイト 「ミッシング・ユー」
イギリス、ランカスター出身のジョン・ウェイト。アートスクールで美術を専攻していたのですが、ベースやハーモニカに興味を持ち、いくつかのバンドを経て、ベイビーズを結成します。ベイビーズでリード・ボーカル兼ベースを担当、「愛の出発」「ときめきの彼方へ」等がヒットしますが、1980年ベイビーズは解散してしまいます。そして彼は1982年にシングル曲「チェンジ」でソロとしてデビューします。
この曲「ミッシング・ユー」は、1984年に発表した2枚目のアルバム『ノー・ブレイクス』からのシングル曲。ジョン・ウェイトは、アメリカを活動の拠点したことで、イギリスの恋人と別れることになってしまいます。その恋人への思いをミディアム・テンポのこの曲に託して歌ったところ、アメリカで火がつき、特にMTVで、この曲のプロモーションビデオが何度も放映され、初の全米1に輝きます。
その後、2枚のアルバムをリリースしますが、90年代に入ると、元ベイビーズの仲間でジャーニーへ引き抜かれてしまったジョナサン・ケインとバッド・イングリッシュを結成し、再び全米1に輝きます。
ただ、バッド・イングリッシュで2枚のアルバムをリリースするのですが、解散してしまい、95年から再びソロとして活動しています。
◆9月4日(火)
キックス 「また逢える」
ボーカルの浜口司とギターの安宅美春の女性2人組ユニット、キックス。
安宅美春は、1990年にB'zの松本孝弘プロデュースのもと、「孤独のランナウェイ」で日本初の女性ギタリストとしてソロデビューしていました。1991年に浜口司と女性ロックグループ、キックスを結成し、ミニアルバム「キックス」でデビューします。
この曲「また逢える」は、翌92年にリリースした1STシングルで、吉田栄作主演のドラマ「君のためにできること」の主題歌として、大ヒットします。
その後、キックスは、1998年に活動を停止し、ボーカルの浜口司は、ミュージカル「レント」にミミ役で出演するなど、ソロとして活動し、ギターの安宅美春は、バンディ・アミールやオギャーといったバンドで活動します。
そして、2004年、キックス活動再開という形で、ベースとドラムを加えた4人編成で、K-SEEDを結成し、復活ライブを行いましたが、再び活動停止となってしまい、現在は無期限の活動休止状態となっています。
◆9月5日(水)
J.D.サウザー 「ユア・オンリー・ロンリー」
アメリカ、デトロイト出身のJ.D.サウザー。同じデトロイト出身のグレン・フライと親交があったことから、1969年、グレン・フライと共にロングブランチ・ペニーウィッスルというデュオ・グループでデビューしますが、成功を収めることなく、解散してしまいます。
その後、ソロとしてデビューしますが、こちらもパッとせず、1974年、元バーズのクリス・ヒルマン、元ポコのリッチー・フューレイと共に、サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成し、「素晴らしき恋」がヒットします。
しかし、このバンドも長続きせず、再びソロアーティストとして活動します。ソロに転向してからは、リンダ・ロンシュタットやジャクソン・ブラウン、イーグルスに楽曲を提供し、1970年代のウエスト・コースト・サウンドを支えるようになります。特にグレン・フライとバンドを結成していたこともあって、イーグルスとは深い関わりがあり、イーグルスの「我が愛の至上」「ニュー・キッド・イン・タウン」「ハートエック・トゥナイト」といったヒット曲の作曲を手掛け、6人目のイーグルスと呼ばれ、注目を集めます。
この曲「ユア・オンリー・ロンリー」は、1979年にJ.D.サウザーのソロとして初めてヒットした楽曲で、シンガーソングライターとしてのJ.D.サウザーの名前を高めます。
日本では、映画『波の数だけ抱きしめて』の挿入歌として起用されたり、三菱アウトランダーのCMソングに使われるなど人気の高い楽曲になっています。
90年代に入ると、歌手としてよりも、映画「マイ・ガール2」の父親役で出演するなど、俳優としての活動が目立つようになったJ.D.サウザー。
10月にリリースされるイーグルスのニューシングル「ハウ・ロング」では、作曲を担当していて、再び注目が集まっています。
◆9月6日(木)
加山雄三 「君といつまでも」
人気俳優上原謙と女優小桜葉子の長男として生まれた加山雄三。役者に興味がなく、慶応大学卒業後1960年に東宝に就職しますが、その年に「男対男」で映画に出演する事になり、俳優としてデビューします。続く「独立愚連隊西へ」で初主演を果たすと、彼の代名詞ともいえる「若大将」シリーズが大ヒットし、東宝の看板スターとして活躍します。また、黒澤明や岡本喜八といった名匠の作品にも出演、時代を代表するトップスターとしての地位を確立します。
一方で、1961年に「夜の太陽」で歌手としてデビューすると、大学時代からギタリストとしてダンスホールなどで演奏していた実績から楽曲も手掛けるようになります。
この曲「君といつまでも」は、彼が作曲した曲で、1965年に公開された映画『エレキの若大将』の主題歌として発売され、350万枚を超す大ヒットとなり、1966年の日本レコード大賞で特別賞を受賞します。当時のエレキ・ブームと共に、ベンチャーズ・スタイルのランチャーズを率いてギターを弾く姿に憧れを抱く若者も増え、ギタリストとしてスポットを浴びるようになります。
その後「嫁においで」といったヒット曲の楽曲も手掛け、シンガーソングライターの草分け的存在として注目を集め、また日本で初めて一人多重録音を手掛け、音楽的先駆者ぶりも発揮します。
そして、演技、歌、ギター、作曲だけでなく、スキーや水泳、絵画、そして、船の設計に至るまでマルチな才能を発揮していきます。
今年、70歳を迎えましたが、7月に10年ぶりに『星の旅人』というオリジナルアルバムをリリース、70歳と言うことで「古希」ツアーも進行中で精力的に全国をめぐっています。
◆9月7日(金)
ジョージ・ベンソン 「ギブ・ミー・ザ・ナイト」
アメリカ、ピッツバーグ出身のジョージ・ベンソン。養父がギタリストであったことで、幼い頃からギターを学び、チャーリー・クリスチャンやウェス・モンゴメリーといったジャズ・ギタリストをコピーするようになり、わずか11歳で初のレコーディングに参加します。そして、優れた音楽性と完璧なテクニックを持つギタリストとして、19歳でプロデビューします。
1964年に初のリーダー作となる『ザ・ニュー・ボス・ギター』というアルバムを発表し、注目を集めると、マイルス・デイビスのレコーディングにも参加するようになります。さらに、ウェス・モンゴメリーが亡くなると、彼の代役としてレコーディングに参加し、純粋なジャズ・ギタリストして、名を馳せるようになります。
しかし、70年代のフュージョン全盛時代には、ディスコとアダルト・コンテンポラリーといったその時代の流行のサウンドを取り入れるようになります。特にプロデューサーのトミー・リピューマとがっちり組んだ1976年のアルバム『ブリージン』では、ボーカルにも本腰を入れるようになり、ミリオン・セールスを記録するだけでなく、その年のグラミー賞において2部門を受賞し、時代の寵児となります。
この曲「ギブ・ミー・ザ・ナイト」は、1980年にクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えて大ヒットした作品で、ジャズはもとより、ブラック・コンテンポラリー、R&B、ポップスのヒットメーカーとしての不動の地位を確立します。
その後も、大物プロデューサーとタッグを組んで、ヒット曲を放ち、8度のグラミー賞に輝きます。
最近では、彼の原点であるギタリストとしての魅力を押し出した作品を発表しており、去年は、大御所アル・ジャロウをボーカルに迎えた『ギヴィン・イット・アップ』をリリースし、話題になりました。
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