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◆7月23日(月)
カーリー・サイモン 「うつろな愛」
ニューヨーク出身のカーリー・サイモンは、19歳の時に姉のルーシーとフォーク・デュオ、サイモン・シスターズを結成し、3枚アルバムをリリースするのですが、成功を収めることが出来ず、解散してしまいます。
そして、1971年、アルバム『カーリー・サイモン』でソロデビューを果たし、女性の繊細な気持ちを歌った「幸せのノクターン」がヒット、ちょうど70年代のシンガーソングライター・ブームにのり、一躍注目を集めます。
この曲「うつろな愛」は、3枚目のアルバム『ノー・シークレット』からのシングル・カットで、カーリーにとって初の全米ナンバー1シングルに輝きます。この曲にはローリング・ストーンズのミック・ジャガーがバックコーラスで参加しているのですが、カーリーがレコーディングしている時に、ミックが電話をしてきて歌わせてほしいと言って飛び入り参加したというエピソードがあります。
恋多き女性として数々の浮き名も流しているカーリーですが、この年ジェームス・テイラーと結婚し、お互いのアルバムの中でデュエットするなど、ロック界のおしどり夫婦として知られるようになり、2人の子供にも恵まれます。その後、映画007シリーズ10作目「私を愛したスパイ」の主題歌や映画『ワーキング・ガール』の主題歌「レット・ザ・リバー・ラン」などをヒットさせますが、1983年にジェームス・テイラーと離婚してから、ヒット曲に恵まれなくなります。それでも、女性であることの意義を一貫して歌い続け、2005年には、スタンダード曲のカバーアルバムをリリースし、「ムーンライト・セレナーデ」がヒットし、今年1月にも『イントゥ・ホワイト』というカバー・アルバムもリリースしています。
◆7月24日(火)
山下久美子 「赤道小町ドキッ」
80年代、その熱狂的なパフォーマンスから「総立ちの女王」と呼ばれた山下久美子。1980年に「バスルームから愛をこめて」でデビューし、1982年に発表した6枚目のシングル「赤道小町ドキッ」が大ヒットし、女性ロック・ボーカリストの草分け的存在として人気を博します。
1985年にはボウイのギタリストだった布袋寅泰と結婚し、二人三脚での活動が話題を呼びます。その後、ライブ活動を休止し、俳優としてドラマに出演しますが、90年代に入り、海外レコーディングやセルフ・プロデュースといった新たな展開を見せます。
2000年にデビュー20周年を迎え、多くのゲストを迎えたセルフ・カバーアルバムをリリースし、20周年記念ライブを成功させますが、その時に突然シングルマザー宣言をし、その後、双子の姉妹を出産し、世間を驚かせます。
さらに2005年には、忌野清志郎、佐野元春、吉川晃司、宮沢和史、大沢誉志幸などの豪華ボーカリストたちと初の全楽曲デュエットアルバム『デュエット』をリリースし、話題になりました。
◆7月25日(水)
メン・アット・ワーク 「ノックは夜中に」
オーストラリア、メルボルンのラトルーブ大学の学生だったコリン・ジェイムス・ヘイとロン・ストライカートを中心に1979年に結成された5人組バンド、メン・アット・ワーク。
地元メルボルンのホテルのパブで、専属バンドとして活動していたところを、レコード会社のスカウトに認められて、1982年にアルバム『ワーク・ソングス』でデビューします。この曲「ノックは夜中に」は、そのアルバムからのデビュー曲で、アルバムと共にオーストラリアで1を獲得し、大ヒットしたことから、フリートウッド・マックの全米ツアーのサポートを務めることになります。
さらにMTVに出演したことで、この曲は、ビルボードのシングルチャートでも1に輝き、アルバム『ワーク・ソングス』も15週連続1になり、一躍オーストラリアを代表するバンドとして注目されます。さらに自分たちの国オーストラリアが北半球の地図では下側にあると自虐的に歌った「ダウン・アンダー」という曲も1に輝き、1983年のグラミー賞で最優秀新人賞を獲得します。
その後、2枚のアルバムをリリースし、3枚のアルバムは全世界で1200万枚以上のセールスを記録しますが、2人のメンバーが脱退。また、コリンがソロ活動を始めたことで、バンドは活動停止状態になってしまいます。しかし、1996年、97年にワールド・ツアーを行ない、1998年にはアルバム『ブラジル』をリリース。
ワールド・ツアーも行ない、日本にも来日し往年のファンを喜ばせてくれました。さらに2000年にはシドニー・オリンピックの閉会式でライブ・パフォーマンスを行い、健在ぶりをアピールしてくれました。
◆7月26日(木)
中西圭三 「ウーマン」
大学在学中から音楽活動を始めていた中西圭三は、卒業後、同じ大学の先輩である池田聡のバックコーラスとして、ツアーに参加します。
はじめ、中山美穂やウィンクなどへ楽曲を提供し、作曲家として音楽家のキャリアをスタートさせますが、ZOOに書いた「チュー・チュー・トレイン」がヒットしたことで、注目を集め、1991年、シングル「タンジェリン・スカイ」で歌手としてデビューします。
この曲「ウーマン」は、1992年にリリースした3枚目のシングルで、シンガー中西圭三としての出世作となり、大ヒットします。また中西は、この曲で日本レコード大賞作曲賞を受賞すると共に、紅白歌合戦にも初出場を果たします。
この曲は、「カメリアダイアモンド」のCMソングというタイアップが急遽決まったことで、CMのイメージに合わせて、歌詞の内容を「前向きな女性を応援する思い」に書き換えたというエピソードも残っていますが、中西が伸びやかなハイトーンボイスで爽やかに歌い上げています。
1994年には、池田聡、伊秩弘将、吉岡忍とともにアイス・ボックスというユニットを結成し、「キスが冷たいよ」などのヒットも放ちます。また、ブラック・ビスケッツの「タイミング」などのヒット曲も生み出し、作曲家としての評価を一段と高め、最近では「おかあさんと一緒」の「ぱわわぷたいそう」のメインボーカルを担当、大人から子供まで愛されています。
◆7月27日(金)
アニマルズ 「朝日のあたる家」
1963年、イギリス、ニューキャッスルで、ボーカルのエリック・バートン、キーボードのアラン・プライス、ギターのヒルトン・バレンタイン、ベースのチャス・チャンドラー、ドラムのジョン・スティールの5人で結成されたアニマルズ。エリックの激しくシャウトするソウルフルなボーカルとアランのうねるようなワイルドなオルガンが2枚看板となって、たちまち地元のクラブで話題になり、「ベイビー・レット・ミー・テイク・ユー・ホーム」でデビューします。
この曲「朝日のあたる家」は、アニマルズのセカンドシングルで、本国イギリスだけでなく、アメリカでも1に輝き、500万枚のセールスを記録する大ヒットとなります。この曲は、もともとは、アメリカ、ケンタッキー州に古くから伝わる民謡で、ボブ・ディランもデビューアルバムでフォークソングとして取り上げていましたが、アニマルズは、ボブ・ディラン・バージョンを元にブルース色を強めてカバーし、大ヒットしました。
その後も、ニーナ・シモンの「悲しき願い」や、サム・クックの「孤独な叫び」をカバーしヒット曲を生み出しましたが、アランが飛行機で移動するツアー生活に耐えられないとバンドを脱退したことがきっかけで、他のメンバーも次々と脱退、バンドは解散状態になってしまいます。
そして、1966年にエリック・バートン&アニマルズという名前で再デビューしますが、再び解散。1998年にエリック・バートンのソロ・プロジェクトとして、新たにエリック・バートン&ニュー・アニマルズとして活動を再開しています。
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