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3月14日~3月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、仁科亜季子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、仁科亜季子さん!

3月14日 月曜日 「頑固だった幼少時代」
四ツ谷で育ったという仁科亜季子さん。子供の頃は頑固だったそうです。夢が「お嫁さん」だった仁科さんのお相手は、なんと幼馴染の「ピーター」さん! 幼少時代のお話をお伺いしています。

3月15日 火曜日 「女優デビュー」
お父様と雑誌に載った事をきっかけに、仁科さんはNHKのドラマに出演する事になります。演技をした事が無かった仁科さんは「冷凍の金魚」みたいだと周りから言われたそうです。火曜日は女優時代のお話です。倉本聰さんとのエピソードは爆笑です。

3月16日 水曜日 「子育て、そして、癌克服」
おふたりのお子さんを育ててこられた仁科さん。しつけはとても厳しかったそうです。その後、癌を克服した仁科さんは離婚するのですが、そこには当時、中学1年生だった息子さんとの深いエピソードがあったそうです。

3月17日 木曜日 「芸能界復帰」
1999年に仁科さんは20年ぶりに芸能界へ復帰します。そして、その数年後には娘の仁美さんが芸能界デビュー。
親子共演の話が来た時、仁科さんは娘の仁美さんにあることを宣言したそうです。その一言とは?

3月18日 金曜日 「息子さんの結婚、そして、ご自身も結婚」
先日、息子の克基さんは女優の多岐川華子さんと結婚を発表。そして、仁科亜季子さんご自身も今年1月に再婚なさいました。なんと、プロポーズを受けた時、仁科さんは、まったく気がつかなかったんだそうです。
金曜日は結婚生活についてうかがっています。

<仁科亜季子>
1953 年歌舞伎俳優十代目・岩井半四郎の次女として生まれる。
1972 年学習院女子高等科在学中に、NHK プロデューサーのすすめにより、NHK ドラマ「白鳥の歌なんか聞こえない」でデビュー。
その後約6 年間NHK 大河ドラマや、TBSテレビ 木ノ下恵介「人間の歌シリーズ」などで、清純派女優として活躍。
1979 年~1998 年の芸能活動休止を経て、1999 年芸能界に復帰、2000 年~本格的に女優業を再開。

3月7日~3月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」は、奈美悦子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、奈美悦子さん!

3/7(月) お嬢様からダンサーへ
奈良で生まれた奈美さんは、学校は毎日車で送り迎えをされるほどのお嬢様育ち。
奈美さんを宝塚に入れるのが夢だったお母様に育てられ、奈美さん本人吉永小百合さんにあこがれ、ショービジネスへの憧れを抱き始めます。
中学時代、西野バレエ団でダンスを始め、才能を見出された奈美さんは上京。
規則の厳しい寮に入った奈美さんですが、寮を抜け出したときのお話など、イキイキとお話いただきました。

3/8(火) テレビデビューと2度の結婚
17才のころテレビデビューされた奈美さんは、日本テレビの「レ・ガールズ」で一躍人気者に。睡眠もままならない忙しい日々の中、ご結婚。
奈美さん曰く、「ままごとのようだった」1回目の結婚は1年半で破局となります。
その後、25歳で当時まだ珍しかったできちゃった結婚し、お子さんがが4歳のころ、
2度目の離婚をされます。そんな怒涛の日々を、とってもあっけらかんと話していただきました。

3/9(水) 一人で育てた息子とマブダチになるまで
親がタレントでしかも離婚しているなんて、きっと息子は不良になるだろう、と覚悟していたという奈美さん。予想通り、息子さんは中学生のころ、喧嘩で警察に補導。
警察に迎えに行った奈美さんが怒鳴った相手は、なぜか息子さんではなく警察官。
その様子を見て息子さんは余計に奈美さんを怖がったということです。
今はすっかり「マブダチ」という息子さんが反抗期のとき、悩んだ奈美さんが取った大胆な行動とは・・・?

3/10(木) 死をも覚悟したご病気のお話
本気で飲むときはブラジャーをはずしてから!というくらいお酒が大好きな奈美さん。
そんなお酒を、飲めなくなってしまったご病気のお話を伺いました。
原因不明の激痛は震えてしまうほど。鎮痛剤を飲みながらお仕事を続けられた奈美さんですが、その間、100軒以上もお医者の診察を受けられたそうです。
病名が判明するまでは、なんと自殺を考えて息子さん宛ての遺書を書かれていたという、
そんなつらい時期のお話をサバサバとお話いただきました。

3/11(金) 現在のご主人とこれからの奈美悦子
病気のとき献身的に支えてくれた現在のご主人と結婚された奈美さん。
ご主人には絶対に敬語を使うという意外なお話や、年を重ねてからの結婚とはどういうものか、力をこめてお話いただきました。
そして2月に発売された、アラウンド還暦・アラ還の女性たちにささげるライフスタイル提案書「奈美スタイル」についてのお話も伺いました。

<奈美悦子>
1950年、奈良県生まれ。13歳の時、西野バレエ団に入団。
1967年、NHK『文吾補物絵図』で芸能界デビュー。
その年、日本テレビ系『レ・ガールズ』等にレギュラー出演して歌と踊りでも活躍。
以後、ドラマ、バラエティー、映画、舞台にと、マルチタレントとして活躍中!

2月28日~3月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、黒部進さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、黒部進さん!

2月28日(月)「 末は教師かサラリーマン 」
地元(富山県黒部市)の中学校の校長先生も務めたという厳しいお父様のもとで育った黒部進さんは、お父様に怒られるのが怖くて、毎日、真面目に勉強をする少年時代を送っていたそうです。その甲斐があってか学校での成績は良く、将来は学校の先生か地元企業のサラリーマンにでもなろうと考えていたとのこと。しかし、上京して中央大学に進んだ大学3年生の頃から雲行きがあやしくなり...。
月曜日は、黒部進さんの少年時代のお話を語っていただきました。

3月1日(火)「 涙の手巻き寿司 」
大学3年生になると若者のたまり場だった店に繁栄に出入りするようになり、色んな遊びを覚え、ついには実家から送ってもらっていた授業料も使い込んでしまったという黒部進さん。ある日、それを見かねたお父様が息子を実家に連れ戻すために黒部進さんのもとを訪れ、そっと差し出したのは、お母様の手作りの巻き寿司。それを見た黒部進さんの目からは涙が溢れ出し...。
火曜日は、黒部進さんが渋谷で靴磨きをしながらギリギリの生活を送っていた頃のお話です。

3月2日(水)「 ウルトラマン と 悪代官 」
映画監督の山本嘉次郎さんに見出されて俳優デビューを果たした黒部進さん。デビュー作が話題にならなかったことから、暫くは端役しか与えられなかったそうですが、その後、皆さんご存知の通り、ウルトラマンのハヤタ隊員役で注目を集めることとなります。水曜日は、ウルトラマン撮影のウラ話をたっぷりと伺っていきます。
「今でも子供たちの夢を壊さないように気をつけている」という黒部進さんですが、本当は、「でもね、悪役の方が面白いんだよ!」とのこと(笑)

3月3日(木)「 アフリカ 一人旅 」
混んでいた喫茶店で相席になった女性に一目惚れし、すかさず猛アタック。 「結婚について考えてくれ」という言葉に「イヤです」と言われてもめげずに、何とか今の奥様との結婚にこぎつけた黒部進さん。しかし、結婚して一年後、娘さんが生まれて間もない頃、黒部進さんはとんでもない行動にでます。何と!新婚の奥様や生まれたばかりの娘さんを日本に残し「俺は男になる!」と、アフリカ大陸一人旅に出発してしまうのです。
果たして、その真意とは?

3月4日(金)「 家族の絆 」
半年にも渡るアフリカ一人旅を終えた黒部進さんは、「この想いを家族にも伝えたい」と、その後、奥様と二人の娘さんをも巻き込んで「家族全員アフリカ一ヶ月旅行」を計画。黒部さんのご長女で女優でもある吉本多香美さんは、後年、「こんな経験をさせてくれた父に感謝する」と語っています。
最終日は、そんなご家族のお話と、来週3月12日から公開されます黒部進さんご出演の映画「ホームカミング」の見所をたっぷりと!

<黒部進>

【生年月日】 昭和14年10月22日(O型・天秤座)
【出身地】 富山県黒部市
【経歴】 第3回オール東宝タレントスカウトに合格、昭和36年「暁の合唱」でデビュー
【主な出演作品】
『テレビ特撮』・・「ウルトラマン」「ウルトラマンマックス」「光の戦士 ダイヤモンド・アイ」「小さなスーパーマン ガンバロン」「仮面ライダーBLACK」他
『劇場特撮』・・「緯度0大作戦」「キングコングの逆襲」「怪獣総進撃」「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」他
『劇場映画』・・「国際秘密警察 鍵の鍵」「新幹線大爆破」他
『テレビドラマ』・・「特捜最前線」「大追跡」「大都会PARTIII」「必殺仕切人」「水戸黄門」「暴れん坊将軍」他

2月21日~2月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム <特別編>」は、池上季実子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム <特別編>」のゲストは、池上季実子さん!

2月21日(月)『池上季実子さんの幼少時代とおじいさま』
アメリカ・ニューヨークに生まれ、そして、歌舞伎界の人間国宝である八代目・坂東三津五郎さんをおじい様にもたれている池上季実子さん。おじい様においしい物を食べさせてもらっていたらしく、好きな食べ物をを聞かれると「アワビの肝」とか、「ヒラメのエンガワ」と答える程に食通になっていたそうです。今日は、池上季実子さんの少女時代とおじい様とのエピソードをお聞きしました。

2月22日(火)『デビューのきっかけ』
京都で純和風の邸宅に住み、小さな頃から様々な所作を学んできた池上季実子さん。その時の経験が今でも演技をする際に役に立っているんだそうです。そして、池上季実子さんのデビュー作「まぼろしのペンフレンド」。突然の大抜擢だったのですが、この作品に出演するまでのいきさつは意外なものでした。今日は、池上季実子さんのデビューした当時の話を中心にお聞きしています。

2月23日(水)『愛と誠とお父様』
テレビ東京系のドラマ「愛と誠」で主役の「早乙女愛」役で一躍注目を集めます。しかし放送局がNHKから民放局に放送局が変わったことで、厳格な性格だったお父様は大反対したそうです。反対を迫るお父様に池上季実子さんがとった行動とは?今日は、テレビドラマ「愛と誠」をめぐる家族模様について、お話をお聞きしています。

2月24日(木)『男女7人夏物語』
池上季実子さんがご出演されてきたドラマの中で、『男女7人夏物語』は印象に残っているという方も多いのでは? 実際に、いつも睡眠不足になりながらも、毎回、楽しく収録されていたそうです。また、大竹しのぶさんと明石家さんまさんを引き寄せたドラマとしても有名ですが、当時のお二人の話などもお聞きすることが出来ました。

2月25日(金)『池上季実子らしく生きる。』
お仕事だけでなく、日々の生活でもプライベートを充実させている池上季実子さん。趣味であるゴルフの話から、ご家族のお話、芝居への思いなど、今の池上季実子さんのありのままの姿についてお話していただきました。

<池上季実子>
1959年米ニューヨーク・マンハッタン生まれ。3歳で帰国し京都で育つ。祖父は歌舞伎役者で人間国宝の八代目坂東三津五郎。叔父に九代目坂東三津五郎、いとこには十代目坂東三津五郎がいる。NHK少年ドラマシリーズ「まぼろしのペンフレンド」でデビュー後、ドラマ「愛と誠」の早乙女愛役で注目をあびる。75年に「はだしの青春」で映画デビュー。同年日本映画テレビプロデューサー協会エランドール賞新人賞を受賞。84年には五社英雄監督の「陽輝楼」で日本アカデミー賞主演女優賞、89年には「華の乱」で同賞助演女優賞を受賞。ドラマも「女太閤記」「男女7人夏物語」「はぐれ刑事純情派」など人気作に多数出演。

2月21日~2月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」は、鳩山由紀夫さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、鳩山由紀夫さん!

2月21日(月)「政治家になるまでの鳩山さん」
弟は政治家志望だったが、自分は政治家に向いていないと思っていたと鳩山さんは言います。でもコンピュータでバイオを研究しようとしたアメリカ留学中にアメリカの建国200年祭を見て気持ちが変わっていったのだそうです。レールは近くにあったけど、それを引き寄せて乗るということはなかなか考えられなかったのだそうですが、最終的には田中角栄氏に出会って政治家になることを決意しました。

2月22日(火)「総理大臣になったとき、辞めた時」
大きな期待を受けて総理になったのに、それを続けられなかったのは国民に申し訳なかったと鳩山元首相は思っているのだそうです。政治理念の問題だったら信念を貫けばいいけど、自分の問題だったので責任をとるしかなかった。そうすれば参院選も勝てるはずだったと。マニュフェストで政権交代を成し遂げたので、これを一つ一つ実現していくという方向性は間違っていなかった。総理を辞めてみて、今でもそう思っているのだそうです。そして、今の政権への一番の不安点についても語っています。

2月23日(水)「沖縄普天間問題について」
県外という自分の言葉が独り歩きしてしまったけど、本当は民主党の公約「沖縄ビジョン」にあった、党全体で統一された考え方だったそうです。それに沿って頑張り、結局実現できなかったことを鳩山元首相は今でも悔いています。トラスト・ミー この言葉で日米関係を悪くしたとも指摘されましたが、それは一時的なもので、辞めた時にはオバマ大統領から直筆の手紙をもらったそうです。そこに書かれていたのは意外な一言でした。

2月24日(木)「小沢氏との関係」
小沢さんを総裁選に担いだ事で党が混乱したのでは?とのリスナーからの指摘に対しては、国難のときには小沢氏をおいて他に適任は無いと思った。逆に、現状はどうであるか良く考えて欲しいのだそうです。もしも小沢氏が通常の政治活動ができていたら、政権交代を支えた日本の保守層がもっと安心したのではないか、鳩山元首相はこう指摘しています。

2月25日(金)「新しい公共」
一度引退することを決めたけれど、まだやり残したことがあるので、もう少し待って欲しいと鳩山元首相は考えました。社会・民間に権限を与えて自由に動けるようにする。官は指示するのではなくそのための手を貸す。これが新しい公共で、これが暖かい友愛社会を創りだす。これが鳩山元首相が今推し進めている政策です。菅さんは現実的な人だけど、政治家にはビジョンが必要だと鳩山元首相は考えています。そのビジョンに沿って行動してきたのだそうです。

<鳩山由紀夫>
昭和22年生まれ。東京大学工学部計数工学科卒業、スタンフォード大学工学部博士課程修了。東京工業大学経営工学科助手、専修大学経営学部助教授。昭和61年の総選挙で、旧北海道4区(現9区)から出馬、初当選。平成8年、弟邦夫らとともに民主党を結党。菅直人とともに代表に就任。平成11年、民主党代表に就任。平成17年、民主党幹事長就任。前原・岡田・小沢と三人の代表を支える。平成21年、民主党代表に就任。第93代内閣総理大臣に就任。

2月14日~2月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、大鶴義丹さん

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2/14(月) 「劇団に囲まれて育った子供時代」
1階が自宅で2階が劇団の稽古場だったという大鶴義丹さん。家はいつもにぎやかだったそうです。お父様の唐十郎さんは映画などに連れて行ってくれたのですが、仮面ライダーショーは一緒に入ってくれなかったそうです。子供時代のお話です。

2/15(火) やんちゃだった高校時代
けいこが終わるまで、ごはんが食べられなかったという大鶴義丹さん。学生の頃から料理を覚え、弁当も自分で作っていたそうです。高校に入った大鶴義丹さんはやんちゃだったので、3ヶ月で中退。その時とった行動とは?

2/16(水) 小説家デビュー
高校を見返すために勉強した大鶴さん。見事日本大学に合格されます。この頃から俳優を本格的にやろうと思ったと同時に作家活動もされてすばる文学賞を受賞されました。今日は大学生時代のお話を伺っています。

2/17(木) お父様・唐十郎さん
紫綬褒章内定を辞退されたから唐十郎さん。大鶴さんに言わせると、ロックな家庭だからだそうです。父と自分を西武新宿線と西武池袋線だという大鶴さん。その意味とは?

2/18(金) 映画監督として
大鶴さんの映画監督デビューは25歳の時。当時は2日目でもう無理だと思ってしまったそうです。そんな時子供の頃の自宅の父や役者さんたちを思い出して乗り切れたんだそうです。新作映画「前橋ビジュアル系」のお話もうかがっています。

<大鶴義丹>
昭和43年東京生まれ。父は劇作家の唐十郎、母は女優の李麗仙。昭和59年NHKのドラマスペシャル「安寿子の靴」に出演、その後「君の瞳に恋してる」、「あの日の僕を探して」など、数多くのTVドラマに出演。また、映画では「プライド~運命の瞬間」、「秘密」などに出演し、平成7年には初脚本・初監督作品である「となりのボブ・マーリィ」を発表。作家としても平成2年に"スプラッシュ"にて第14回すばる文学賞を受賞するなど、幅広い領域で活躍している。

2月7日~2月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、島崎俊郎さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、島崎俊郎さん!

2/7(月) ペイッ!のルーツ
高知県の左官屋さんの父親の元、4人兄弟の末っ子として生まれた島崎俊郎さん。
父親が家で仕事の愚痴をこぼす、そんな姿を見て育った島崎さんの
代表ギャグ「ペイッ」のルーツは・・・意外なところにありました。
大人気テレビ番組「オレたちひょうきん族」の収録中に生まれた、
「ペイっ」の誕生秘話を臨場感たっぷりに語っていらっしゃいます。

2/8(火) プロサッカー選手への夢と芸能界への憧れ
高校時代はサッカーに熱中し、インターハイに出場されるほどの実績を残した島崎さん。
その一方でお金持ちになりたい、芸能界に入りたいという強い思いももたれていたということです。
芸能界入りを決意したのは、高校3年生のとき、サッカーでライバル高校に負けたそのフィールドの中だったそうです。

2/9(水) クレイジーキャッツの付き人になるまで
夢の芸能界入りのためには、誰かに弟子入りするしかない!と
高校卒業後、京都から東京新宿で行われていたクレイジーキャッツの公演になんの当てもなく向かった島崎さん。
楽屋口での押し問答を経て、なんとか会ったハナ肇さんの表情や言葉について熱くお話いただきました。

2/10(木) ヒップアップ時代と名プロデューサー横澤彪さんとの出会い
ヒップアップとなった島崎さんはアイドルのような人気者に。
「笑っている場合ですよ」の素人コーナー、「君こそスターだ」というオーディションで、
審査員の反応が悪く、落ち込んでいた島崎さんたちに声をかけてきたおじさんが、横澤彪さんでした。
そのとき横澤さんからもらった言葉は、一生忘れらない言葉になったということです。

2/11(金) アダモちゃん誕生
「オレたちひょうきん族」で生まれた人気キャラクター「アダモちゃん」。
ビートたけしさんが島崎さんに、「ポリネシアンダンサーみたいな顔だな」と言ったことが誕生のキッカケで、最初は「マネー島崎」というキャラクターだったそうです。
リハーサルもなく、オチをつけなければいけない、と追い込まれた末に生まれた
「アダモ」ちゃんの誕生とこれからを、笑いを交えてお話いただきました。


<島崎俊郎>
1955年生まれ。京都府出身。1979年にお笑いトリオ・ヒップアップを結成。
漫才ブームの後半から頭角をあらわし、『オレたちひょうきん族』のアダモちゃん役が大きな反響を呼ぶ。
『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』にレギュラー出演。
以後、主にリポーター業を中心に、最近は舞台、ドラマ、音楽活動とマルチな活動を続けている。

1月31日~2月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、海老一染之助さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、海老一染之助さん!

1月31日 月曜日 「兄の弟子入り」
お父さんは落語家の三遊亭圓駒。終戦後、落語では一家が食べていけないので、兄は太神楽の海老一海老蔵師匠のところに弟子入りし、染之助さんは荷物持ちとして兄についていきました。すぐに覚えてしまう器用なお兄さんの横で、いろいろ練習しているうちに染之助さんも仏のような師匠の元で太神楽をやるようになります。でも、染之助さんはお兄さんの5倍の練習量が必要でした。後々、これが役に立つのですが...。

2月1日 火曜日 「初舞台」
猛練習を積んだ染之助さん、なんと、はじめて1年で初舞台を踏みました。そして進駐軍の慰問にも。進駐軍からもらう御祝儀はすごくて、なんと、17歳の時には家も手に入れてしまいました。とはいっても、欲しくて買った家ではなく、必要に迫られて買ったというところがなんとも染之助さんの御家族らしいところです。その訳は...?

2月2日 水曜日 「染太郎さんとの関係」
掛け声専門「頭脳労働」の染太郎さんと実演をする「肉体労働」の染之助さん、この役割分担は染之助さんから言い出したものでした。ギャラは折半。ギャグにしていたぐらいに、不思議なルールです。でも、染太郎さんが一人でCMに出たときも、きちんとギャラを折半してくれたのだそうです。この頃から兄弟の関係が変わっていきます。

2月3日 木曜日 「稽古と奥様」
奥様とは日本舞踊を通じてのお見合いでした。稽古ばかりしている染之助さんに驚いたといいます。染之助さんの稽古はいつも流行の音楽を掛けていました。音量が大きい上に掛け声も掛けていたのでパトカーが来たことも。夫婦喧嘩の一番の原因も稽古でした。染太郎さんの家を引き合いに出されたときは、さすがに染之助さんも困ったようです。

2月4日 金曜日「いつまでも芸を極める」
奥様が心配するので、稽古は3日に1度のペースにしながらも、今も染之助さんは精進し続けています。染太郎さんが亡くなった時も「おめでとうございます」と兄を送り出した染之助さん、だんだん一人での寂しさを強く感じるようになりながらも、染之助さんは最後まで芸人として生きていくのです。だれか、若手がいつか太神楽を継いでくれることを願いながら...。

<海老一染之助>
昭和20年二代目海老一 海老蔵師に入門
昭和21年新宿末広亭で初舞台
昭和35年(旧)ソ連文化省招聘ソビエト公演
昭和40年アメリカABCテレビ出演
ブラジル、ハワイ、東南アジア、ニューギニア、トンガ公演
昭和63年フジテレビ「笑っていいとも」にレギュラー出演
平成元年月 ビクターCD「おめでとうございます!!」をリリース

1月24日~1月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、せんだみつおさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、せんだみつおさん!

1月24日(月)
「女の子大好きないたずら小僧」
子供の頃は女の子に興味津々で、周りの女性にいろんなちょっかいを出していたという
せんだみつおさん。今日は、そんな「いたずら小僧」だった子供時代から、
ビリーバンバンの初期メンバー(ナンパ担当)としてラジオに出始めた頃までを
一気に紹介!

1月25日(火)
「せんみつの"ラジオデイズ"」
ラジオのワイド番組の街角レポートで婦人警官に「パンティの色は白ですか?」
と質問をするようなハチャメチャさや、深夜番組のパーソナリティーとして次第
に注目され始めたせんだみつおさんに、ラジオが絶好調だった時代を熱く語って
いただきました。当時のラジオに心を躍らせていたリスナーの方は必聴ですよ!

1月26日(水)
「ぎんざNOW!とうわさのチャンネル」
小堺一機、関根勤、竹中直人、ダウンタウン、とんねるず、キャロル・・・など、
今となってはものすごいメンバーが素人同然の時代に出演していた伝説のテレビ
番組「ぎんざNOW!」
また、夜10時に放送されていたにもかかわらず視聴率30%超えだったという
お化け番組「うわさのチャンネル」せんだみつおさんが、この2つの番組のヒット
で黄金期を迎えていた頃のエピソードを紹介。

1月27日(木)
「森繁久弥さんとのご近所付き合い」
家を買う決め手のひとつとなったのが不動産屋さんの「この近くに森繁久弥さん
が住んでいるんですよ」」という言葉だったというほど森繁さんを敬愛していた
せんだみつおさん。その後、故・森繁久弥さんとのご近所付き合いが始まること
となるのですが、これが面白すぎて・・・。
今日は、そんな話題のほかに、絶頂期に体調を崩して「ウケない、金ない、仕事
がない」という"せんだの"氷河期に突入してしまった頃を振り返っていただいております。

1月28日(金)
「娘から見た"せんだパパ"」
今日は、せんだみつおさんの娘さんで付き人兼タレント活動もしていらっしゃる
せんだるかさんと共にお送りいたします。「父は裏表のない性格」と語るせんだ
るかさんですが、本当のところはどうなのか?など、イイ感じの父と娘のほのぼの
トークをお楽しみ下さい!

<せんだみつお>
昭和22年、旧樺太生まれ。駒澤大学経済学部中退後、服部栄養学園を卒業し調理師免許を取得。ムッシュ中野という芸名でビリー・バンバンの付き人兼コンガ叩き兼司会をし、ラジオの公開番組の前説などでも注目される。昭和44年、ニッポン放送『ワゴンでデート』のDJとしてデビュー。47年、文化放送『セイヤング』で人気を得る。同年TBSの『ぎんざNOW!』の司会に選ばれて一挙に知名度が上がり、48年には日本テレビの『うわさのチャンネル!!』でコメディアンとしての才能も発揮。以来、幅広いジャンルで活躍中。

1月17日~1月21日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、遠藤憲一さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、遠藤憲一さん!

1月17日 月曜日 【野球少年だった少年時代】
品川でお生まれになった遠藤憲一さん。野球が大好きで特に好きだった巨人の王選手の野球が見たくて、ヤクルトのファンクラブに入ったんだそうです。少年時代のお話です。

1月18日 火曜日 【やめグセがついていろんな道へ】
高校へ行った遠藤憲一さん。ぐれてしまい1年の2学期でやめてしまいます。その後はアルバイトを転々としますが続かず、そんな時に見た「タレント応募」の広告が、エンケンさん俳優の世界にのめりこませたのでした。

1月19日 水曜日 【無名塾を10日でやめた男】
せっかく受かった無名塾をやめてしまった遠藤憲一さん。しばらくはお酒を飲む毎日だったそうですが、ある時に見た二人芝居に感動して、自分で公演されたそうです。それを見に来ていたマネージャーの目にとまり、デビューとなりますが、その時のキャッチフレーズは「無名塾を10日でやめた男」だったそうです。

1月20日 木曜日 【俳優・遠藤憲一の確立】
20代後半は台本も書かれていた遠藤憲一さんですが、5本書いてやめてしまったそうです。その時の経験が今の演技にとても役に立っていると話していました。三池崇監督との爆笑エピソードもお聞きください。

1月21日 金曜日 【これからの遠藤憲一】
悪役・お父さん役とこなされている現在の遠藤憲一さんの心境をうかがいました。そしてプライベートの大好きな時間は移動中のある乗り物なんだそうです。

<遠藤憲一>
1961年、品川区生まれ。高校を退学後、劇団無名塾に合格するもすぐ退塾。22歳のとき、『壬生の恋歌』でドラマデビュー。27歳のとき『メロドラマ』で映画デビュー。主な出演映画は『月はどっちに出ている』『金融腐食列島 呪縛』『大帝の剣』など多数。『湯けむりスナイパー』でドラマ初主演。NHK連続テレビ小説『てっぱん』で、父親役として出演。

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