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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

8月3日~8月7日の「サロンdeくにまる」のゲストは水谷八重子さん

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8月3日(月)「ご両親との距離」
芸能生活60周年を迎えられた水谷八重子さん。女優である初代水谷八重子さんと歌舞伎俳優14代目守田勘彌さんの間にひとり娘としてお生まれになりました。
しかし、生まれた時から両親と離れお母様のご実家で暮らし、時々両親の家に遊びに行くという生活だったそうです。戦時中には疎開を経験しましたが、その疎開先で初めてご両親と一緒に暮らしました。初日の今日は幼少の時代を振り返って頂きました。

8月4日(火)「芸能生活のスタート」
近所に住んでいた歌手の松田トシさんのもとにレッスンに通ったのが、芸能との出会いでした。八重子さんは女性としては変声期が激しく声のトーンが一気に変わりハスキーボイスになってしまいました。しかし、この声を「哀愁のある声」と言ってくれたのが作曲家の服部良一先生でした。この服部先生との出会いが八重子さんを歌手デビューへと導きます。また同時に女優としても舞台に立つようになります。

8月5日(水)「水谷八重子襲名」
水谷八重子とは、元々新派の女優であるお母様の芸名です。お母様が亡くなって、何年も経ってから松竹の会長からの命で「八重子」を襲名することになります。しかし、それまで長らく活動してきた「良重」という名前を失うことが悲しくなり、けじめをつけるために「良重最後のディナーショー」を開催しました。また、八重子さんはデビュー間もない20歳の時、でジャズドラマーである白木秀雄さんと結婚しますが24歳で離婚しています。今日は その頃のお話も伺いました。

8月6日(木)「女優、水谷八重子」 
八重子さんにとって演じるとはどういうことでしょう?1977年、大女優であるお母様の代表作「滝の白糸」を演じますが、この時、アドバイスをくれたお母様とは違う表現を貫き通します。お母様と初めて大げんかをしたのもこの時でした。
しかし、お母様が亡くなったあと八重子さんの心に変化が訪れます。
その変化とはいったい何だったのでしょうか・・・?

8月7日(金)「水谷八重子の好きなもの」
犬派だった八重子さんですが、とある猫との出会いをきっかけに猫好きになり、今は7匹の猫と一緒に暮らしているそうです。また、ジャイアンツの阿部慎之助選手のファンなのですが、いったい阿部選手のどこが好きなのでしょうか?
好きが高じて、昨年は念願の始球式のマウンドに立つことも出来ました。
「やり残したことはない」と語る八重子さんの日常を垣間見る最終日となりました。

<プロフィール>
母は新派の名女優初代水谷八重子。
昭和30年歌舞伎座の新派公演にて初舞台。平成7年に二代目水谷八重子を襲名。現在新派を支える女優として活躍している。主な受賞歴は昭和53年に「滝の白糸」「祇園の女」で菊田一夫演劇賞、63年に「佃の渡し」「京舞」で松尾芸能賞大賞、平成4年には「佃の渡し」で芸術選奨文部大臣賞、芸術祭賞、都民文化栄誉章などがある。さらに平成13年には紫綬褒章を受章。

7月27日~7月31日の「サロンdeくにまる」のゲストは俳優の榎木孝明さん

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7/27(月)『話題となった「不食」について』
食事を摂らず、水分のみで過ごす「不食」という行為を30日間続けていた榎木孝明さん。
何を目的として「不食」をはじめられたのか?
その理由と不食をしていた時の様子など、お聴きしました。

7/28(火)『俳優を目指すキッカケ』
18歳の頃、故郷の鹿児島から東京に上京してきた榎木孝明さん。
「安心・安全」という言葉に囲まれた生活に苛立ちを覚えた榎木さんは、自らを危険に晒す様な環境を探して旅に出ていたんだそうです。
ある時、劇団四季のオーディションを受けた榎木さん。
劇団四季に関して何も知識を持ってなかったという榎木さんは、どうやってオーディションに合格したのでしょうか?

7/29(水)『役者・榎木孝明』
劇団四季を退団した後、NHK連続テレビ小説「ロマンス」で、一躍有名となった榎木孝明さん。32歳の時に主演した映画「天と地と」において、俳優人生を大きく変える出来事があったそうです。
今日は、役者・榎木孝明についてのお話です。

7/30(木)『榎木孝明さんと実験してみよう!』
古武術や気功に関してもお詳しい榎木孝明さん。
以前、ご出演された後でご披露していただきました「気功」を、番組スタッフで実験してみました。
この凄さがラジオを通じて伝わるのか?こうご期待!

7/31(金)『榎木孝明さんのこれから』
最終日は榎木孝明さんが現在出演されている「花咲舞が黙ってない2」や「浅見光彦」シリーズ最新作についてのエピソード、これから公開される映画「スクール・オブ・ナーシング」、「いしゃ先生」などについてお話をお伺いしました。
また、最後には榎木孝明さんの「時代劇」を盛り上げていきたいという夢についてもお話をお聴きしています。


<プロフィール>
「鹿児島県出身。武蔵野美術大学デザイン科に学ぶ。劇団四季に入団し、1981年『オンディーヌ』で初主演を果たす。1983年に劇団四季を退団し、1984年、NHK『朝の連続テレビ小説「ロマンス」』主演でテレビデビュー。その後、俳優として、映画・テレビ・舞台などで活躍。テレビドラマ『浅見光彦シリーズ』の浅見光彦役で広く知られる。また、旅を好み、水彩画家として世界各地を中心に世界の風景を描き続ける。

7月21日~7月24日の「サロンdeくにまる」のゲストは海老名香葉子さん

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7月21日(火)「東京大空襲の記憶」
竿師の家に生まれた海老名香葉子さんは泣き虫な女の子でした。空襲が激しくなったので沼津に疎開していましたが、東京大空襲で一番下のお兄さん以外、家族、親族のほとんどが行方不明になります。疎開先の沼津でも、東の方向の空が蛍光灯のように光っていたと話す香葉子さんです。
空襲を語り続ける香葉子ですが、体調が悪くて体が動かなくなった時に、お母さんが香葉子さんを助けてくれました。幻のお母さんは37歳のまま、とても不思議な体験をしたのだそうです。

7月22日(水)「落語の世界との出会い」
海老名香葉子さんは石川県の穴水に疎開し直しますが、終戦後親戚に呼ばれて東京に戻ります。でもこの親戚は親権が欲しかっただけのようですぐに邪魔者扱いを受けています。穴水の人は優しかったけど・・・と話す香葉子さんです。
焼け跡でその暮らしをしていた香葉子さんは偶然、(先代の)金馬師匠が出ている寄席を通りかかり、楽屋に会いに行きます。金馬師匠は香葉子さんに会えたことを喜び、その日のうちに、金馬師匠の家の子供として迎え入れられたのでした。

7月23日(木)「夫 三平さん」
海老名香葉子さんはお見合いをして結婚します。相手はまだ人気が出ていなかった三平さん。あの家はおかみさんが良いからと周囲が言う事、化けるかもしれないという師匠の言葉が香葉子さんを後押しをしました。
その三平さんは民放ラジオの放送が始まると急に仕事が増え人気者になります。最初の仕事は文化放送、1年で終わってしまったけれど写真も台本も残っていると香葉子さんは話してくれました。
お金が入るとすぐに遊びに行ってしまう三平さんで香葉子さんは苦労しますが、後に体を悪くした三平さんの為にも財産をすり減らす香葉子さんでした。そして三平さん亡き後には異例の一門が誕生したのでした。

7月24日(金)「海老名香葉子さんの御活動」
海老名香葉子さんのライフワークは戦争の悲惨さを語り続ける事。戦争で人が変わってしまう事が怖い、だから、実は戦後の方が大変だったと香葉子さんは話します。東京大空襲の日には、"時忘れじの集い"を開き、毎年戦争の悲惨さを伝える香葉子さんです。また三平さん、泰葉さんの二人のお子さんは特攻を伝える映画「桜花」(さくらばな)の制作に参加しています。
今、海老名香葉子さんが力を注いでいるのは、名古屋に落語の定席を作る事。9月に完成するので盛大に披露をしたいと、楽しそうに話してくれる82歳の香葉子さんでした。

<プロフィール>
生家は江戸時代から代々続いた釣竿師「竿忠」。
1945年の東京大空襲で家族6人を失い、戦後先代の三遊亭金馬師匠宅に引き取られて育つ。
1952年、林家三平氏と結婚。
1980年、夫・林家三平氏の死後、弟子のこん平氏を始め、30名の弟子を支える。
夫の死後はテレビのコメンテーターやコラム執筆などで活躍。

7月13日~7月17日の「サロンdeくにまる」のゲストは柳生博さん

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7月13日(月)「船長にあこがれて」
茨城出身の柳生さん。学生時代、外国に行きたい思いが募って商船大学に進みます。その後、エッセイを書くバイトなどをしているうちに視力が落ちて船長になれないと判断。退学した後俳優座養成所に入ります。ところが駆け出しのころ、吃音になってしまい大変苦労します。怖かった先輩の話も出てきます。

7月14日(火)「役者駆け出しのころ」
俳優座養成所同期でトップのじょせいが今の奥様。柳生さんは補欠。なぜか二人は付き合うように。柳生さんは「男の魅力だ」とおっしゃいます。NHKのドラマに出ることになって人気者に。いろんな役をやったと振り返ります。朝、NHK、昼、メロドラマ、夜、凶悪犯などバラエティに富んでいました。邦丸さんとの意外なつながりに柳生さんがびっくりします。

7月15日(水)「百万円クイズハンター」
81年から12年間続いた午前のクイズ番組。3000回も放送があったそうです。その名前の由来や、今考えるとすごいスケジュールの収録方法。そして、他の仕事が入ったときのまとめ録りについてのエピソードです。売れっ子になった柳生さん、その一方で家庭が壊れていく事件が起きていました。

7月16日(木)「13歳で旅に出る。八ヶ岳へ」
柳生家は代々13歳になったら旅に出るという教えに従い、出かけた先が八ヶ岳近辺。そのことをふと思い出し、家族で現地に行った柳生さん。そこで、いきなり土地を譲ってもらいます。そして八ヶ岳での生活が始まります。いじめられていたお子さんもあっという間に順応してすくすくと育っていきます。いまやそこには年間10万人もの方が訪れるそうです。

7月17日(金)「息子の死、そしてこれから」
今年の5月、長男の真吾さんが病気で亡くなります。生前、子供ができた時に八ヶ岳で生みたいということで東京から移住。八ヶ岳倶楽部で活躍します。そのお別れの会は八ヶ岳で行われました。にもかかわらず1200人以上の方が訪れ、息子の活動の幅の広さを実感したといいます。

<プロフィール>

昭和12年1月7日生まれ。昭和35年俳優座養成所を卒業。主な出演作に「あれが港の灯だ」「ミンボーの女」,NHK連続ドラマ「いちばん星」など。また「生きもの地球紀行」などのナレーター,クイズ番組の司会者としても活躍。八ヶ岳山麓にアトリエをかまえ,森林保全運動にとりくむ。平成16年日本野鳥の会会長。

7月6日~7月10日の「サロンdeくにまる」のゲストは前田美波里さん

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7月6日(月)「気が付いたら初舞台」
少女時代はバレリーナになることを夢見ていた前田美波里さん。生まれ故郷である鎌倉よりは東京でバレエを学んだ方が...と、上京して通い始めたバレエ教室で芸能関係者の目に留まり、本人は与り知らないところで、バレリーナへの道が、いつのまにかミュージカル女優への道へと変わっていて...。
月曜日は、前田美波里さんがミュージカルの初舞台に上がるまでをお話していただきました。

7月7日(火)「太陽に愛されよう」
「太陽に愛されよう」のキャッチコピーとともに全国の化粧品屋さんの店頭を飾った、若き日の前田美波里さんのポスターをご記憶のリスナーさんも多いのではないでしょうか?火曜日は、そのポスターの撮影秘話などを伺っています。
そして、後半は、元夫であるマイク真木さんとの出会いについて。

7月8日(水)「コーラスライン」 
マイク真木さんとの結婚で、一時期、芸能活動をお休みしていた前田美波里さん。離婚により活動を再開したもののミュージカル出演のオファーは全くなし。それならば...と、劇団四季「コーラスライン」のオーデションにチャレンジするのですが、そこは"前田美波里"の名前がまったく通用しない世界でした。
水曜日は、前田美波里さんと劇団四季・浅利慶太さんの思惑が交錯する、ミュージカル「コーラスライン」の舞台裏!

7月9日(木)「前田美波里的人間関係」
ここ数年はミュージカルだけではなく、テレビドラマやバラエティ番組への出演も目立ってきた前田美波里さん。活動の幅を広げたきっかけは、お孫さんの"ある一言"だったそうです。
木曜日は、そんな話題を皮切りに、元夫の再婚相手とも良好な関係を築いていらっしゃる前田美波里さんの人間関係にスポットを当ててお届けします。

7月10日(金)「舞台『ペールギュント』の見どころ」
最終日は、前田美波里さんの若さの秘密に迫ります。キーワードは「エゴスキュー」。体の歪みを矯正するメソッドなんですが、五十肩に悩む、私、野村邦丸も実際にやってみました。予想以上に厳しかった前田美波里さんのご指導が忘れられません(笑)
後半は、明日初日を迎える舞台「ペールギュント」の見どころをたっぷりと!

<プロフィール>
昭和23年8月8日生まれ。昭和38年芸術座のミュージカル「ノーストリングス」のオーディションに合格し,舞台デビュー。41年資生堂のポスターモデルとして人気をえる。のち「コーラスライン」「ウエスト・サイド物語」などでミュージカルスターとして活躍。平成21年松尾芸能賞優秀賞。神奈川県出身。文化学院卒。

6月29日~7月3日の「サロンdeくにまる」のゲストは森口博子さん

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6月29日(月)「オーディションに落ち続けた日々」
デビュー30年を迎えた森口博子さんは、福岡で4人姉妹の末っ子として生まれました。歌手になりたいと思ったのは4歳の頃。人前で歌い拍手をもらうのが何よりも嬉しかったそうです。小学生の頃から本格的なレッスンを開始します。
オーディションでいいところまで行くのに、落ちてしまう日々。そんな時に叱咤激励をしてくれていたのは、お母様だったそうです。

6月30日(火)「デビューをするにはしたけれど・・・」
森口さんは17歳でデビューが決まり上京します。デビュー曲はアニメソングということもあり注目されましたが、2曲目以降はさっぱり売れず、お仕事もなかったそうです。同期のアイドルが仕事のために学校をお休みする中、いたたまれずに、仕事があるふりをして、学校をサボったこともあったそうです。リストラ宣告を受けますが「なんでもやりますから九州に帰さないでください」とお願いして頂いたお仕事が、その後の森口さんを大きく変えることになります。

7月1日(水)「バラドルの日々」
歌手としてなかなか目が出なかった森口さんは「なんでもやります」と事務所に直談判。そこで頂いたのがバラエティのお仕事でした。このお仕事が大好評で、元祖バラドルとまで言われるようになります。多い時にはレギュラー番組を12本持つほどになり、憧れの「笑っていいとも」にも出演しました。しかし、元々は歌手を目指していた森口さんに葛藤はなかったのでしょうか?今日は、元祖バラドルの心の内を伺いました。
 
7月2日(木)「ヒット曲にめぐまれて」 
バラドルと言われつつも、果敢にお芝居にもチャレンジして来た森口さん。周りの方のサポートによりチャンスを頂いてきたと振り返ります。そんな森口さんに転機が来たのは1991年。「機動戦士ガンダムF91」 のテーマソングで年末のNHK紅白歌合戦の出場も果たします。初めての全国ツアーも経験します。順風満帆に見えていた森口さんが、プロデューサーに言われた衝撃のひとこととは?今日は、表現者としての森口博子さんの魅力にせまります。

7月3日(金)「仕事と恋、そして歌に対する想い」
現在独身の森口さんですが、今まで結婚を意識する男性はいらっしゃったのでしょうか?また、将来的にはどんな結婚生活を描いているのでしょうか?
さて、デビュー30年の森口さんはバラドルと言われた時代でもずっと楽曲は発売し続けていました。最終日である今日は、歌手森口博子の歌に対する思いを、たっぷりと伺いました。

<プロフィール>
1985年、NHK 『勝ち抜き歌謡天国』全国名人大会準優勝。同年、アニメ『機動戦士Zガンダム』主題歌『水の星へ愛をこめて』でデビュー。1991年、『ETERNAL WIND』でNHK 『紅白歌合戦』に初出場を果たす。歌手のみならず、明るいキャラクターで多数のバラエティー・ドラマ番組などで活躍。2002年の舞台『とげぬき音楽隊』では、芸術座史上最年少の座長を務めた。主な作品に、TBS 愛の劇場『うちはステップファミリー』、東宝映画『バブルへGO!!タイムマシンはドラム式』、ミュージカル『SHOUT!』、NHKラジオ第一『今夜も大入り!渋谷極楽亭』、SINGLE『もうひとつの未来~starry spirits~』、LIVE『HIROKO MORIGUCHI Song for you Vol.Ⅳ STB139』など多数出演。

6月22日~6月26日の「サロンdeくにまる」のゲストは作家の宮本輝さん

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6月22日(月)「宮本輝さんの少年時代」
終戦直後の混沌としていた時代に生まれた宮本輝さん。
小学生の頃、あまりにも勉強が出来ない宮本輝さんを心配したお父様は、少年少女向けの文学本を買ってきます。
これが本の魅力を知る一番最初のキッカケなんだそうです。
ちょうどその頃、宮本輝さんのまわりには、水上生活をされている友人がいて、処女作「泥の河」では、その当時の事が活かされているんだそうです。
少年時代の宮本輝さんについてお聞きしています。

6月23日(火)「宮本輝、文学にハマる」
中学校にあがるとより大人向けの文学小説を読み出し、活字の世界にどっぷりとハマっていきます。
特に、文章の中に知らない漢字や言葉があったりすると調べる。
この作業が宮本輝さんにとって、とてもプラスになったそうです。
そして、時は流れて社会人となった宮本輝さんの体にある変化が起きるのでした。
文学にハマるキッカケや「ある病気」についてお聞きしました。

6月24日(水)「小説家デビューまで」
パニック症候群になった宮本輝さん。当時は病気として認知されていなかったので、
仕事をしようにも手が付かず、とても苦しんだそうです。
しかし、そのことが再び文学に触れる時間を生み、その時に読んだ小説が、宮本輝さんに小説家になるキッカケを与えてくれるのでした。
小説家としてデビューするまでのお話です。

6月25日(木)「宮本輝さんの人生を変えた経験の数々」
小説家として知名度を上げていった宮本輝さん。色々な経験をされてきたそうですが、
その中でも特に、1995年の阪神淡路大震災についてあげられています。
実際に被災し、目の前で命が失われていくのを見て、「小説とは何か?」、「こんな中で自分は小説など書いていいのか?」と悩んだそうです。
そして、この被災経験が宮本輝さんの作品にとても影響を与えたそうです。
宮本輝さんの人生を変えた経験談をお話頂きました。

6月26日(金)「最新作、田園発 港行き自転車」
宮本輝さんが3年もの間連載していた小説で、現在発売中の最新作、「田園発 港行き自転車」。
この作品について、生まれた瞬間や、物語が完結した時エピソードなど、じっくりお聴きしていきます。これまで生み出してきた作品の中でも、笑いを交えながらも、特に思い入れが強い作品だという宮本輝さんのお話をお聴きください!

<プロフィール>
1947年、兵庫県神戸市生まれ。広告代理店勤務を経て、執筆活動へ。1977年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。著作に『優駿』(吉川英治文学賞)『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞文学部門)『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)など。2010年秋、紫綬褒章受章。1996年より、芥川賞選考委員。

6月15日~6月19日の「サロンdeくにまる」のゲストはシャ乱Qまことさん

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6月15日(月)「若き日のまことさん」 
お父さんが公務員という平凡な家に生まれたまことさんは、ソフトボールと野球が好きなごくごく普通の男の子。藤井寺球場の近くに住んでいたのに、なぜかジャイアンツファンで、一本足打法を真似したりしていました。
今は名ドラマーのまことさん、その原点はなんと歌謡曲にありました。アイドル好きのまことさんは映画「嵐を呼ぶ男」を見て、ドラマー、マッチのかっこよさに憧れ、高校入学祝にドラムを買ってもらったのです。

6月16日(火)「シャ乱Q結成」    
高校は大学までエスカレーター、まことさんは7年間同じ場所に通う事に疑問を持つようになり、高校卒業と共にミュージシャンになる道を選びます。
「シャッターズ」というバンドでドラムを叩いていたまことさんの転機は二十歳の時。良く知らない仲とはいえ、同じ高校出身のつんくさんが、東京で本格的に活動するバンドメンバーを探していたのです。3つのバンド名を足した、「シャ乱Q」は23歳の時にメジャーデビューを果たします。

6月17日(水)「売れっ子への道」 
シャ乱Qは最初は全然ヒットしませんでした。売れる曲を作ろうと頑張ったのにオリコンを見ても100位以下。これがダメならきっぱりと帰ろうということでリリースした上京物語が売れ出します。実体験を元に作られた歌でした。
そして、「シングルベッド」はミリオンセラー。シャ乱Qは一気に売れ始めます。
でも武道館コンサートを終えて、マンションで一人でコンビニ弁当を食べているときに、まことさんは幸せってなんだろう?と考えていました。

6月18日(木)「まこと家の家計の話」 
まことさんの奥さんは元フジテレビアナウンサだった富永美樹さん。家計はこの美樹さんに握られています。毎日、その日の仕事に応じたおこづかいを貰っているので、まことさんはいつもその金額しかもっていません。ちなにみ今日は、都内の仕事なので1000円です。
美樹さんに門限があったり、派手にしないでほしいとお願いしているまことさんですが、お金についてはすべてを任せています。高い買い物は奥さんの許可制、最近買った高価なものは2万円のACコードでした。

6月19日(金)「これから」 
つんくさんが声を失ったことを伺ったところ、まことさんの答えは「まっしろ」。想像を絶するショックという答えが返ってきました。
音楽産業の歴史は浅いから、まだまだ無限の可能性があると思うまことさんは、最近富士山のふもとに山荘をかまえました。この山荘にドラムセットはありません。最近のまことさんは自然の中に居る間、バイオリンとクラシック音楽にはまっています。

<プロフィール>
『シャ乱Q』のドラマーとして1992年7月にデビュー。
2000年12月からの『シャ乱Q』の活動"一時凍結・休憩"後も、その親しみやすいキャラクターを生かしバラエティー番組等に数多く出演。
その他"ハロー!プロジェクト"コンサートのMCや、また『シャ乱Q』活動中からも作詞家として、多くの作品をバンド内および他のアーティストへ提供。

6月8日~6月12日の「サロンdeくにまる」のゲストは㈱ジャパネットたかた 創業者の高田明さん

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6月8日(月)「英語を学びたい」
学生の時から「英語を勉強して、英語を活かせる職業に就きたい」と、考えていたという高田明さん。念願叶って、海外と取引のある機械メーカーに就職し、数年後には、ヨーロッパに派遣されるまでになったのですが、"先を考えない性格"が災いして...。月曜日は、高田明さんが、家業であるカメラ屋さんを手伝うようになるまでを振り返ります。

6月9日(火)「ラジオショッピングとは...」
家業であるカメラ屋さんを手伝いながら、30歳で独立した高田明さん。この時、宣伝媒体としてラジオを利用したところ、予想以上にカメラが売れた...この出来事が、高田明さんがラジオショッピングに興味を持つようになったきっかけだったそうです。その後、ネットワーク拡大のために精力的に動き回る高田明さんでしたが、障害となったのが、「会社の信用」でした。

6月10日(水)「出来ることを積み上げろ!」 
「まずやってみて、問題が出てきたら、その時点で出来ることを積み上げて問題点を一つずつ潰していけばいい」。そんな高田明さんの考え方の延長線上にあったのが"自社スタジオの建設"でした。とりあえずTVスタジオの建設に取り掛かり、ショップ専門チャンネルの許可も取得。あとは放送開始を待つだけ...のはずが、社内にはテレビ番組の制作経験者がいない、技術スタッフがいない、という問題が!高田明さんは、こんな窮地をどのようにして乗り切ったのか...水曜日は、その辺りを詳しく伺います。

6月11日(木)「社長、退任」
「ショッピング番組に必要なのは『リアル』じゃないかなぁ...」と語る高田明さん。そこには、高田明流の演出が多々あるようです。もし、生放送中に携帯電話が鳴ってしまったら、リアルを大事にする高田明さんはどのような行動にでるのか?答えは、放送でご確認ください。また、後半は、今年の1月にジャパネットたかたの社長を退任なされた高田明さんの、そこに至るまでの想いをお聞きしております。

6月12日(金)「今できることしか考えない!」
最終日は、何故か、ゴルフの話に終始してしまいました。社長を退任して興味を持ち始めたゴルフ。現在は140を叩く高田明さんの目標は、来年までに90を切ること。特に練習はしてないらしいのですが、その目標は達成できる自信はあるそうです。果たしてその根拠とは? 普通に考えたら無理そうですが、高田明さんのことだからなぁ...。

<プロフィール>
昭和23年11月生まれ。大阪経済大経済学部卒業後、京都の阪村機械製作所に入社。49年に父が経営する「カメラのたかた」に入社。61年に「たかた」を設立し、社長に就任。平成2年に地元ラジオ局の通販番組に出演し、11年5月に社名をジャパネットたかたに改称した。27年に社長退任。長崎県出身。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは高橋真梨子さん takahashi_kunimaru.jpg
6月8日(月)「音楽との出会い」  高橋真梨子さんの音楽の先生はお父さん。ジャズミュージシャンだったお父さんは手製の楽譜で音楽を教えてくれました。 真梨子さんはお父さんが大好き、でもお父さんとは別居していた上に37歳で亡くなったので、結局唄を聴いてもらう事はできなかったそうです。それでも、闘病中の病室でも音のとり方を教えてくれるぐらい、お父さんは熱心に音楽を教えてくれました。


6月9日(火)「ペトロ&カプリシャス時代」 
高橋真梨子さんはペトロさんに口説かれて、いろいろな条件付きでペトロ&カプリシャスに加入します。目が出ないので条件通り博多に戻ろうかなと思っている頃、「ジョニイへの伝言」がヒットの兆しを見せ、真梨子さんはそのまま東京で活動することになります。
今66歳の真梨子さんは、若い時の歌声を聴いて、お客さんはこれを聞きに来ているの、だから崩しちゃいけないといいます。歳を取って味が出てきてもオリジナルは大切にしたいと話す真梨子さんです。

6月10日(水)「ヒット曲 桃色吐息」
高橋真梨子さんのヒット曲といえば「桃色吐息」。この曲を一言でいうと、ペトロ&カプリシャスの高橋まりがソロシンガーの高橋真梨子に変われた曲なのだそうです。
その歌い方はサラッとしています。あとに引きずるのが嫌だから、普段からサラッとするようにしていると真梨子さんは話してくれました。

6月11日(木)「売れなかった for you・・・」
今、一番歌われている高橋真梨子さんの曲といえばfor you・・・。サビを聞けば知らない人は居ないという名曲ですが、なんとこの曲、発売当時は全く売れず、オリコンのベスト100にも入らなかった曲でした。桃色吐息より前の発売だったのに、そのことさえ知られていないと真梨子さんは笑います。
この曲を歌うときは、歌詞を大事にしてほしいのだそうです。頭の、ちょっと平板な部分があるから、サビが生きると真梨子さんは話してくれました。

6月12日(金)「酒と涙と男と女」
高橋真梨子さんにとってコンサートは感謝の場。お客さんからオーラをもらうことができ、体の不調も吹っ飛んでしまうのだそうです。ニューアルバム 「クラシック」では、高橋真梨子さんが古い曲を歌っています。一曲目は「酒と涙と男と女」この曲は全体に楽器を抑えて、歌を立てた、独特の造りになっているのだそうです。

<プロフィール>
博多出身。ジャズプレイヤーだった父親の影響で、14歳からジャズの勉強を始める。
1972年、ペドロ&カプリシャスの2代目ヴォーカリストとしてデビューし、1973年、「ジョニィへの伝言」が大ヒットする。その後「五番街のマリーへ」「陽かげりの街」などのヒットをとばす。
1978年、ペドロ&カプリシャスを離れ「あなたの空を翔びたい」でソロデビュー。
1982年発売のシングル「for you...」が第11回東京音楽祭世界大会にて金賞を受賞しロングヒット。
1984年発売のシングル「桃色吐息」が大ヒット、アルバム「Triad」が第26回日本レコード大賞第1回アルバム大賞を受賞し、人気を不動のものにする。
代表曲に「ごめんね...」「遥かな人へ」「はがゆい唇」「桃色吐息」「for you...」「ジョニィへの伝言」 「五番街のマリーへ」ほか。

6月1日~6月5日の「サロンdeくにまる」のゲストはプロフィギュアスケーター鈴木明子さん

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6月1日(月)「フィギアスケートとの出会い」
1985年生まれの鈴木明子さんは、習い事のひとつとしてフィギュアスケートを始めました。フィギュアスケートが楽しく練習するというよりは氷の上で遊ぶという感覚だったそうです。合宿に参加したことをきっかけに、長久保裕コーチと出会います。たくさんの選手と一緒に練習する中で、受け身ではなく貪欲に学ぼうという気持ちが芽生え、出来なかったジャンプも飛べるようになりました。初日の今日はフィギアスケートを始めた頃の話を伺いました。

6月2日(火)「2度のオリンピック」
明子さんは24歳の時にバンクーバーオリンピックに出場8位入賞をします。これが最後のオリンピックだと思っていたにも関わらず、4年後ソチオリンピックにも出場し個人戦のほか団体戦のキャプテンも務めます。選手村では村上佳菜子選手、浅田真央選手とずっと一緒に過ごしていたそうです。その後、世界選手権出場を悩んでいた明子さんに、村上選手と浅田真央選手が掛けた言葉とは・・・。

6月3日(水)「病気との戦い」
明子さんは大学生の時に摂食障害になり、1年間、スケートはおろかまともな生活もできなくなります。フィギアスケート選手は太ってはいけないと、自分でプレッシャーを掛けてしまい、食事コントロールがエスカレートし、お肉や油が食べられなくなってしまい、32㎏まで痩せてしまいます。今日は壮絶な闘病生活と、復帰に至るきっかけをお話頂きました。

6月4日(木)「プロフィギュアスケーターとして」 
現在、プロフィギュアスケーターとして活躍する明子さんですが、オリンピックというのはゴールではなく通過点だったのかな、と振り返ります。今はプロとして観客を楽しませなくてはいけない、失敗しちゃいけないというプレッシャーを感じているそうです。競技時代からストイックで完璧主義な明子さんの、胸中を伺いました。

6月5日(金)「プライベートと今後の夢」
最終日の今日は、現在30歳の明子さんのプライベートに迫ります。理想の男性像は?そして結婚観は?競技としてのスケート時代が比較的長かった分、プロスケーターとしてはそんなに長くはないとは思いつつ、滑れるうちは滑りたいと語る明子さん。スケートに育てられたのでこれからはスケートで恩返ししていきたいそうです。そして、昔から抱いている夢とは・・・。

<プロフィール>
愛知県豊橋市出身。1985年生まれ。161センチ。東北福祉大学卒。6歳からスケートをはじめ、15歳で全日本選手権4位となり注目を集める。10代後半は体調を崩し、大会に出られない時期もあったが、2004年に見事復帰。2006~2007年ユニバーシアード冬季大会で優勝。2009~2010グランプリシリーズ(中国)初優勝。世界のトップ選手の仲間入りを果たす。同年グランプリファイナルでは3位、全日本選手権では2位となり、念願のバンクーバーオリンピックの代表の座を勝ち取った。

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