番組について
ONAIR REPORT
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◆今までの永遠のメロディ
   
PART2 永遠のメロディー
ONAIR REPORT
◆4月2日(月)
ローリング・ストーンズ 「スタート・ミー・アップ」

1962年にイギリスのロンドンで結成され、40年以上も第一線で活動する世界的ロックバンド。結成当時のメンバーは、ミック・ジャガー、ブライアン・ジョーンズ、キース・リチャーズ、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツの5人で、シカゴ・ブルースの巨匠マディ・ウォーターズの作品「ローリン・ストーン」にちなんでバンド名を命名しています。イギリス出身の白人グループながら、黒人のブルースに音楽的ルーツを持ち、いかにブラック・ミュージックに近づけるかというのが大きな目標になっていました。彼らは、1963年、チャック・ベリーのカバー曲「カモン」でデビュー。そして、イギリスでビートルズの『ウィズ・ア・ビートルズ』を蹴落として、1STアルバム『ローリング・ストーンズ』は、2週連続1位を獲得します。
1965年、ついにミックとキースの共作「サティスファクション」が全米で初めて1位を獲得し世界的な成功を収めます。
ダーティなイメージが逆に世界中のロック・ファンの心つかみ、大ヒットを飛ばすのですが、私生活でスキャンダラスな話題が多くなります。
1969年にブライアン・ジョーンズが脱退を表明し、ミック・テイラーが加入しますが、そのブライアンがプールで謎の死を遂げたり、ミック・ジャガーとキースがドラッグで逮捕されてしまいます。70年代に入ると、世界最高のロックバンドの名を欲しいままに、度肝を抜くようなステージで観客を魅了し続けますが、またもやメンバーチェンジでミック・テイラーが脱退、ロン・ウッドが新たに加わります。
そして、1981年、ミック・ジャガーが80年代のストーンズを代表する曲として挙げたこの曲「スタート・ミー・アップ」をリリース、ストーンズのカリスマ性はますます高まっていきます。しかし、この頃からミックとキースの確執が表面化し、メンバーは各々ソロ活動をするようになってしまいます。それでも1989年にアルバム『スティール・ホイールス』を出すとワールド・ツアーを行い、1990年に念願の初来日を果たします。去年も、8年ぶりのアルバム『ア・ビガー・バン』を引っさげて、5度目の来日公演を行なうなど、今なお現役で活躍しています。

◆4月3日(火)
小林明子  「恋におちて」

1984年にブレッド&バターの「ムーン・アイズ」で作家としてデビューした小林明子ですが、1985年にこの曲「恋におちて」でシンガーデビューを果たします。
この曲ももともと他のアーティストに書いた曲だったのですが、小林明子の歌声がカーペンターズのボーカル、カレン・カーペンターに似ていたこともあって、プロデューサーの思いつきで本人が歌うことになります。
この曲は、社会現象化したドラマ「金曜日の妻たちへ」の主題歌になり、ドラマとともに大ヒットし、1985年の日本レコード大賞新人賞、作曲奨励賞などを受賞します。
その後、カーペンターズのリチャード・カーペンターズとコラボレーションをしたり、音楽の拠点をロンドンに移し、元ジャパンのスティーブ・ジョンセン、ミック・カーンとアルバムをリリースするな幅広い活動を続けています。
この曲は、1980年代の名曲のひとつとして親しまれており、30代以上の人にはカラオケの定番として歌われています。

◆4月4日(水)
フリオ・イグレシアス 「ビギン・ザ・ビギン」

スペイン、ガリシア州出身のフリオ・イグレシアスは、若い頃優秀なスポーツ選手として、スペインの名門サッカークラブ、レアル・マドリードのゴール・キーパーをしていました。ところが、19歳のときに自動車事故で、瀕死の重傷を負ってしまいます。その事故が原因で、彼の体には後遺症が残ってしまい、サッカーの道は断念せざるを得なくなってしまいました。
3年間の過酷なリハビリの間、担当医のアシスタントが気晴らしになればということで、ギターをプレゼントしてくれます。これがきっかけとなって、作曲を始めるようになり、体が回復した後、一時は法律を学んだりするのですが、音楽の道を志すようになります。
コール・ポーターが作ったこの曲「ビギン・ザ・ビギン」は、イタリアで開かれるフェスティバルに向かう途中の車の中でフリオがたまたま聞いて、自分も歌わなくてはと思い立ち、曲をカバー。それが1982年にイギリスで、初のナンバー1になります。
その後、1984年に初めて英語によるアルバム『ベル・エアー1100』を発売するのですが、甘いボーカルとエモーショナルなメロディ、スケール感たっぷりなサウンドが話題になり、全世界で750万枚を超すセールスを記録。
フリオ・イグレシアスは、元祖ラテンの貴公子として全世界でのトータルCDセールス数が2億2000万枚を超え、スペインが生んだ最高のエンターテイナーとして成功を収めています。

◆4月5日(木)
泉谷しげる 「春夏秋冬」

岡林信康に影響を受けて、フォークシンガーを目指した泉谷しげるは、1971年にエレック・レコードからライブアルバム『泉谷しげる登場』でデビューを果たします。この曲「春夏秋冬」は、1972年にリリースしたセカンドアルバム『春夏秋冬』からのシングル曲で、泉谷しげるを代表する1曲になります。このアルバムは、サディスティック・ミカ・バンドで知られる加藤和彦がディレクター、アレンジャーとして参加しており、バックには加藤和彦の他に、高中正義、つのだひろが名を連ねています。
その後、泉谷しげるは1975年に吉田拓郎・小室等・井上陽水と共にミュージシャンによる初のレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立し、フォーク界全体をリードする存在として活躍し続けます。
また、1979年にはドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』の犯人役で、俳優として、その個性的な演技が評価され、芸術祭優秀賞を受賞。その後、数多くのテレビドラマや映画に出演しています。
また、インディペンデント映画の監督も務めるなど、幅広い活動をしています。「毒舌コメンテイター」「暴走アーティスト」のイメージが強い泉谷ですが、「一人フォークゲリラ」と題して、ギター一本で北海道・奥尻島救済ライブ、長崎・普賢岳噴火災害救済ライブ、阪神・淡路大震災救済ライブを街頭で行い、義援金を集め、その活動に賛同したアーティストによるチャリーティライブも行われるなど、アーティストからの人望があります。

◆4月6日(金)
ベイ・シティ・ローラーズ 「サタデー・ナイト」

スコットランド、エジンバラ出身の5人組、ベイ・シティ・ローラーズ。
前身は、アランとデレクのロングミュアー兄弟を中心に結成されたサクソンズで、1971年ベイ・シティ・ローラーズとしてシングル「朝まで踊ろう」でデビューします。
このベイ・シティ・ローラーズという名前は、アメリカの地図に適当にピンを投げて刺さった地名がミシガン州のベイシティだったことから来ていますが、タータンチェックにツンツン頭といういでたちで、ポップ・アイドル・グループとしてイギリスで人気を博します。
幾度かメンバーチェンジが行われ、アランとデレクのロングミュアー兄弟の2人に、ギターのエリック・フォークナーが加わり、リード・ボーカルにレスリー・マッコーエン、サイドギターにスチュワート・ウッドが加わった5人編成の1974年からその人気は世界的に爆発します。
第2のビートルズとして注目を集め、「タータン・ハリケーン」と呼ばれる熱狂的な社会現象を巻き起こしますが、この曲は、最盛期を迎えた1976年に発表され、全米で初めてのナンバー1を獲得し、大ヒットします。
日本のヒットチャートも席巻し、何度か来日を果たしますが、その後、メンバーチェンジが激しく1981年に解散しています。



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