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◆11月6日(月)
ホリーズ 「バス・ストップ」
ホリーズは、イギリス・マンチェスターが生んだロック・グループ。リーダーのグラハム・ナッシュを中心に1963年に結成された5人組。ホリーズというバンド名は憧れのロックン・ローラー、ホディ・ホリーの名前から拝借したのですが、デビュー当時はカバー曲ばかりを歌うグループでした。
ビートルズのようにアメリカ進出するにあたり、オリジナル曲が必要になり、後に10CCを結成し、「アイム・ナット・イン・ラブ」をヒットさせたグラハム・グールドマンに、この「バス・ストップ」を書いてもらいます。そしてグループ初のミリオン・セールスをもたらすとともに、400万枚以上のシングルを売り上げ、ホリーズが飛躍する原点となりました。その後、「兄弟の誓い」「安らぎの世界へ」などのヒット曲を放ちます。
グラハム・ナッシュのバンド脱退をきっかけに、ホリーズは徐々に勢いがなくなりますが、それでもメンバー変更はありながらも、今年2月に23年ぶりにニューアルバムをリリースしました。一方、ナッシュは、ホリーズ脱退後、クロスビー・ステルス、ナッシュ&ヤングで再び成功を収めています。
◆11月7日(火)
坂本九 「上を向いて歩こう」
1961年、NHKのテレビ番組「夢であいましょう」の「今月の歌」で紹介され、爆発的なヒットとなった「上を向いて歩こう」。1963年には、日本人では初めて「スキヤキ」というタイトルで全米bPに輝き、世界70カ国で発売され、1400万枚以上のセールスを記録します。この曲が世界的にヒットしたきっかけは、イギリスのパイ・レコードの社長、ルイス・ベンジャミンが来日したときに、この曲を聴いて非常に気に入ったからで、イギリスのジャズのトランペッターに「スキヤキ」というタイトルのインストルメンタルの曲としてカバーさせたのがキッカケとなりました。これがアメリカに飛び火。たまたまワシントン州のラジオDJが、坂本九のオリジナルバージョンをオンエアしたところ、問い合わせが殺到して、坂本九の「スキヤキ」として瞬く間に全米bPになったという経緯があります。
では、どうして「スキヤキ」になったのでしょうか?
パイ・レコードの社長の話せる日本語が「スキヤキ」と「サヨナラ」しかなかったから。「サヨナラ」では寂しすぎるということで、「スキヤキ」になったというわけです。
その後、この曲はテイスト・オブ・ハニーや4PMなどもカバーし、リバイバル・ヒッし、今なお歌い継がれる名曲となっています。
◆11月8日(水)
フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド 「リラックス」
ボーカルのホリー・ジョンソンを中心にイギリス、リバプールで1980年に結成されたフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド。もともと、「ビッグ・イン・ジャパン」というバンド名でしたが、元バグルスでプロデューサーのトレバー・ホーンが作ったレーベルからメジャーデビューする際に、「フランク・シナトラが音楽界から映画界の都ハリウッドに進出する」という新聞記事の見出しを見つけ、バンド名を「フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド」に改められました。
この「リラックス」でデビューした彼ら6人でしたが、メンバー全員がゲイであることと、この曲の内容がSM行為を描写した内容であることにより、世界各国で放送禁止となってしまいます。しかし、そのことが逆に話題となり、イギリス、アメリカでbP、さらに日本でも大ヒットとなりました。また、トレバー・ホーンがバックの音をレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムのドラムサウンドをサンプリングにするなど、ビートの効いた見事なダンス・ミュージックに仕上げ、音楽的にも話題を集めました。
その後1987年、ホリー・ジョンソンがバンドを脱退、活動は停止していましたが、2003年に再結成され、現在は、ライブを中心に活動をしています。
◆11月9日(木)
ユニコーン 「大迷惑」
1986年、西川幸一、奥田民生、手島いさむ、堀内一史、向井美音里の5人が広島で結成し、1987年にアルバム「ブーム」でメジャーデビューしたユニコーン。バンド名は、イギリスのロックバンド、T-REXのアルバム名に由来しています。向井が健康上の理由で脱退すると、1989年に阿部義晴が正式に加入し、この曲「大迷惑」をファーストシングルとしてリリースし、大ヒット。一躍人気バンドとなります。
この曲は、奥田民生が作詞・作曲をしていますが、プロデューサーである笹路正徳の壮大なオーケストラをバックに、マイホームを購入したばかりのサラリーマンが、いきなり単身赴任を命じられるという悲哀を激しく歌い上げたことで、男性ファンが急増しました。しかし、1992年にリーダーの西川幸一の突然の脱退をきっかけに、バンドは解散。現在は、メンバーのソロ活動や、バンド結成、プロデューサーとして活躍しています。
◆11月10日(金)
ライオネル・リッチー 「オール・ナイト・ロング」
大学在学中にコモドアーズのサックス奏者として加入し、1974年にデビューしたライオネル・リッチー。次第にボーカリスト兼ソングライターとして頭角を表し、コモドアーズの中心メンバーとして広く知られるようになります。そして、ダイアナ・ロスとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」の大ヒットをきっかけに、1982年、コモドアーズを脱退し、ソロ・アーティストとしてデビューを果たします。
1983年にアルバム「オール・ナイト・ロング」をリリースし、その中からこの曲「オール・ナイト・ロング」が全米bPに輝きます。それまで、ライオネル・リッチーは「バラード・シンガー」というイメージを持たれていたのですが、この曲では、ボブ・マーリーのジャマイカの言葉を使い、それを完璧に発音し、トロピカルな南国のイメージを交え、お祭騒ぎ的な雰囲気にして、新境地に踏み込んだ作品になりました。そして、翌年のロサンゼルス・オリンピックの閉会式でもこの曲を歌い、全世界で親しまれ、このアルバムは全世界で1000万枚以上売り上げました。
その後は、マイケル・ジャクソンと共に「ウィー・アー・ザ・ワールド」を作曲し、世界的なスーパースターとして知られるようになります。しかし、声帯ポリープが見つかったことで、手術と治療を余儀なくされ、しばらくの間活動を停止していましたが、2004年7枚目のオリジナルアルバムをリリースし、健在振りをアピールしています。
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