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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

5月25日~5月29日の「サロンdeくにまる」のゲストはスターダストレビューの根本要さん

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5月25日(月)「出ない杭は打たれない」
デビュー35年目、55枚目のシングルを出すスターダストレビュー。(ご自分では)特に大ヒットもなくここまでやってこれたのは「なんとなく」やってきたから。初日はデビュー当時のテレビに出ていた話。35年プロとしてやってきた中で学んできたことは「出ない杭は打たれない」爆笑トークです。

5月26日(火)「ベストアルバムのタイトル」
スターダストレビューのライブは曲とともにトークが楽しみ。その極意を伺っています
夢伝説がヒットするまで、実はバンド存続は崖っぷちだった と後にスタッフにお知られたそうです。本人たちは全く知らなかったそうです。3枚目のアルバムですでにベストアルバムを出すということで、気分は後ろ向き。その時のタイトル案が秀逸です。今日も爆笑トークです。

5月27日(水)「ツアーの楽しみとルール」
メンバーとの距離感についての話。「コンサートとは打ち上げまででを言う」と断言する根本さん。ツアー中は移動日でもオフの日でも食事は一緒に取る。その時にメンバーの中で注文する品について協議をするそうです。そのルールについてもお話しいただいてます。
驚きと爆笑の連続です。

5月28日(木)「最新版の歌詞」
ライブでよく歌詞を間違える(?)根本さん、でもそうじゃない「歌詞は日々更新されているんだ」常に歌詞は進化している。アルバムの中の詩はその時の最新版なのだとおもってほしいそうです。まずいなと感じたら、演奏を止めて「もう一度最初から」。爆笑のポイント満載です。お届けする楽曲「今夜だけきっと」今聞くと恥ずかしくてしょうがないそうです。

5月29日(金)「自分はストーリーテラー」
普通の歌い手は、自分のことを語る歌が多い。でもスターダストレビューの曲はト書き。聞いている人が主人公になれるといわれたことがあり、なるほどと思ったそうです。自分はストーリーテラーなんだと。福岡の放送局でのプロモーションで番組出たところ、驚きの声をかけられます。自分も爆笑してしまったその言葉とは?

<プロフィール>
1981年にシングル「シュガーはお年頃」、アルバム「STARDUST REVUE」でメジャーデビュー。これまでにシングル54枚、アルバム35枚をリリース。「高い音楽性と低い腰」をモットーに、全国各地で年間60~70本のライブを開催する。2001年8月、デビュー20周年を記念したスペシャルライブで、朝10時から夜8時までの10時間に101曲を演奏し、「24時間で最も多く演奏したグループ」としてギネス世界記録TMに認定されている。

5月18日~5月22日の「サロンdeくにまる」のゲストは夏菜さん

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5月18日(月)「デビューのキッカケ」
中学生時代に原宿の竹下通りでスカウトされ、芸能界に入った夏菜さん。
高校生活の毎日が楽しくて仕事は二の次...という生活を送っていた結果、高校卒業の頃には仕事もなくバイトに通う日々を送る事になっていたそうです。
「このままではダメだ」と心機一転、仕事に向き合う事を決めた夏菜さんは、マネージャーさんからある提案をされるのでした。

5月19日(火)「女優夏菜の転機」
人気漫画を実写映画化した作品に出演した事で注目され始めた夏菜さん。
特に「GANTZ」では、裸の姿で登場するという衝撃的なシーンが話題を集めました。
その後、バラエティ番組「ピカルの定理」にもレギュラーとして抜擢。
女優業だけでは得られない体験をし、女優としてさらに成長する事が出来たそうです。

5月20日(水)「純と愛のヒロインに抜擢」
2012年には、NHKの連続テレビ小説「純と愛」に出演し、その知名度を広めた夏菜さん。マネージャーの根拠のない自信に対して、過去の体験から「見てろ!絶対に落ちてやるからな!」とオーディションを受けたのですが、ヒロインの座を射止めてしまいました。今日は、「純と愛」のお話や、共演した武田鉄矢さんとのお話です。

5月21日(木)「夏菜のプライベート」
元々、インドア派だという夏菜さん。最近は運動する事が休日の日課になっているそう。
お仕事柄、体型維持という目的もあるそうなんですが、実は別の目的もあるそうで...。
また、夏菜さんの私生活での様子や恋愛観など、色々聞いてみました。

5月22日(金)「鏡の中の笑顔たち」
夏菜さんは、5月30日から公開される映画「鏡の中の笑顔たち」にヒロインとしてご出演されます。本日はこの映画について、夏菜さんから映画「鏡の中の笑顔たち」の魅力や、撮影現場での裏側などについて、たっぷりとお聞きしました。

<プロフィール>
1989年埼玉県出身。ドラマ「ガチバカ!」(2006年、TBS系)でデビュー。その後、映画「君に届け」(2010年)、映画「GANTZ」(2011年)と話題作に立て続けに出演。さらに、2012年10月~2013年3月までは、NHK朝の連続テレビ小説「純と愛」のヒロインを務めた。

5月11日~5月15日の「サロンdeくにまる」のゲストは日本料理人の野崎洋光さん

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5月11日(月)「隣の家の卵焼き」
明治文化、風習が残る福島の田舎で育った野崎さん。9人兄弟の8番目だったそうです。食べたいものは、頼んでも作ってもらえないので10歳ぐらいから自分で調理を始めました。家で食べていた卵焼きはおいしくなかったが、隣の家で子守のお礼でご馳走になった卵焼きがとてもおいしかった。これが洋光少年が料理を作るきっかけとなったのでした。

5月12日(火)「鬼の菊池」
上京して栄養学の専門学校に通いだした野崎さん。当時、お姉さんが病気でそれを栄養学で直して上げられるのではないかと考えていたそうです。料理店に就職してまずはカニ料理店。毎日毛蟹さばき。一日50杯はやっていたそうです。その後、野崎さんの生き方に大きな影響を与える先輩に出会います。今でも感謝の心忘れないその人の名前は『鬼の菊池』だそうです。

5月13日(水)「分けとく山」
下北沢でお店を出した野崎さん、でもうまくいかず失敗。ぷらぷらしていたところふぐ料理店に誘われて入ることに。「とく山」という名前だった。そこの別コンセプトの店を作ることになり『分とく山』が誕生します。しかし、ビルの3階にあり、看板も出さずにいたがまだバブル期の最後だったのでなんとかやってこれた。当時からの価格1万5千円は今も変わっていません。野崎さんの秘策は?

5月14日(木)『料理の原点は家庭にある』
割烹でできないことは家庭でできる。と語る野崎さん。自分たちは化粧をした料理を出している。家庭の料理、出来立てにかなうものはない。もう一度認識してほしいそうです。長嶋茂雄さんもよく来てくれたお客様。長嶋さんとのエピソードとを疲労してくださいます。40歳までは聞く耳を持つことが大切というアドバイスを先輩から教わったそうです。

5月15日(金)「調理の常識、非常識」
料理の上での勘違いについていくつか例を挙げてお話いただきました。出汁の本当の役目は?煮魚の作り方など、目からうろこの情報が満載の最終日です。すき焼きは霜降りの特選牛は飽きてします。赤味のロース肉が一番合う。など調理の常識非常識について教えていただきました。

<プロフィール>
1953年福島県古殿町生まれ。武蔵野栄養専門学校卒業後、東京グランドホテル、八芳園を経て、80年東京西麻布の「とく山」料理長に就任。89年「分とく山」を開店し、現在五店舗の総料理長として統括。調理科学、栄養学をふまえた理論的な料理法に基づくわかりやすい和食を提唱。

5月5日~5月8日の「サロンdeくにまる」のゲストはささきいさおさん

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5月5日(火)「歌との出会い」
中一の頃は学年トップの成績だったささきいさおさんですが、復習を必要とするようになる頃から成績はみるみる下がっていきます。家での勉強に身が入らず、ラジオ等の工作にのめりこみ始めたささきさんはレコードプレーヤーなども作りますが、これに掛けるレコードを店員さんに選んでもらった事で、エルビスプレスリーのレコードに出会います。ささきさんは歌が上手。レパートリーは少ないもののエルビスをうまく歌うささきさんは人気者になります。そしてこの歌を聴いた堀威夫さん(ほりたけお、後のホリプロの社長)は、「和製プレスリー」としてささきさんを売り出すことにしたのでした。

5月6日(水)「声優のお仕事」
バンドで唄い始めたささきさんに映画の話が舞い込んできます。最初は和製ジェームズディーンというあだ名も貰うぐらいになったささきさんですが、斜陽の映画には人が入らず、テレビに出てもだんだん役が悪くなってくるという、あまり良い状態ではありませんでした。そんななか、声優の仕事を頼まれたささきさんは、ガッチャマンのコンドルのジョーの役を演じ、人気を得ます。そして主題歌を唄うまでになりました。

5月7日(木)「宇宙戦艦ヤマト」
ささきいさおさんに、アニメ・宇宙戦艦ヤマトの仕事が舞い込みますが、裏番組に負けたヤマトは数字が全然取れませんでした。仕事の無い時は釣りをしていた、アニメを吹き込んでいた時代は不遇の時代だったと、ささきさんは当時を振り返ります。しかし、宇宙戦艦ヤマトには熱心なファンがついていて、総集編映画を作った頃から急に人気が出てきます。あっという間にヤマトブームが沸き起こっていました。

5月8日(金)「デビュー55周年を迎えて」
ヤマトの主題歌のレコーディングは手間が掛かった。だから苦労した記憶しか無いが、これはそれだけ音楽に対して一生懸命だったからと、ささきさんは話します。そんな中、ささきさんは深夜のラジオ番組、セイヤングに出演します。今でいうアニラジの走りです。今は第二次アニメブーム。その頃に育った人が今のアニメブームを作っていると感じているのだそうです。アニメの主題歌は若人に対するメッセージ、大人になるまでに、いつかその意味を理解してほしいと話すささきさんでした。

<プロフィール>
1960年、『和製プレスリー』のキャッチフレーズでコロムビアレコードよりロック歌手としてデビュー。 松竹映画専属俳優として『太陽の墓場』(大島渚監督作品)等に出演。その後、新劇や商業演劇(ミュージカル・シェイクスピア劇など)に参加しながら、基礎から勉強しなおす。『宇宙戦艦ヤマト』主題歌のヒットにより再び脚光を浴び、歌手、役者、声優、パーソナリティー、司会者、レポーター...として、テレビ、ラジオ、舞台、ディナーショー、講演、各種イベント...等で幅広く活躍。

4月27日~5月1日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは長島三奈さん

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4月27日(月)「スポーツ記者としての日々」
1968年生まれの長島三奈さんは、元々テレビ朝日のスポーツ局で、ディレクター、記者として働いていました。長島茂雄氏の娘という、特別扱いは一切なく、先輩たちに叱られながら、仕事を覚えて行ったそうです。
裏方だった三奈さんは、久米宏さんの声を掛けられ、突然TV番組「ニュース・ステーション」にスポーツ・キャスターとして出演することになります。その時の心境を語って頂きました。

4月28日(火)「高校野球、高校球児と出会って」
長島三奈さんは1998年から2013年の15年間、夏の甲子園高校野球のダイジェスト番組「熱闘甲子園」でメインキャスターをお勤めになりました。
その頃はすでにスポーツ・キャスターとして活躍していたにも関わらず、高校野球を生で観たことも取材したこともなかったそうです。その高校球児たちは三奈さんの目にどのように映ったのでしょうか? 

4月29日(水)「伝説の試合を目の当たりにして」
1998年「熱闘甲子園」のメインキャスターになり、胸を鷲掴みにされるような試合の連続で、三奈さんは高校野球に夢中になります。中でも横浜高校対PL学園の延長17回に及ぶ準々決勝は忘れられない試合になりました。この時の横浜高校のピッチャーは松坂大輔選手。死闘の末勝利した横浜学園を称えるPL学園の球児の姿に、三奈さんは大きな感動を覚えたそうです。
 
4月30日(木)「父・長嶋茂雄」 
「熱闘甲子園」を卒業したあとも、高校野球の取材を続けている三奈さんですが、もう仕事という感覚はないそうです。むしろ、背番号のない控えの選手との会話や、プライベートな話の方が発見が多いそうです。
三奈さんのお父様は伝説の野球選手であり巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん。様々な逸話を持つ長嶋茂雄さんですが、娘の目にはどのように映っているのでしょうか?今日は娘、三奈さんから見た、長嶋茂雄さんについても語って頂きました。

5月1日(金)「ご家庭とプライベート」
お父様、長嶋茂雄さんは大きなご病気をされ、現在もリハビリを続けていらっしゃいますが、ご家族はどのように茂雄さんを支えて来たのでしょうか?
また、兄弟も多く賑やかな家庭で育ったにも関わらず、ひとりで過ごすのが好きという現在独身の三奈さんの結婚に対する考えとは?今日は、三奈さんのご家庭とプライベートを中心にお話を伺いました。

<プロフィール>
スポーツキャスター。1968年6月3日、東京都生まれ。長嶋茂雄(読売ジャイアンツ終身名誉監督)の次女。日本大学を卒業後、91年、テレビ朝日に入社。スポーツ記者として活躍した。96年より「ニュースステーション」金曜日のスポーツコーナーを担当。98年から、高校球児に密着・取材する「熱血甲子園」のキャスターとなる。2000年、同局を退社し01年に契約社員となって以降も同番組を担当。14年1月31日、テレビ朝日との契約が終了し、フリーとなった。

4月20日~4月24日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは岩崎宏美さん

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4月20日(月)「 思秋期 」
今週は、「岩崎宏美さんの歌手生活40年をヒット曲で綴る」というコンセプトでお送りします...とは言っても、邦丸さんの独断によるリクエスト大会になってしまったのですが...。月曜日は、岩崎宏美さんが歌手になったきっかけを、秘蔵音源を交えながら振り返ります。おかけする曲は「思秋期」。季節ハズレのこの曲が選曲された理由は「俺(邦丸)が聴きたいから」(笑)

4月21日(火)「 二重唱(デュエット) 」
高校2年生で歌手デビューした岩崎宏美さん。「仕事が忙しくても、出来る限り高校生活はみんなと一緒に過ごしたい」という想いから、学校行事にも積極的に参加していたそうです。火曜日は、その中から、修学旅行の思い出を中心に語っていただきました。
おかけする曲は、ここは無難に、デビュー曲「二重唱(デュエット)」です。

4月22日(水)「 光の軌跡 」 
2001年に声帯ポリープの手術をし、「思うように声を出せないことが辛かった」と語る、岩崎宏美さん。手術後に初めて声を出した時には、うれしくて涙が出てしまったそうです。水曜日は、そんな体験と重なるような、今日発売の新曲、40周年記念シングル「光の軌跡」をお聴きいただきます。じっくりと歌詞をかみしめながら聴いてみてください。

4月23日(木)「 聖母たちのララバイ 」
木曜日は、大ヒット曲「聖母たちのララバイ」について、いろいろとお話を伺っています。ヒット当時は歌詞の内容を理解しないまま歌っていたそうですが、時を重ねてセルフカバーしたニューアレンジの「聖母たちのララバイ」は壮大な曲に仕上がっております。乞う、御期待!

4月24日(金)「 ロマンス 」
最終日は、邦丸さんが、自らのセツナソングとして「ロマンス」をリクエスト。「ロマンス」にどんな切ない思い出があるのかは放送で!邦丸さんの思い出はたいしたことありませんが、ニューアレンジの「ロマンス」は聴きごたえ抜群!!尚、オリジナルの「ロマンス」はBGMで...。

<プロフィール>
1975年『二重唱(デュエット)』で歌手デビュー。二作目の『ロマンス』が大ヒットとなり、第17回日本レコード大賞新人賞をはじめ、数々の新人賞を受賞。その後もヒット曲をリリースし、1982年、火曜サスペンス劇場主題歌『聖母たちのララバイ』で130万枚の大ヒットを記録し、第13回日本歌謡大賞ほか多数の賞を受賞。香港、エジプトでのコンサートを成功させる歌手として様々な実績を上げる中、ミュージカルやドラマなどでも多彩な才能を発揮。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、水森かおりさん。 mizumori_kunimaru.jpg

4月20日(月)「歌との出会い」
音楽一家で育った水森さんは、スナックのカラオケで近所の人の前で演歌を歌うような子供でした。皆が喜んでくれるのがうれしかったと話す水森さんです。そこのお客さんの中には作曲家の弦哲也さんも。当時、水森さんはゲンのおじちゃんと呼んでいたそうですが、のちに大変お世話になることになります。小学生の頃には、水森さんはちびっ子のど自慢に出場していました。賞品の電子ピアノが家に3台あったこともあるのだそうですが、当時水森さんは歌手になろうとは全然思っていなかったのだそうです。意外に現実的な考えをしていた子供でした。

4月21日(火)「水森かおり、歌手への道」
ある洋楽グループが好きになり、海外留学できる短大を探し、そこへ水森さんは進みます。そして留学先でホストファミリーの前で歌を唄って感激されたことで、水森さんは歌手になりたいという気持ちを持つようになりました。帰国後「山川豊の妹分オーディション」に出ますが惜しくも落選。しかし、ここでプロダクションの会長に声を掛けられ、会長の秘書のような形で事務所に通うようになります。先がわからない生活が2年続いた後、デビューが決まった水森さんは、その時の気持ちを話してくれました。

4月22日(水)「水森さんの苦労時代」
デビュー前の水森さんは、その苦労を「いつか話のネタになる」ぐらいに思っていたのだそうですが、デビューしてからも水森さんの苦労は続きます。キャンペーンを頑張ろうにも仕事自体が無いのでやりようが無い、カラオケの発表会に行けば「私の方がうまい」と言われてしまう、そんな泣く事も出来ない経験が続きました。転機になったのはデビュー8年目の「東尋坊」。とても難しい曲だったので作曲した弦哲也さんのところに自転車で通って練習をしたのだそうですが、これが大ヒットになります。水森さんはこの時の心境をダジャレで話してくれました。

4月23日(木)「ご当地ソングの女王」
東尋坊がヒットしたものの紅白には出られなかった水森さんは、次の鳥取砂丘で念願の紅白歌合戦出場を果たします。出場が決まり、心配をかけた両親に電話で報告をしたら、御両親は泣いていたのだそうです。次に出られるかどうかはわからないから、目に入るすべてを記憶にとどめておこうとしたので、今でも初出場の時の風景は全部思い出せると水森さんは笑いながら話してくれました。水森さんには私の街を歌ってほしいという要望も良く届くのだそうです。気持ちはわかるけれど自分だけでは決められない、ちょっと答えに困ると水森さんは話してくれました。

4月24日(金)「これからの水森かおりさん」
休日の水森さんはのんびり。朝、白湯を飲んだら、あとはほとんど何もしない一日を過ごします。刑事ドラマは好きだけど、テレビを見る以外は何もしないからお腹が減らない。なので外に食べに行くことも無い水森さんです。浮いた噂が無いですねと訊いてみると、めんどくさいので「公私ともに一人旅」と元気の良い声、縁があれば結婚もしたいけれど、今は一人で何もしないでいる時間がとても好きと水森さんは話してくれました。

<プロフィール>
1995年「おしろい花」でデビュー。
各地をまわるキャンペーンを続け、2002年発売の「東尋坊」が、スケール感のある曲調でロングヒット。
2003年発売の「鳥取砂丘」は、ロングヒットになり、「第45回日本レコード大賞 金賞」「第36回日本有線大賞 有線音楽優秀賞」等を受賞。
第54回『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。
その後も「釧路湿原」「五能線」「熊野古道」「ひとり薩摩路」「輪島朝市」「安芸の宮島」「松島紀行」「庄内平野 風の中」がヒット。
オリジナルアルバム「歌謡紀行」シリーズでも日本各地を舞台とした楽曲を収録し、
"ご当地ソングの女王"と呼ばれる。『NHK紅白歌合戦』に連続出場中。

4月13日~4月17日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは角替和枝さん

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4月13日(月)『演劇との出会い』
18歳の時、芝居がしたいと上京してきた角替和枝さん。初めて出演したのは、女性が裸で放送禁止用語を叫ぶという舞台だったそうです。
その時、共演した女性の紹介で「つかこうへい」さんと知り合う事になります。
稽古の様子に大変な感銘を受けた角替さん、つかさんからの誘いもあり、稽古に参加するようになったのでした。

4月14日(火)『東京での劇団生活』
つかさんの劇団と、東京乾電池の2つの現場を行き来していた角替和枝さん。
東京乾電池での角替さんは、『とにかく、くだらない面白いものを作る』を追求するあまり、寝ても覚めてもウケを取る事ばかり考えていたそうです。
また、それまで台本というものを見たことがなかったという角替さんの稽古の様子や演出の違いなどを比較しながら、当時の劇団生活についてお話いただきました。

4月15日(水)『角替和枝さんと柄本明さん』
角替和枝さんは26歳の時、東京乾電池の座長である柄本明さんとご結婚されます。
最初は特に意識していなかったという角替さん。
当時、ヒモとして生活していた、文化放送に馴染み深い方のアドバイスで、柄本明さんとご結婚されるキッカケになったそうです。
今日は、ご結婚されるまでのエピソードについても話しいただきました。

4月16日(木)『主婦として、母親として』
女優のお仕事をされながらも、母として子育てしていた角替和枝さん。
その子供達は映画制作のお仕事や俳優として現在、ご活躍されているのですが、その原因のひとつが、父親「柄本明」の興味にあると仰っています。
色々とお話を聞いていく内に、主婦としての愚痴が飛び出しました。

4月17日(金)『うつ病と診断されて』
女優、そして母親として日々の生活を送ってきた角替和枝さん。
5年ほど前、心臓に痛みを覚え病院に行ってみると「うつ病」と診断されます。
診断されてからは柄本さんと一緒に克服に向けて努力されたそうです。
最終日の今日は「うつ病」と診断されてから、これまでのお話です。

<プロフィール>
つかこうへい事務所を経て、劇団東京乾電池に至る。映画・テレビドラマ・舞台・CMなど幅広く活動を展開。主な出演作品に、映画『居酒屋ゆうれい』『学校Ⅲ』『アドレナリン・ドライブ』『さよならクロ』、NHK『私の青空』、日本テレビ『緊急救命病院1~9』、TBS『魔女の条件』、フジテレビ『今どきの姑』、舞台『サクラパパオー』、CM『日本生命』『エーザイ』ほか多数。

4月6日~4月10日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは石川ひとみさん

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4月6日(月)「デビューのきっかけ」
名古屋の街に母親と買い物に行く途中、駅のホームにあった看板が目に入り
遊び気分でオーディションを受けた。行ってみたらちょうどその日がオーディション当日、もう終わっていたがせっかく来たんだからということで受けさせてもらった
そうしたところ合格してしまって、そこからが石川さんの芸能界への道が開けたのでした。

4月7日(火)「君こそスターだ」
「君こそスターだ」という番組に出ることになったのですが
出演できないときっぱりと宣言した石川さん。学校が厳しかったのだそうです。
ところが出身の愛知県では放送していないからということで説得され学校にも説明したら意外にも「頑張れ」とのお言葉
あれよあれよという間にデビューすることになったのでした。

4月8日(水)「まちぶせ」
デビューしたが大ヒット曲は無かった石川さん。次の曲がだめだったら歌手のことは考え直そうと決めていたそうです。自分の気持ちと重なる部分もあり曲はヒットしました。
野村邦丸アナウンサーがこの曲が大好き
最後の最後のある部分をぜひ聞いてほしいと言っています。その理由とは?

4月9日(木)「レッツゴーヤングそして病気との闘い」
歌手活動のほかにNHKの番組レッツゴーヤングの司会に抜擢
歌も歌い、カンペも出ないので覚えることが多くて大変だった。
20歳代後半から数年間、石川さんは芸能活動をお休みされています
B型肝炎が発症したのです。血液検査の後、病名を告げられてショックを受けた石川さん。そのとき支えていてくれたものとは・・・?

4月10日(金)「これまで そしてこれから」
結婚するまでのエピソード、そしてそのご主人がある番組の大ファンなのだそうです。
病気になったことをきっかけに本を出版
その内容で講演会もされているそうです。
これからの活動についても話しいただいています。

<プロフィール>
1978年歌手デビュー。1981年『まちぶせ』がヒットし、NHK紅白歌合戦に出場。歌やテレビの司会などで活躍。1987年にB型慢性肝炎を発症し、入院・療養を経て、翌年復帰。現在はLIVE活動を中心に、心と体の健康に関する講演会やエイズ、慢性肝炎に関係した活動。著書に闘病記『いっしょに泳ごうよ』(集英社)がある。

3月30日~4月3日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは堀内孝雄さん

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3月30日(月)「音楽との出会い」
大阪市の実家が営む食堂のラジオで音楽に出会った堀内さん。中でも三橋美智也さんの歌に感銘を受けたそうです。その頃、おばあちゃんに毎晩、三橋美智也さんの歌を歌って聴かせていたそうですが、それが歌手になりたいと思うきっかけになったのかもしれません。高校に進学してから本格的に歌い始め、大学に入ってから、のちに共にアリスを結成する谷村新司さんと出会いました。

3月31日(火)「『アリス』について」
フォークブームだった大学時代に受けた、とあるオーディションの審査員が谷村新司さんでした。その谷村さんに「プロにならないか」と声を掛けられ、アリスはスタートしました。そのとき、既にドラムの矢沢透には声を掛けていましたが、様々な事情の中、堀内さん、谷村さんの2人で先にデビューし、その後矢沢さんが合流したそうです。今日は、アリス結成からデビュー秘話までを伺いました。

4月1日(水)「アリスからソロへ」
アリスは出す曲、出す曲、ヒットしました。堀内さんと谷村新司さんの関係は、言うなれば、ポール・マッカートニーとジョン・レノンのようなものだったのかもしれません。アリスは沢山のヒット曲を生み出して来ましたが、今回は、その中から名曲「終止符」についてじっくり語って頂きました。堀内さんはソロになってからもこの歌を大切に歌い続けています。

4月2日(木)「ソロになってから」
アリスの活動休止後、鳴かず飛ばずのソロ時代を過ごしていた頃、何故か映画音楽の仕事が舞い込みました。それは、小椋佳さんとコラボレーションする企画だったため、本当に嬉しかったそうです。お父様も喜んでくださったそうです。また、フォーク出身の堀内さんが演歌の世界に入っていくきっかけとはなんだったのでしょうか?荒木とよひささんとの出会いについても語って頂きました。

4月3日(金)「ジャンルにとらわれない堀内孝雄さんとは」
堀内さんは一昨年、アリスとして47都道府県コンサートを決行しました。フォークであろうが演歌であろうが、 ジャンルに関係なく堀内孝雄さんは邁進しています。今年66歳を迎えますが、この年代でなければ歌えない歌があるといいます。それぞれの音楽シーンを自分達で作ってきて、今、こうしてステージにたっていられることは「愛しさの塊」だそうです。堀内さんの音楽への思いをタップリと聞く最終日となりました。

<プロフィール>
デビュー作シングル『走っておいで恋人よ』
代表作品CDシングル『君のひとみは10000ボルト』(1978) / CDシングル『愛しき日々』(1986) / CDシングル『恋唄綴り/今日も最高やねェ!』(1990)

3月23日~3月27日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは谷道夫さん

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3月23日(月)「音楽との出会い」
宮崎で生まれた谷道夫さんは、最初はとてもひどい声、でも、変声期をすぎてきれいなバリトンボイスになったのだそうです。変声期中に無理しなかったのが良かったのかなと話してくれました。
戦時中は軍歌一色、しかも斉唱。終戦後、街頭放送で外国の音楽を聞いてショックを受けた谷さんは、先生のアドバイスもあり音楽の先生になろうと決心します。その先生と後に再会したときも、谷さんは温かい言葉をいただいたのだそうです。

3月24日(火)「デュークエイセス結成」
音楽の先生になるために宮崎大学へ進んだ谷さんですが、大好きな先生が東京の芸大に招かれたのを機会に、谷さんも宮崎大学を辞めて上京することにします。その東京ではダークダックスが大人気、好きなコーラスで飯が喰えるのではないかと思った谷さんは和田昭治さんら、友人を集めて4人のコーラスグループを作りました。
名前はデュークエイセス、この名前はデュークという爵位にエースの複数形、えりすぐられた公爵様という偉そうな名前だったと笑う谷さんです。でも、後にこれ以上の名前を見て仰天したのだそうです。その名前は・・・。

3月25日(水)「飛躍するデュークエイセス」
デュークエイセスは最初、米軍キャンプを廻っていました。出来が良いとほめられて、悪いとブーイング、実力がわかる世界でしたが、一番助かったのは譜面を見ることができたこと、これでまた歌に磨きが掛かったと谷さんは話します。
昭和36年にはNHKの「夢であいましょう」に出演します。ここでデュークエイセスはヒット曲「おさななじみ」を得て、人気は全国区になりました。
当時の地方回りには今との違いが一つだけありました。それは晩御飯の時間。今のビジネスホテルと違って皆が大広間で食事。今思えば、これが楽しかった話す谷さんでした。

3月26日(木)「デュークエイセスの歌」
デュークエイセスは日本中、47都道府県の歌を唄っています。名所旧跡の歌にならないように、旅人の視線になるようにと工夫をしだのだそうです。
また、たくさんのCMソングも唄っています。谷さんのお話では300曲以上。歌手名が出ないのをいい事に、ライバル会社のCMも無節操に引き受けていたと谷さんは笑います。
グループの中での対立は無かったのでしょうか?と、訊いてみると、無理をしてでも尊敬をする、悪いところは見ないで良い所をふくらましていくことでうまくいくと応えてくれました。
デュークエイセスは、こじんまり、あっけらかんに明るく唄うことを心がけていたと語る谷さんです。

3月27日(金)「唄い続けるデュークエイセス」
昨年、デュークエイセスはニューアルバムを出しました。そのなかの「生きるもののうた」には永六輔が語りをつけてくれました。デビュー以来お世話になっているので、永さんの方向に足を向けて寝ることはできないと話す谷さんです。
今、デュークのレパートリーは1700曲ぐらい。60周年になりましたが、病気などでメンバーは入れ替わり、どうしても顔ぶれは変わっていきますが、これは振り払っていくしかないと谷さんは話します。
谷さんの居ないデュークエイシスは?と聴くと、名前は残るかもしれない?けど、聴く人も年をとっていくから・・、とだけ話してくれた、谷道夫さんでした。

<プロフィール>
1955年結成のデュークエイセスのリーダー。
デュークエイセスは「にほんのうた」シリーズなどをレパートリーとしている他、ジャズコーラスグループとしても活動。その中で、レパートリー1500曲中、約半数を編曲する。

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