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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

10月12日~10月16日の「ラジオ サロン de くにまる」のゲストは大野雄二さん

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10月12日(月)「音楽との出会い」
大野雄二さんは戦前生まれ、熱海の旅館の子として生まれました。終戦とともに旅館は連合軍に接収されたときに、お客さんがジャズのような洋楽のレコードを持って泊りに来るようになりました。これが大野さんとモダンジャズとの出会いです。ウキウキするような音楽だったと大野さんは話します。
高校の学園祭で同級生が演奏しているのを見て、自分も演奏して良いんだと気付いた大野さんはクラスメートを集めてジャズバンドを作ります。当時は見よう見まねで、ドリス・デイなどを演奏していた大野雄二さんでした。

10月13日(火)「音楽家生活の始まり」
高校でそれなりに演奏をしていた大野さんは大学でも音楽サークルに所属します。ここで、譜面をこう書けば楽器はこう演奏するという、作曲の手法を大野さんは自分で学んだのだそうです。
大野さんは大学2年の頃から外でも演奏をするようになりますが、その後、CM音楽の作曲を始めます。犬神家の一族の愛のテーマがJAZZピアニストの曲とは思えない(邦丸さんが)訊いてみたところ、その頃にはもう充分ありとあらゆる分野の曲を書いていたからと、笑って大野さんは話してくれました。

10月14日(水)「作曲家の道へ」
JAZZ奏者だった大野雄二さんが作曲家になったのは、JAZZの世界の評価に失望したからでした。前衛的な海外の演奏家は基本もしっかりしている。だけれど日本の演奏者は基本的な演奏がうまくない。そこで土台の部分に力を入れようとした大野さんは「マンネリ」という評価を受けてしまった、これに失望したと大野さんは話します。そして、CM音楽の作曲の仕事をするようになった大野さんは、多い時で年間200本の曲を書くまでになりました。売れっ子作曲家、大野雄二の誕生です。

10月15日(木)「ルパン三世のテーマ」 
CM音楽を作っていた頃、大野雄二さんはドラマの音楽も作っていました。石立鉄男シリーズがその代表的なものですが、サスペンス系のドラマの音楽を作っていた時のプロデューサーがルパン3世を手掛けるというときに大野さんは抜擢されます。
無国籍、サスペンス、コメディの要素を含んだルパン三世の音楽は、それまでの7年間の積み立てをうまく活かすことができたと大野さんは話します。
映画「人間の証明」の主題歌も大野さんの仕事です。この時は使われるシーンを想定して、画面に合う曲を作ってみたら、ロックのバラードが出来上がったのだそうです。

10月16日(金)「大野雄二さんのこれから」 
最近、大野雄二さんはまたジャズのライブを始めました。完全に止めたのが気が付いたら月に2回。お客さんが居るところやるのがうれしい、ライブはやっちゃた者勝ちなのもいいと大野さんは話します。
でも、そんな大野さんは新しいルパン三世のアニメシリーズのためになんと249曲を書きました。絵を見てしまうと刺激になってしまって、また曲を足したくなるのだそうです。
そんな大野さんにこれからを伺ってみたのですが、あんまりない・・・とのこと。そんな大野さんにラジオ番組のテーマ曲について尋ねてみた処、やっぱり予想通りの答えが返ってきました。

<プロフィール>
小学校でピアノを始め、高校時代にジャズを独学で学ぶ。慶應大学在学中にライト・ミュージック・ソサエティに在籍。藤家虹二クインテットでJAZZピアニストとして活動を始める。その後、白木秀雄クインテットを経て、自らのトリオを結成。
解散後は、作曲家として膨大な数のCM音楽制作の他、「犬神家の一族」「人間の証明」などの映画やテレビの音楽も手がけ、数多くの名曲を生み出している。
リリシズムにあふれた、スケールの大きな独特のサウンドは、日本のフュージョン全盛の先駆けとなった。その代表作「ルパン三世」「大追跡」のサウンド・トラックは、70年代後半の大きな話題をさらった。2015 年10月に日本テレビ、読売テレビほかで放送される「ルパン三世」新テレビシリーズの音楽を担当。

10月5日~10月9日の「ラジオ サロン de くにまる」のゲストは竹内力さん

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10月5日(月)「上京物語」
東京に出ていた先輩と偶然空港で出会ったことがきっかけで、大分からバイクで上京し、その先輩の東京の家を訪ねて行きます。東京でバンドをやっていると言ったいた先輩は、実はライブハウスでのウェイターだったのだそうです。そのバイト先のライブハウスについていったら、いつの間にかいついてしまい、1週間で大分に帰るつもりが、結局、東京で共同生活を始めることになっていくのです。

10月6日(火)「撮影終わってリーゼント」
ライブハウスでウェイターのバイトをしていたら「役者にならないか?」と声をかけられた竹内さん。その後、2作同時映画デビューを果たします。2枚目トレンディー俳優として売り出しましたが、とても窮屈だったのだそうです。サラサラヘアーで撮影が終わったら、リーゼントにすぐに戻していたのだそうです。メイクさんも「どうして撮影終わったのに整髪剤が必要なの?」と不思議がっていたそうです。Vシネマの黎明期についての話は必聴です。

10月7日(水)「ミナミの帝王で不動の地位」
難波金融伝 ミナミの帝王のヒットで、その後の撮影では次第に自分の意見も通るようになり、スタイルが確立していきます。一般の方からはトレンディー俳優からイメージが変わっていったねと言われたようですが、心の中では「素の姿に戻っただけ」と思っていたそうです。地元の仲間も「戻ったな」といっていたそうです。

10月8日(木)「社長としての思い」
役者の他に、映像制作会社の社長でもある竹内さん。制作の現場にはあまり顔を出さないそうです。行くと周りの人が緊張してやりずらそうなので。作りたい映画は「世界に出せる感動作」アクションでハリウッドにはかなわない。だからストーリーで勝負する。台本には1年以上時間をかけて作り上げる。制作に関わるその熱い思いを語っていただいています。

10月9日(金)「桜のように」
とあるパーテイーで歌手の山本譲二さんと出会い、親交が始まります。ある日寿司屋で「いつか自分の歌で勝負してみたい」という思いを話します。するとその翌日、山本譲二さんがレコード会社と吉幾三さんを紹介し、あっという間に曲が出来上がります。そのスピードの速さに驚いたと言います。

<プロフィール>
1964年、大分県出身。銀行員を経て、86年に映画『キャバレー』『彼のオートバイ、彼女の島』で映画デビュー。以降、トレンディ俳優として活躍。その後オリジナルビデオへ主戦を移し、『難波金融伝・ミナミの帝王』や『仁義』シリーズなど"Vシネマの帝王"として話題に。2000年代後半からは再びTVドラマや一般映画にも出演。音楽活動ではソロのほか、2007年より"双子の弟"RIKI名義としても作品を発表。また、ファッションブランドも経営するなど、活動は多岐にわたる。2015年9月「桜のように」をリリース。

9月28日~10月2日の「ラジオ サロン de くにまる」のゲストはサンプラザ中野くん

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9月28日(月) 「坊坊主結成!」
デビュー30周年を迎えたサンプラザ中野くんは、お笑いコンビ「バイキング」のツッコミである小峠英二さんとユニットを組みます。
その名も「坊坊主(ボーボーズ)」。
サンプラザ中野くんが小峠さんに声をかけたきっかけは、2人がそっくりだというインターネット上の評判でした。
小峠さんの反応、そしてレコーディングを終えたサンプラザ中野くんの手ごたえは・・・。

9月29日(火)「中野サンプラザと武道館」
サンプラザ中野くんの名前の由来である「中野サンプラザ」は解体が決まりました。
中野のランドマークが無くなることを残念がる中野くんですが、実は、中野サンプラザでは一度もライブをしたことがないそうです。
そして、爆風スランプの名曲「大きな玉ねぎの下で」。
武道館でのライブを前に、ある理由からこの曲が作られました。

9月30日(水)「健康へのこだわり」
自他ともに認める健康マニアのサンプラザ中野くん。
最近は吸引するタイプの水素に凝っているそうです。
食事にもこだわり、ベジタリアンで1日1食しかとりません。
また、声を大事にするため、エアコンも使いません。
熱帯夜に暑さをしのぐために使うのは、大きな保冷剤です。

10月1日(木)「個人投資家としての一面」
サンプラザ中野くんは、個人投資家として15年のキャリアを持っています。
株式を持つことで、経済を通じて社会を見ることができる、その視点を曲作りにも生かしていきたいと力説されていました。
また、ジョン・レノンの「イマジン」のすごさや、21世紀は民衆の時代という分析など、現代社会に独自の視点から切り込みます。

10月2日(金)「坊坊主とこれから」
爆風スランプの「RUNNER」は今も高校野球の応援で演奏されています。
最近では小学生の間で替え歌が流行っているそうです。
曲が長く愛されるように、サンプラザ中野くんも長く歌い続けたいと力説していました。

<プロフィール>
1984年、爆風スランプのヴォーカルとしてデビュー。「Runner」、「大きな玉ねぎの下で はるかなる想い 」などの多数のヒット曲、パワフルで奥深いサウンド、ユニークで斬新なパフォーマンスで支持を得る。94年にバンド活動を休止後は、ソロの歌手として活動をはじめる。一方では、マネーの造詣も深く、ラジオ出演、雑誌、ブログ、著書の執筆も行っている。また、西洋医学のクラシカルホメオパシーのホメオパスの資格の取得、プライベートではランナーとして、健康維持についても詳しい。

9月21日~9月25日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは風見しんごさん

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9月21日(月)「 星野仙一に砂を投げつけた男 」
広島出身ということで、当然、広島カープファンの風見しんごさん。今日は、広島カープが優勝した年に起こった「広島カープファンと中日ドラゴンズ選手との乱闘事件」について、その乱闘に参加していた風見しんごさんの、臨場感あふれるレポートを中心にお届けします。興奮した大人と一緒にグランドに雪崩れ込んだ、少年時代の風見しんごさん。気が付くと目のまえには、あの星野仙一さんが! そんな星野仙一さんに砂を投げつけた風見しんごさんの運命はいかに?!

9月22日(火)「 哀川翔さんとの出会い 」
今日は、「星野仙一に砂を投げつけた事件」の後日談から...。そして、芸能界入りのきっかけとなった、哀川翔さんとの出会いについてお話していただきました。初対面で、「これからエレファントマン見に行くんだけど...お前も行くか?」と映画に誘われた風見しんごさん。映画館でみんなが泣いている中、涙を流さなかった風見しんごさんに対して哀川翔さんは「お前、なんで泣かねぇの?」と、一言。泣けなかった理由はちゃんとあったのですが、その理由が...。 詳しくは放送で!

9月23日(水)「 欽ちゃんの週刊欽曜日 」 
テレビのバラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」のレギュラーとして芸能界デビューした風見しんごさん。今日は、「欽ちゃんの週刊欽曜日」のオーディションにおける裏話などを中心にお話を伺っています。どうやら、萩本欽一さん、放送作家の大岩賞介さん、風見しんごさん...三者三様の勘違いが複雑に絡みあった結果の"合格"だったようです。後半は大ヒット曲「僕 笑っちゃいます」、「涙のtake a chance」に関するエピソード!

9月24日(木)「 家族について 」
今日は、風見しんごさんのプライベート...奥様のこと、交通事故により10歳で亡くなられた娘さんのこと。

9月25日(金)「 広島を想う 」
広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下で、被爆体験を語り継いだ故・沼田鈴子さんをモデルにした映画「アオギリにたくして」に出演している風見しんごさん。ご自分も被爆二世ということで、この映画への出演にはさまざまな想いがあったそうです。今日は、「命」について考えてみたいと思います。

<プロフィール>
TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』でデビュー。テレビ、映画、舞台など幅広い分野で活躍。主な出演作は、日本テレビ『マジカル頭脳パワー』『伊東家の食卓』、TBS『噂の!東京マガジン』『土曜ワイド劇場「タクシードライバーの推理日誌シリーズ」』など。長野冬季オリンピックでは、聖火ランナーとして広島市内を走った。また、交通安全運動キャンペーンや講演活動も行う。2014年より2年連続"広島東洋カープ公認応援隊員"に任命。応援歌(MAZDA Zoom-Zoomスタジアム放映中)他 ポスター、チラシなどで応援活動をしている。

9月14日~9月18日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは作詞家の喜多條忠さん

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9月14日(月)「もう大阪には戻らない」
神田川の作詞などで活躍されている喜多條さん。実家は大阪のこんぶ問屋さん。子供のころは病弱でなかなか外で遊べない少年でした。その後、病状は回復します。大学受験の時に受験願書の書類の中の戸籍を見たところ、やさしかった親戚のおばさんが実は母だったということがわかります。びっくりして受験のため上京する新幹線の中で泣いたそうです。そこで、もう大阪に戻らないと決心したそうです。

9月15日(火)「人形劇と同棲時代」
早稲田大学に入学。サークル活動は人形劇のサークルに入ったのだそうです。理由は童話が書きたかったから。人形劇をやることになったのですが背が高いので、舞台の下で隠れきれない。ものすごい体勢で人形を操っていたそうです。学生運動にも参加。その頃同棲した恋人がいたのですが、ある日、カレーを作っている彼女の後ろ姿にある思いが募ってきます。それが後に名曲「神田川」につづられることになります。

9月16日(水)「文化放送との出会い」
大学を退学した喜多條さんは、いろんな仕事をし始めます。
飛び込みのセールルスの仕事をしていた喜多條さん。写真パネルを店舗に置いてもらうのが仕事。営業成績は一番でした。ある日、文化放送に人形劇サークル時代の先輩がいるのを思い出し訪ねていきます。文化放送で面談したところ、先輩から放送台本を書かないかと誘われます。月給50万円を振り捨てて翌日から文化放送に出入りするようになります。初めての給料は2万円でした。失敗した時の立ち直り方エピソードは必聴です。

9月17日(木)「この川は神田川」
文化放送で放送作家をしていた喜多條さん。ある日、原稿を書いているとそれを覗き込む気配がする。振り返ると南こうせつさん。「原稿が書くのが早いですね。そのスピードなら僕の曲の詩もあっという間に書けますよ」興味もあって試しに書いてみたらすぐに曲ができた。3曲目の作詞を頼まれますが締切がその当日。でも学生の頃の同棲時代をを思い出し、「神田川」の詩が出来上がります。こうせつさん、すぐに曲をつけます。その時間なんと2分ほど。あっという間の出来事でした。
9月18日(金)「赤ちょうちん」
喜多條さんの代表曲の一つ「赤ちょうちん」についてのお話です。仕送りをすぐに古本代に使ってしまうのでお金がなかった。食費を切り詰めるのでキャベツばかりを食べていたそうです。大学の近くのおでんの屋台のおじさんのエピソードもあり、いつからは出世払いをと心に誓った喜多條さん。でもある時からぱったりと姿を見せなくなったのです。おでん屋さんへの思いを募らせ名曲「赤ちょうちん」が出来上がるのです。

<プロフィール>
1947年大阪生まれ。かぐや姫に提供した「マキシーのために」で作詞家デビュー。73年、「神田川」がミリオンセラーとなる。「メランコリー」(梓みちよ)、「やさしい悪魔」(キャンディーズ)、「凍て鶴」(五木ひろし)など数多くの歌手に作品を提供。
主な著作に「この街で君と出会い」「ホーキを忘れた魔女たち」(立風書房)、「女房逃ゲレバ猫マデモ」(幻戯書房)など。
現在、日本作詞家協会常務理事も務める。

9月7日~9月11日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは奥田瑛二さん

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9月7日(月)「俳優を目指して東京へ?」
1950年、愛知県にお生まれになった奥田瑛二さんは、小学校5年生の時に既に俳優になろうと思っていたそうです。高校3年生の時に、俳優になるために東京の大学に行きたいと告白したところ市会議員だった父親は大反対!そこで「政治家になるために東京に出て勉学に励み地元に戻って来る」と、説得したところ、やっと許してくれましたが、その条件が衆議院の先生の家に住むことでした。しばらくは書生として、その先生のお手伝いをしていましたが、21歳の時にその家を飛びだしてしまいます。初日の今日は、その時の心境を伺いました。

9月8日(火)「俳優めざして第一歩」
21歳で議員さんの家を飛び出した奥田さんは、劇団に入ろうとしますが、タイミングが悪く入団試験を受けることさえ出来ません。途方に暮れていた時に、高校の先輩に俳優の天知茂さんがいたことを思い出します。弟子にしてもらおうと自宅まで押しかけますが天知さんに会うことは出来ず、奥様には諦めるよう諭されます。しかし、あきらめきれず何度も何度もご自宅に通い奥様にお願いし続けるうちに、その熱意が伝わったのか天知さんの事務所に行くように言われるのですが・・・。

9月9日(水)「俳優としてデビュはーしたものの・・・」
子ども向け番組「円盤戦争バンキッド」の主役として念願の俳優デビューを果たします。
しかし「子供向け番組」つまり「じゃり番」と馬鹿にされ、次のオーディションでは書類を見ただけで落とされてしまったそうです。その後、全く仕事は入らず家賃も払えず、とうとうアパートを追い出されてしまいます。そんな時、友人に誘われて行った誕生日パーティーで出会った女性が、後に奥様となる安藤和津さんですが、その時のエピソードをお話頂きました。

9月10日(木)「男女7人夏物語」
なんとか俳優として仕事が来始めた奥田さんにTVドラマ「男女7人夏物語」に出演しないかというオファーが来ます。しかし共演者が明石家さんまさん、片岡鶴太郎さんと聞き「お笑いの人とは一緒に仕事は出来ない」と断ってしまいます。しかし大女優である大竹しのぶさんが出演するからと説得され、引き受けることになりました。トレンディドラマの元祖とも言われるドラマの制作秘話をたっぷり伺いました。

9月11日(金)「主演映画『赤い玉、』」
9月12日から奥田瑛二さんの主演映画「赤い玉、」が公開されます。この映画を通して、団塊の世代を過ぎた大人たちへどのようなメッセージを伝えたかったのでしょうか?そして「赤い玉」とは?映画の見所や奥田さんの思いなど、たっぷりと伺いました。お孫さんが生まれ、おじいちゃんになった奥田さん。最後にはもちろん「これからやりたいこと」についてもお話を伺いました。

<プロフィール>
1979年、にっかつ『もっとしなやかに もっとしたたかに』(藤田敏八監督)で主役に抜擢され、頭角を表わす。
1986年『海と毒薬』(熊井啓監督)で毎日映画コンクール 男優主演賞受賞。
1989年『千利休・本覚坊遺文』(熊井啓監督)日本アカデミー主演男優賞。
1994年『棒の哀しみ』(神代辰巳監督)ではキネマ旬報、ブルーリボン賞など9つの主演男優賞を受賞する。
2001年、映画『少女~an adolescent』を初監督。以降『るにん』『長い散歩』『風の外側』と作品を送りだし、2006年『長い散歩』は第30回モントリオール世界映画祭グランプリ・国際批評家連盟賞・エキュメニック賞の三冠を受賞。
2013年、監督最新作『今日子と修一の場合』(安藤サクラ・柄本佑主演)が公開。

8月31日~9月4日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは新垣隆さん

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8月31日(月)「音楽との出会い」 
新垣隆さんが音楽に出会ったのは4歳の時。お兄さんが通っていたピアノ教室にくっついていって自分も通うようになったのでした。後に学校の行事等でピアノ伴奏をするようになった新垣さんは、何時しか唄う事は苦手になり、演奏一筋となったのだそうです。
小さい頃は野球選手、レーサー、棋士などになりたかった新垣さんですが、中学、高校のころから音楽の道に進むことを考えるようになります。なんと、音符に魅せられたと話す新垣さんです。

9月1日(火)「ゴーストライター」 
音大に進んだ新垣隆さんは、そのまま大学に残って非常勤講師になります。ちなみに学生時代の新垣さんは「粗削りだけどやる気はある」という評価でした。
そんな新垣さんにゴーストライターの話が来ます。最初は映画音楽の手伝いをする助手という事だったので引き受け、面白いと思っていた新垣さんですが、相手の要求が変わった頃からこれは困ったなと思うようになりました。その要求とは・・・。

9月2日(水)「会見を決意して」
ジョン・ウィリアム氏が作ったスターウォーズのオーケストラ演奏に魅力を感じて映画音楽を手がけたかった新垣さんですが、さすがになんとかしないといけないと思うような出来事が起き続けます。そこでノンフィクションライターの神山典士(こうやまのりお)さんの力も借りて、新垣さんはゴーストライターをやっていることを公表しました。
もうこれで音楽の活動はできないだろうなと思った新垣さんですが、同時に、悪いのは自分であり、これでやっとピリオドを打てるという気持ちもあったのだそうです。

9月3日(木)「音楽家としての再スタート」 
ゴーストライターであることを公表した新垣さんに、周囲の人たちは小さなコンサート作曲や演奏の仕事を廻してくれました。「何やってんだよと」自分でも思っている中、音楽仲間に救ってもらったと話す新垣隆さんです。
講師を辞めないでほしいという学生の署名活動もありました。ありがたかったけれど、もう、いつものようには授業に立てないと新垣さんは講師を辞めることを決意します。
そんな新垣さんの最後の授業は・・・・、あっけないものでした。

9月4日(金)「プライベートについて」
防虫剤のコマーシャルではオリジナル曲、虫さんにささげるオマージュを演奏しています。意外と曲が攻撃的な新垣隆さんですが、普段は地味、服も着たきりの生活をしています。サンダル履きでフラッと出歩けていた頃が懐かしいとも話す新垣さんは、音楽をやっているか、食べているか、寝ている時に幸せを感じるのだそうです。
10年後はどうなっていると思うのかを訊いてみたのですが、こちらも予想通りの答えでした。いつも変わらない新垣隆さんです。

<プロフィール>
1970年東京に生まれる。4歳よりピアノを始め、ヤマハ音楽教室や千葉県立幕張西高校音楽科などを経て、1989年桐朋学園大学音楽学部作曲科に入学。在学中、若き同志による型破りな音楽に視覚的な要素を加えた演奏会「冬の劇場」に参画。同学科を卒業後、作曲家ピアニストとして多岐にわたり精力的に活動する。ピアニストとしては数々の演奏家たちと同じ舞台に立つ他、サイレント映画の伴奏も数多くこなし、そのエンターテイメント性と共に近代を検証するひとつの方法の提示としても評価され注目を集めている。作曲家としては、昭和期における作曲家達の研究に従事し現代音楽を主体としているが、ジャンルはその枠におさまらない。映画やCM音楽の作曲も手掛けている。教育者としては、2013年度まで母校の非常勤講師を約20年にわたり務める他、アマチュアのためのピアノコンペティションの企画・伴奏や八千代交響楽団の指揮を務めるなど、多くの人々との触れ合いを通じてクラシック音楽をより身近なものとして楽しめるよう尽力している。最近ではテレビ・ラジオ番組に出演し、親しみやすいキャラクターとして今までとは違う一面も見せ輝きを増している。作曲を南聡、中川俊郎、三善晃、ピアノを中岡秀彦、河内純、夢藤哲彦、森安耀子、指揮法を高階正光の各氏に師事。

8月24日~8月28日の「ラジオサロン de くにまる」のゲストは、作曲家の弦哲也さん

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8月24日(月)「歌手になる夢」
少年時代、古賀メロディのギターの音色に憧れて、楽器店に並んでいるギターを外から眺めながら、いろいろと空想していたという弦哲也さん。そんなある日の朝、目を覚ますと枕元には、欲しくてたまらなかったギターが!
初日の月曜日は、弦哲也さんとギターとの出会い。そして、歌手になる夢を後押ししてくれた中学校の担任の先生とのエピソードなどを伺っています。

8月25日(火)「名ばかり歌手、田村進二」
作曲家の大沢浄二先生のもとに弟子入りして4年後、田村進二としてレコードデビューを果たしたものの、デビュー曲は鳴かず飛ばず。その後の曲の評判もイマイチ。その為、芸名を弦哲也に変えて再デビューをするのですが...。
火曜日は、「歌手というのは名ばかりだった」という、弦哲也さんがまったく売れなかった時代を振り返って頂きます。

8月26日(水)「歌手から作曲家への転身」 
「歌手」という表舞台の仕事とは縁がなく、某音楽番組の裏方の仕事をしていた時に北島三郎さんから声をかけられ、
コンサートに同行することになった弦哲也さん。「北島三郎さんの前座で歌える!」と喜んだのも束の間、北島さんから頼まれたのは意外にも!
水曜日は、弦哲也さんが歌手から作曲家への転身を図るきっかけとなった、北島三郎さんとの出会いについて。

8月27日(木)「天城越え」
作曲家として新しい人生を歩み始めた弦哲也さん。しかし、歌手という夢も完全には捨て切れず、自分の進むべき道がわからなくなってしまった時期があったそうです。そんな時に手掛けたのが石川さゆりさんの代表曲「天城越え」でした。
木曜日は、「天城越え」をめぐる、作詞家:吉岡治、作曲家:弦哲也、歌手:石川さゆり...三人の真剣勝負をたっぷりとお楽しみ下さい。

8月28日(金)「音楽生活50周年」
最終日は、「近所に住んでいたので、小さな頃から知っていた」という水森かおりさんとのエピソードを中心にお話を伺っています。伸び悩んでいた水森かおりさんに、弦哲也さんが課した試練とは?
そして、後半は「音楽生活50周年」を総括していただいております。

<プロフィール>
1947年千葉県生まれ。1965年田村進二の芸名でデビュー。76年、弦哲也のペンネームで棋士内藤国男の「おゆき」で作曲家としてデビュー。名前の由来はギター好きだったことに由来する。78年NHK『あなたのメロディー』にグランプリ歌唱シングル「与作」を発表。歌手と作曲家のふたつの道を歩く。以後、石川さゆり「天城越え」、川中美幸「ふたり酒」「二輪草」など、女性演歌を中心にヒット作を量産。

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そして、今週はSPウィークということで、「サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、一青窈さん。 hitoto_kunimaru.jpg

8月24日(月)「詩の好きな女の子」  
一青窈さんは台湾と日本のハーフ。お父さんの影響で、本が好き、詩が好き、手紙や日記も好きという文章好きだった一青さんはいろいろな文章を書きつづる子供でした。特に詩を書くのが好きで、それは今も変わらないと窈さんは話します。
病床のお母さんがミュージカルを見て元気を取り戻したのを見て、窈さんは生の音楽の持つ力に気付きます。詩の好きな女の子が歌を好きになる瞬間でした。
曲はハナミズキ。母校の後輩のコーラス付きです。

8月25日(火)「日本、台湾にソウルを探して」
ブラックミュージックを唄っていた一青窈さんは、デビューしないかと声を掛けられます。そして、「君のソウルは台湾に有るはず」と、指摘された窈さんは、改めて台湾のいろいろな楽曲を聴きはじめたのでした。
言葉の持つ美しさが好きな窈さんは、もらい泣きという言葉も好きです。とある事情でこの曲でのデビューには不安をもっていたと話す窈さんですが、だんだん言葉は変わっていってしまう中で自分は美しい言葉を守っていきたいとも話してくれました。
曲はそのもらい泣き。行き詰ってしまった友人との出来事を唄っています。

8月26日(水)「作詞について」
詩人、一青窈さんは二十歳の頃、詩の言葉がどんどん溢れ出てきました。それでフリーペーパーを作った事もあるぐらい沢山の言葉があって、今それらは唄に活きているのだそうです。フリーペーパーの反響は無かったけれどと窈さんは笑います。
言葉が出ないときは?と伺うと、そんなときはインプットに励む。そうすると必ず何かがやってくるのだそうです。もしかしたら、早くに亡くなった両親がいろいろと投げてくれているのかも、きっと唄も聞いてくれていると話す一青窈さんでした。
曲江戸ポルカ。タイトルの江戸というのは歌舞伎からで、そのフレーズが曲に活きています。そしてポルカは・・・、ちょっと冗談みたいな話です。

8月27日(木)「歌と平和」 
一青窈さんのハマミズキは、実は9.11に巻き込まれた友人への唄。ラブソングととらえて貰っても構わないけれどと窈さんは笑いますが、同時に、歌が平和につながるのならそれもいいと、思いを語ってくれました。
窈さんは「人と歌」という企画をやっています。誰かが誰かに喜んでほしい時、それを歌で手伝うという企画ですが、この企画ではいつも感動で泣かされると話す窈さんです。
曲は一思案。窈さんのお母さんが大好きな井上陽水さんに曲をつけてもらったのだそうです。

8月28日(金)「アルバム ヒトトウタ」
今、一青窈さんのお腹には赤ちゃんが居ます。今なら子育てをできるだけの経験値があるのだろうと神様が思ったに違いないと言う窈さんですが、楽しみな事もあるそうです。
一青窈さんは先月、名曲のカバーアルバムを発表しました。みんな名曲なので、自分と違う歌い方をしているところはとことんまねしてみた、そのアーティストが降りてくるのを待つ、イタコさんのような心境だったと笑う窈さんです。
曲はジュリアン。歌手としても母としても奥居香さんを尊敬していると話す窈さんは、信じられない行動をとっていました。

<プロフィール>
東京都出身。台湾人の父と日本人の母の間に生まれ、幼少期を台北で過ごす。
慶應義塾大学 環境情報学部(SFC)卒業。在学時、アカペラサークルでストリートライブなどを行う。
2002年、シングル「もらい泣き」でデビュー。
翌年、日本レコード大賞最優秀新人賞、日本有線大賞最優秀新人賞などを受賞。NHK紅白歌合戦初出場。
5枚目のシングル「ハナミズキ」、そして初のベストアルバム「BESTYO」が大ヒットを記録。
2004年に映画「珈琲時光」、2008年に音楽劇「箱の中の女」で主演をつとめ、
2013年に初の詩集「一青窈詩集 みんな楽しそう」を発売するなど、歌手の枠に捕らわれず活動の幅を広げている。

8月17日~8月21日の「サロンdeくにまる」のゲストはラサール石井さん

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8月17日(月)「芸能界に入るまで」
ラサール石井さんが芸能界に憧れるキッカケは5歳の頃、「おとみさん」をテーマにしたコメディや大村崑さんの「頓馬天狗」だったそうです。
芸人を目指していたのですが、自分よりも面白い人間が沢山いるという現実に、一時は諦めるのですが、放送作家の経験を経て、やっぱりお笑いがやりたいと、テアトルエコーの養成所に入り、そこで「コント赤信号」の面々に出会うのでした。

8月18日(火)「コント赤信号」
ストリップ劇場からスタートした「コント赤信号」。
渡辺正行さんがリーダーになったいきさつや、定番のコント「暴走族」が生まれたエピソードなどお話いただきました。
また人気テレビ番組「笑ってる場合ですよ」に出演し、一躍人気者となった「コント赤信号」ですが、そんなに実感が無かったという理由もお聴きしています。

8月19日(水)「こち亀への思い」
アニメ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉の声を担当されていたラサール石井さん。
元々、漫画だけしか資料がなく、声を当てる時も探り探りだったそうです。
放送が始まった当時、視聴者からは賛否両論の声があり、戸惑いもあったそうですが、現在は漫画を読んでいる人たちの脳内には、自分の声で再生されている、定着してよかったと感じているんだそうです。
「ひとつのキャラを持っている事が幸せなことだ」というラサール石井さんの「こち亀」への思いをお話いただきました。

8月20日(木)「ラサール石井と勉強の日々」
実は学生の頃に東京大学を受験していたラサール石井さん。
結果的には、落ちて早稲田大学に通う事になるのですが、時は流れて2010年、間寛平さんがアースマラソンにチャレンジする事に触発され、再び東京大学の受験にチャレンジし始めるのでした。
今日は、ラサール石井さんの勉強方法やその実態についてお話をお聞きしました。

8月21日(金)「ラサール石井さんと奥様の出会い」
2012年、ラサール石井さんは、32歳年下の奥様とご結婚され話題となりました。
出会って4か月で結婚というスピード婚だった訳ですが、奥様との馴れ初めや、結婚生活について惚気ていただきました。
そして、11月13日から始まるラサール石井さんが原案・作詞・演出を務めるミュージカル「HEADS UP!」について、
どの様な舞台なのか詳しくお伺いしました。

<プロフィール>
早稲田大学第一文学部在学中に劇団テアトル・エコー養成所に入所。その後、1期下の渡辺正行、小宮孝泰と共に、「コント赤信号」を結成し、一世を風靡する。2004年『ウォッチ』、2005年『イブニング・ファイブ』で司会を務める。舞台・演劇活動にも力を入れ、喜劇俳優にとどまらず、脚本・演出も数多く手がけている。主な出演作品に、NHK『大河ドラマ「元禄繚乱」』、日本テレビ『世界まる見え!テレビ特捜部』、TBS『3年B組金八先生』、テレビ朝日『目撃!ドキュン』、映画『ゲロッパ!』『アンラッキーモンキー』『ロマンス』など。長寿番組であるアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』主人公・両津勘吉役の声優を務めていたことでも有名。

8月10日~8月14日の「サロンdeくにまる」のゲストは音無美紀子さん

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8月10日(月)「音無さんの少女時代」 
音無美紀子さんは6人姉妹の4番目。服はお下がりがあたりまえという大家族ならではの育ち方をしました。お寿司を取ればわっと飛びつく、お弁当は良いものから順番に持っていってしまう、姉妹間の競争の激しい家庭でもありました。
そんな音無さんは小さい頃からテレビっ子。そしてそのテレビに映る側になりたいと考え、演劇ごっこなどで遊ぶ子供でもありました。中学を卒業するころには宝塚に入りたいと思う音無さんでしたが、結局その道に進むことはありませんでした。それは・・。

8月11日(火)「芸能界入りのきっかけ」 
音無美紀子さんは高校生の時に劇団若草(わかくさ)に入ります。新聞で募集広告を見かけて応募して合格したのですが、その前にお母さんの知り合いの地井武男さんから、ここはいい劇団だという話を訊いていたのも若草を選んだ理由だそうです。
その後、音無さんはNHKの連続テレビ小説「おはなはん」でデビューします。もともと女学生の一人として出演することになったのですが、途中で抜擢されて歌を唄う事になります。何でも良いからと言われて音無さんはとんでもない唄を歌います。見事なリベンジでした。

8月12日(水)「旦那様との出会い」 
21歳の時にTBSの連続テレビ小説「お登勢」で主役デビューをした音無美紀子さんでしたが、このとき、もう一つ出会いがありました。旦那様、村井国夫さんとの出会いです。もともとアングラの芝居で村井さんに注目していた音無さんはチャンスとばかりいろいろ話しかけたのだそうです。
村井国夫さんは遊び好き。でも、あまり気にしなかったと音無さんは話します。ですがやはり、これはちょっとなぁと思う事もあったのだそうです。そして、その解決策は意外な方法でした。

8月13日(木)「病気を乗り越えて」 
38歳の時、音無美紀子さんは乳がんを見つけてしまいます。初めは小さなしこりだったものを放っておいたら手を上げると引きつるようになり、急いで病院に行ったそうです。見かけをよりも確実性を取って全摘出をした音無さんでしたが、これで気持ちが弱くなってしまいました。
気持ちを持ちなおそうと受けた仕事で声が出なくなり結局ドタキャン。リハビリのつもりでいたのに最悪の結果となってしまった音無さんは鬱を患ってしまいます。このとき支えになったのは旦那さんの村井さんからの優しい言葉でした。

8月14日(金)「これからの音無美紀子さん」
音無美紀子さんが大病を患った事で、旦那さんにも変化がありました。ちゃらんぽらんに生きていた自分が変わった、病気になってくれてありがとうと、村井国夫さんはテレビのインタビューで答えています。
音無さん自身も生きている事の意味を改めて知ることができたと話してくれました。東日本大震災の被災者の方を励ますために始めた「歌声喫茶」の発想もここから生まれたのだそうです。
そんな音無さんはこれからの目標を話してくれました。いろいろな役をこなしてきた音無さんが一つだけ関わっていないものがあるのだそうです。

<プロフィール>
演後、1971年、TBS『連続テレビ小説「お登勢」』に主演。以後、テレビドラマに数多く出演。主な出演作品は、日本テレビ『たんぽぽ』、フジテレビ『三億円事件』、TBS『マイリトルシェフ』、舞台『佐賀のがばい婆ちゃん』『女たちの忠臣蔵』、映画『寅次郎・紙風船』『その男凶暴につき』など。日本舞踊・藤間流の名取で時代劇や舞台でも活躍。

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