番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT
◆5月7日(月)
ロクセット 「ふたりのときめき」

バンドが解散したばかりで、ソロ活動を始めたばかりのギター、ペール・ゲッセルが、スウェーデンでも有名な女性シンガーのマリー・フレデリクリンを誘い、実験的なプロジェクトとして1984年にスタートしたロクセット。
1986年にイギリスのパンクバンド、ドクター・フィールグッドの収録曲の女の子の名前から「ロクセット」と名乗り、「ネバーエンディング・ラブ」という曲でデビューし、本国スウェーデンでヒットします。
そして、ファーストアルバム『パールズ・オブ・パッション』、セカンドアルバム『ルック・シャープ』が続け様にヒットし、瞬く間に国民的なグループになります。そして、スウェーデンに留学していたアメリカ人の留学生が、ミネアポリスに戻った時、ラジオ局にセカンドアルバム『ルック・シャープ』に収録されていた「ルック」という曲を持ち込んでオンエアしたところ、リクエストが殺到し、全米に飛び火して、1989年にビルボードのシングルチャートでナンバー1に輝きます。
ロクセットは、その後も、デビューアルバムから「リッスン・トゥ・ユア・ハート」、映画『プリティ・ウーマン』のサントラから「愛のぬくもり」が続けて全米1位になり、一躍世界的なバンドになります。
この曲は、1991年にリリースした3枚目のアルバム『ジョイライド』からのシングル曲で、4作目の全米ナンバー1に輝くだけでなく、ワールドツアーも大成功を収めます。その後も、コンスタントにアルバムをリリースするのですが、2002年にマリーが脳に腫瘍を患ったために、音楽活動を休止させます。
しかし、マリーが回復し、お互いにそれぞれのソロ・アルバムをリリースした後、去年、デビュー20周年を記念したベストアルバムをリリースし、その中に新曲が2曲収録されて世界中のファンを喜ばせてくれました。

◆5月8日(火)
1986オメガトライブ  「君は1000%」

プロデューサーである藤田浩一氏の元で、1983年に「杉山清貴&オメガトライブ」としてデビュー。「二人の夏物語」「君のハートはマリンブルー」などのヒット曲を生み出します。
しかし、1985年に藤田浩一氏とメンバーの方向性の違いで、「杉山清貴&オメガトライブ」は解散をしてしまいます。
そんな時、プロデューサー藤田の元に、日系ブラジル人主催ののど自慢コンテストで西城秀樹の「ブルー・スカイ・ブルー」を歌って優勝したカルロス・トシキのデモテープが届き、解散したばかりのオメガトライブ・ギター高島信二とキーボード西原俊次が紹介されて、カルロス・トシキを新しいボーカルに迎えた「1986オメガトライブ」が結成されます。そして、この曲「君は1000%」でデビュー、テレビドラマ「新・熱中時代宣言」の主題歌としてヒットします。
その後、バンド名を「カルロス・トシキ&オメガトライブ」に変更しますが、カロス・トシキの甘いマスクとさわやかな歌声が若い女性を中心に幅広い層で支持され、夏、海、リゾートをテーマとしたジャパニーズ・シティ・ポップスの最先端作品を生み出します。
しかし、1991年にカルロス・トシキ&オメガトライブは解散、カルロス・トシキはソロ活動をスタートさせ、95年には鷹橋敏輝に改名し活動していましたが、病気で音楽活動を休止。現在は、ブラジルに戻って、レストランを経営しています。

◆5月9日(水)
フィリップ・ベイリー 「イージー・ラバー」

コロラド州デンバー出身で、10代の頃から地元のローカル・バンドのボーカリスト兼パーカッショニストとして活動していましたが、1971年にモーリス・ホワイトに出会い、1972年にアース、ウィンド&ファイヤーのリード・ボーカルとして、そのファルセット・ボイスを如何なく発揮し、モーリスとの強力なハーモニーを完成させて、「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ブギー・ワンダーランド」「レッツ・グルーブ」といったヒット曲を世に送り出します。80年代に入ると、新たな可能性を探るべくソロ活動も開始し、1983年ソロアルバム『アナザー・フェイス』をリリース。
そして、1984年にジェネシスのドラム、フィル・コリンズをプロデューサーに迎えてセカンドアルバム『チャイニーズ・ウォール』をリリースします。
この曲は、そのアルバムからのヒット曲で、フィル・コリンズとの夢のデュエットも実現。フィリップ・ベイリーのファルセット・ボイスとフィル・コリンズの力強い歌声が見事にはまって全米で2位、イギリスでは見事1に輝き、ソロ・アーティストとしても成功を収めます。
1990年代の後半からは、パーキンソン病を患って第一線から退いたモーリス・ホワイトに代わり、アース、ウィンド&ファイヤーを支えながら、ソロ活動と平行して行っており、ゴスペルやジャズといった幅広い音楽のジャンルで成功を収めています。

◆5月10日(木)
カルメン・マキ 「時には母のない子のように」

アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたカルメン・マキは、都内のミッションスクールを2年で中退し、イラストレーターか、役者になろうかと考えていた時に、寺山修二が主宰する劇団の舞台に感銘を受けて、この劇団に入団します。ここ、スペインのダンサーのように赤いバラをかざして踊っていた時に、「カルメン・マキ」という名前がひらめいて、芸名にすることにしたそうです。
そして、初舞台のときに、CBSソニーのディレクターの目に止まって、歌手としてスカウトされ、1969年、17歳で、寺山修二が作詞を担当したこの曲、「時には母のない子のように」でデビューします。
とても17歳とは思えないような雰囲気と歌唱力、そして、投げやりな歌い方が話題を呼んで、オリコン2位という大ヒットを記録、その年の年末には紅白歌合戦の出場も果たします。
ちょうどこの時、東大の安田講堂事件があり、反戦・安保闘争、学園紛争が激化し、この曲は、バリケードの中で学生達が聴く子守唄と呼ばれ、100万枚を超すヒットを記録します。そして、その100万枚突破記念イベントの時、CBSソニーの社長からジャニス・ジョプリンのレコードをプレゼントされ、これを聞いて、ロックに目覚めます。
その後も個性派歌手として6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースしますが、ロックへの情熱は抑えられず、1972年、「カルメン・マキ&OZ」を結成。
「午前1時のスケッチ」でデビューし、高い音楽性と完成度、そして、カルメン・マキの歌唱力が評価され、日本初の女性ロック・シンガーとして、絶大な人気を誇り、日本のロック史上に大きな足跡を残します。
その後、バンドは解散し、出産そして育児に専念するために音楽活動を休止させますが、1993年に10年ぶりに再開させ、この曲をセルフ・カバーしました。現在は、全国各地のライブハウスを中心に精力的にライブ活動を行っています。

◆5月11日(金)
アレサ・フランクリン 「チェイン・オブ・フールズ」

「ソウルの女王」の異名を持ち、女性では最多17回のグラミー賞受賞を誇り、1987年に女性として初めて、ロックの殿堂入りを果たしたアレサ・フランクリン。
父親はアメリカ中をくまなく回る牧師で、母親は有名なゴスペルシンガーという家庭環境であったことから、子供の頃から教会でゴスペルを歌い、天才少女として評判を呼びます。そして、1960年コロンビアレコードのジョン・ハモンドに見出され、「ビリー・ホリディ以来最高の歌手」という触れ込みで、デビュー。
しかし、ゴスペル・フィーリングを全面に出さなかったことが、才能をくすぶらせ、不本意な時期を過ごすことになります。
その後1967年、アトランティック・レコードに移籍、ゴスペルで鍛えたソウルフルな声で「あなただけを愛して」をリリースすると、ビルボードのR&Bチャートで1位を獲得、さらに続けてリリースしたオーティス・レディングのカバー曲「リスペクト」が全米チャートを制覇し、瞬く間に「ソウルの女王」としての地位を築き上げます。
この曲「チェイン・オブ・フールズ」は、アトランティックからリリースした3枚目のアルバム『ソウル・レディ』からのヒット曲で、全米チャート2位となるなど、彼女を代表する1曲になっています。
彼女は次々とヒット曲を世に送り出し、1967年から74年まで8年連続グラミー賞の最優秀女性R&Bに選ばれるなど黄金期を迎えていきました。 そして、2003年にアルバム『ソー・デム・ハッピー』をリリースし、引退を表明。
しかし最近は、その引退宣言を撤回して65才ながら精力的にライブを行っています。

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