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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

5月7日~5月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、作家の西村賢太さん

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5月7日(月) 「自意識過剰だった少年時代」
江戸川で生まれた西村賢太さん、7歳くらいから自意識過剰でお父さんと出かけるのを嫌ったそうです。そのお父様、西村さんが小学5年生のとき、事件を起こしてしまいます。今日は少年時代のお話を伺っていきます。

5月8日(火) 「藤澤清造さんとの出会い」
中学を卒業してすぐに一人暮らしとバイト生活を始めた西村賢太さん。実にダメな生活だったそうです。そんな生活をしているさなか、出会ったのが作家、藤澤清造さんの私小説でした。今日は藤澤清造さんとの出会いのお話です。

5月9日(水) 「小説家デビュー」
2004年に小説家としてデビューされた西村賢太さんですが、書き溜めていたものが全くなかったので、最初は戸惑いがあったそうです。今日は小説家としてデビューされた当初のお話をうかがいます。

5月10日(木) 「芥川賞受賞作品「苦役列車」」
2011年、芥川賞を受賞された西村賢太さん。着信番号を見るだけで、受賞したかどうかが分かるのだそうです。その西村賢太さんですが、実は昔の恋人のお父さんにお金を借りたそうなんですが、その300万円のその後とは?今日は芥川賞を受賞された後のお話です。

5月11日(金) 「今、そして、これから」
作家になっていなかったら古本屋さんをやっていたという西村賢太さん。現在は谷崎潤一郎賞を狙っているとジョークをとばしていました。今日は西村賢太さんの現在とこれからのお話をうかがいます。

<西村賢太>
1967年、東京都出身。2007年『暗渠の宿』で野間文芸新人賞、2011年「苦役列車」で芥川賞を受賞。文庫版『根津権現裏』『藤澤清造短篇集』を監修。著書に『どうで死ぬ身の一踊り』『二度はゆけぬ町の地図』『小銭をかぞえる』『廃疾かかえて』『随筆集 一私小説書きの弁』『人もいない春』『寒灯』『西村賢太対話集』ほか。

5月1日~5月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの松尾貴史さん

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ネット局 1日目 「松尾貴史さんと名物オヤジ」
松尾貴史さんの少年時代、すごく優しいけれど、とっても厳しかったというお父様、現在では考えられない様なエピソード満載なのですが、それが今の松尾貴史さんの人格形成をしたといっても過言では無いそうです。どのエピソードも笑わずにはいられない話ばかり。名物オヤジだったという松尾貴史さんのお父様についてお話をお聞きしました。

ネット局 2日目 「松尾貴史さん芸能界デビュー!」
大阪の大学卒業後、親戚の経営するディスコで、DJ見習いを始めた事から芸能界へ入るキッカケになったそうです。最初はデザイナーを目指していた松尾貴史さんが、どうして芸能界デビューすることになったのか、お聞きしました。

5月1日(火) ネット局 3日目 「松尾貴史のサブカルワールド」
松尾貴史さんは、折り紙などで人の顔を折る「折り顔」といったオリジナルのサブカルチャーを確立したり、ワインの名誉ソムリエ、日本酒造協会の日本酒大賞 奨励賞など受賞されていますが、お話を聞いていくと、意外な事実が出るわ出るわ。「好きだから!楽しいから!」の精神がモットーの松尾貴史さんのサブカルの世界についてお話をお聞きしました。

5月2日(水) ネット局 4日目 「松尾貴史と落語」
現在、年に何回か落語の高座にもあがるという落語好きの松尾貴史さん。学生時代には桂枝雀師匠に入門志願しに行った事があるそうです。枝雀師匠の家まで行ったのは良かったのですが、家から出てきた息子さんの一言でその時は「もういやや...。」と諦めたんだそうです。松尾貴史さんの大好きな落語についてお話をお聞きしました。

5月4日(金) ネット局 最終日 「松尾貴史、カレーを語る」
カレーが大好きだという松尾貴史さん。自分が好きな時に、大好きなカレーを食べられる様にしておきたくて、お店まで出した松尾貴史さん。松尾貴史さんの思い出に残るカレーや東京での行きつけのお店、そして松尾貴史さんオリジナルカレーなどお聞きしました。最初から最後まで、カレー尽くしの10分間です!


<松尾貴史>
1960年、兵庫県生まれ。大阪芸術大学在学中から「劇団120パーセント」の舞台ナレーションやコンサートの司会などの活動をはじめ、その後、中島らも主宰の「笑殺軍団リリパットアーミー」の旗揚げに参加する。98年には演出家のG2と演劇ユニット「AGAPE store」を結成し、既存の枠にとらわれない作品作りを行っている。エッセイスト、折り紙アーティストなどでも多彩に活躍中。

4月23日~4月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の岩下志麻さん

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4月23日(月)  「アイスクリーム売りの少女」
ご両親が新劇の俳優さん。伯母様が劇団「前進座」代表・河原崎長十郎さんの奥さまということで、子供の頃から演劇に触れる機会が多かった岩下志麻さん。当然、そんな環境が女優・岩下志麻の原点かと思いきや、当時の岩下志麻さんは舞台の上の役者さんの演技よりも魅力的な"あること"が楽しくてしょうがなかったそうです。
月曜日は、岩下志麻さんに御自身の少女時代を振り返っていただきました。

4月24日(火)  「初めての挫折」
高校時代は精神科医を目指して勉学に励んでいた岩下志麻さんでしたが、あまりにも頑張りすぎたためか、体調を崩して高校を留年。すると、精神科医になるという夢も急に馬鹿馬鹿しく感じ始め、目標を失った喪失感から、ボーっとした一日を過ごすことが多くなってしまったそうです。
そんな時、岩下志麻さんの事を心配したお父さまの紹介でNHKの生TVドラマ「バス通り裏」に出演することになり... 火曜日はそのドラマにおける爆笑面白エピソードをどうぞ!

4月25日(水)  「駆けずのお志麻(かけずのおしま)」
NHKの生TVドラマ「バス通り裏」への出演が好評で、松竹映画からお声がかかった岩下志麻さん。ほどなく松竹の看板女優として大変に忙しい日々を過ごすことになるのですが、そこに"女優としてのやり甲斐"のようなものは感じず、与えられた仕事をただこなしていくというだけの状態。
そんな岩下志麻さんを見て撮影スタッフがつけたあだ名が「駆けずのお志麻」。
「駆けずのお志麻」 ... 水曜日は、ちょっと聞いただけでは何のことか分からない岩下志麻さんのあだ名の謎に迫ってみたいと思います。

4月26日(木)  「映画『 秋刀魚(さんま)の味 』 と 『 極道の妻(おんな)たち』」
これまで数々の名作にご出演されている岩下志麻さん。木曜日はその中から小津安二郎監督の遺作である
「秋刀魚の味」、五社英雄監督の「極道の妻たち」についてお話を伺っています。
小津作品での演技の難しさ、また、撮影中は役に入り込んでしまタイプだという岩下志麻さんの極妻撮影中の姐(あね)さんぶりに注目です!もしかしたら、あの名台詞が聞けるかもしれません。

4月27日(金)  「岩下志麻という人生」
ご主人である篠田正浩監督にいきなり「私、監督さんと結婚しそうな気がする」と口にして絶句されたという
岩下志麻さん。それもそのはず、その時点でお二人はお付き合いすらしていなかったのですから...。
最終日は、これまでは話すのが嫌だったという岩下志麻さんのプライベートに斬りこんでいます。
ここまで雄弁に語ってくれるなんて...一体、どのような心境の変化があったのでしょうか?


<岩下志麻>
昭和16年、東京・銀座生まれ。本名、篠田志麻。両親は新劇俳優の野々村潔、山岸美代子。昭和33年、NHKドラマ「バス通り裏」でテレビデビュー。昭和35年、松竹入社。同年「乾いた湖」(篠田正浩監督)で映画デビュー。以降、松竹の看板女優として次々にヒットを飛ばす。昭和42年、篠田正浩監督と結婚し、独立プロ・表現社を設立。昭和51年、松竹を円満退社。主な出演作品に「雪国」「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」「極道の妻たち」シリーズ「少年時代」などがあり、松竹時代の清純派から、結婚後は女性の心の闇や情念を演じる女優として日本映画界に時代を築く。

4月16日~4月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の安田成美さん

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4月16日(月)  「引っ込み思案だった子供時代」
お嬢様のイメージが強い安田成美さんですが、御本人は下町のガラッ八の様な性格だと思っているのだそうです。小学校時代は生徒会長をするぐらい積極的だったのですが、中学校に入ると性格が一変。いつも家で寝ているような内気な子になっていました。その頃の安田成美さんの夢は手に職をつけること。なりたい職業は美容師、そして編み物が好きでした。ある日、セーターを編んだ安田さんはそれを上級生にプレゼントします。でも、プレゼントをしたところで満足してしまったので、それ以上は発展しなかったのだそうです。

4月17日(火) 「芸能界入りのきっかけ」
女子美大の付属高校に進学した安田成美さんは、モデル等の仕事を始めていました。でも、芸能界という意識は無く、割の良いバイトと御本人は思っていたのだそうです。そんな安田さんは映画「風の谷のナウシカ」で主題歌を歌います。当時撮っていた映画がお蔵入りしそうになったので名前を出すためにオーディションを受けて、見事に選ばれたのだそうです。2時間ドラマに出ることになった時、安田さんは校長室に呼ばれました。学業を取るのか仕事を取るのかを校長に訊かれ、仕事だと即答して学校を辞めてしまいます。成美さんが即答したその訳は、女子高生とはとても思えないプロの気持ちからでした。

4月18日(水) 「数々のヒットドラマに出演」
 女優としていろいろ活躍された安田成美さんですが、この仕事をしていて良かったと思うようになったのは40歳を過ぎてからで、それまではチェック用の画面を見るのも苦手なぐらい演技に自信が無かったのだそうです。
 そんな安田さんが連続テレビ小説「春よ、来い」を途中で降板してしまいます。事前に受けていた説明からだんだん内容がずれていったところで、ストンと、高校を中退したときと同じように降板を決意しました。
 
4月19日(木) 「結婚 出産を経験されて」
夫、とんねるずの木梨憲武さんと安田成美さんとの出会いは映画「そろばんずく」で共演したことでした。そっと電話番号を差し出されたのですが、成美さんはその意味がしばらくわからなかったのだそうです。 結婚して19年、3人のお子さんに恵まれ、御長男とは一緒にデートをしているぐらい、幸せな御家庭を築かれています。家庭では子供のことを考えて行動し、女優としては自分が試されている事を意識して演技する。これがわかってから女優をやっていて良かったと安田さんは思うようになりました。

4月20日(金) 「これからの安田成美さん」
最近安田成美さんはお母さん役ばかりでちょっと退屈。家でもお母さん、仕事でもお母さんなので、これからは悪役や愛人などいろいろな役を演じてみたいのだそうです。でも、設定をもらえればいろいろな人生を楽しめる、女優という仕事がとても好きだと安田さんは言います。 そんな安田さんは来週末公開の映画「HOME 愛しの座敷わらし」に出演します。共演の水谷豊さんをはじめとして、撮影現場も、出来た映画も暖かい、自信作だそうです。

<安田成美>
1966年、東京出身。
主な作品
●映画
「歓喜の歌」 「大河の一滴」 「ラストソング」 「バカヤロー」
●テレビ
「シューシャインボーイ」 「松本喜三郎一家」 「さいごの約束」 「この愛に生きて」 「素顔のままで」 「同級生」

4月9日~4月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、シンガーソングライターの八神純子さん

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4月9日 月曜日 「とにかく歌が好きだった子供時代」
1958年、名古屋生まれの八神さん。お父様が会社経営という裕福な家庭で、ピアノや日本舞踊を習い育ちました。特に好きだったのはザ・ピーナッツ。本人たちに会えるラッキーな機会があったこともあり、どんどん音楽にのめりこんでいきました。音楽の道を志すきっかけとなる、少女時代のお話です。

4月10日 火曜日 「メジャーデビューへの道のり」
高校生になり、ヤマハのボーカルスクールに通っていた八神さん。なんとテストの最中に(!)問題用紙の余白に書き込んで、初めて作った曲「雨の日のひとりごと」がポプコンで優秀曲賞を受賞、ヤマハに誘われて上京し20歳で「想い出は美しすぎて」でメジャーデビューを果たします。大ヒットとなる「みずいろの雨」前夜までのお話です。

4月11日 水曜日 「大ヒット曲『みずいろの雨』」
3枚目のシングル「みずいろの雨」。実は、自分の声でなく、岩崎宏美さんの声をイメージして作曲したんだそうです。これが大ヒットし、八神さんは「ザ・ベストテン」等TVにバンバン出て歌うようになります。最初は名物コーナー「スポットライト」に出るのですが、このときも、あの憧れのザ・ピーナッツに関わる、ある人(沢田研二さん)が一緒に出ていました。今日は「みずいろの雨」等ヒットの裏側を語ってくれました。

4月12日 木曜日 「28歳で国際結婚」
イギリス人音楽プロデューサー、ジョン・スタンレーさんと28歳で結婚した八神さん。最初の出会いは一緒に音楽に携わる「同士」でしたが、だんだんと愛に変わっていきました。当初はケンカが絶えなかったという二人。ケンカの原因も「スティービー・ワンダーと森進一はどちらが歌が上手いか」と、さすがミュージシャン同士です。八神さんがリンゴを投げつけるほどのケンカになったとか。この時の怒りがまだ収まらない八神さんです(笑)

4月13日 金曜日 「被災地でのライブ活動」
2001年のテロ事件以来、音楽活動を中断していた八神さんでしたが、2010年にNHKの番組「SONGS」で久々に歌って以来、また意欲が湧いてきたそうです。東日本大震災のニュースをアメリカで聴き、いてもたってもいられなくなり被災地へ何度も足を運び、ライブを精力的に行いました。今年の1月に15年ぶりのアルバム「VREATH」もリリースと、日本での音楽活動も精力的に行っています。これからの抱負も伺っています。

<八神純子>
第8回YAMAHAポピュラー・ソング・コンテストをきっかけに、「思い出は美しすぎて」(78年)でデビュー。続く「みずいろの雨」の大ヒットを皮切りに、「思い出のスクリーン」「パープルタウン」「ポーラスター」などを次々とヒット・チャートにランクイン。
87年には渡米し、プロデューサーのジョン・スタンレーと結婚。現在もロサンゼルスを拠点に育児と両立しながら音楽活動を行っている。

4月2日~4月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、松原智恵子さん

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4月2日(月)「子供の頃の話」
小学生の頃から、美容院でパーマをかけるなど、おしゃれに興味がある女の子だった松原さん。将来はフライトアテンダントになることを夢見ていたそうです。そんな子供の頃のお話です。

4月3日(火)「女優と学生生活」
高校1年生の時に、日活主催の「ミス16歳コンテスト」に応募し、スカウトされた松原さん。名古屋を離れて東京で、「女優と学生」という二足のわらじ生活がスタート。女優としての第一歩を歩み始めたのでした。

4月4日(水)「日活の看板女優へ」
日活で看板女優としての道を歩み始めた松原さん。思ったようにセリフが言えなくても、温かく見守ってくれたり、監督が手取り足取り教えてくれるなど、若い女優を育てようという時代だったのだそうです。

4月5日(木)「映画からテレビへ」
活動の場を映画からテレビにうつした松原さん。人気ドラマ「時間ですよ」などに出演。石原裕次郎さんとのエピソードもうかがっています。

4月6日(金)「プライベートについて」
主婦として一番大変なのは「お正月」という松原さん。果たしてその理由とは? また出演映画についても伺っています。

<松原智恵子>
1945年生まれ。愛知県出身。
【テレビ】
遺恨あり~ 龍馬伝 上条麗子の事件推理6 浅見光彦シリーズ・斎王の葬列 八代将軍吉宗 あぐり 利家とまつ 天才柳沢教授の生活 すずらん
【映画】
小川の辺 サヨナライツカ 黄金花-秘すれば花、 グーグーだって猫である 釣りバカ日誌17
テレビ、映画にとどまらず、さまざまな分野で活躍中。

3月26日~3月30日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、中澤裕子さん

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3月26日(月)「憧れだったテレビの世界」
言葉遣いや礼儀に厳しい家庭に育った中澤裕子さん。
少女時代からずっとピンク・レディーやテレビの世界に憧れていたんだそうです。
そんな中澤裕子さん、芸能界に入った今でも、ザ・ベストテンのミラーの扉や当時、憧れていた歌番組のセットに立てていない事が悔しいのだとか...。
中澤裕子さんの少女時代についてお話をお聞きしました。

3月27日(火)「悶々とする中澤裕子の生活」
「歌手になりたい!」とずっと考えていた中澤裕子さん。
「夢は夢」と、周囲には微塵も出さないまま、社会人として故郷の京都を離れ、大阪でOLとして生活を始めます。
しかし、時間を重ねるにつれて、夢を叶えられない自分に対し、「私の人生って何なんだろう」と悲観する様になっていったそうです。
悶々としていた中澤裕子さんのOL時代についてお伺いしました。

3月28日(水)「モーニング娘。デビュー」
中澤裕子さんのデビューのキッカケになったオーディション番組「ASAYAN」。
「どうせ受からんやろ。」と思っていたのですが、あっという間にテレビ審査まで進みます。
最終的にはグランプリを逃してしまうのですが、最終審査に残ったメンバーと「モーニング娘。」を結成する事になるのでした。
中澤裕子さんが「モーニング娘。」としてデビューするまでのお話をお伺いしました。

3月29日(木)「大ヒット曲LOVEマシーン、そして卒業」
7枚目のシングル「LOVEマシーン」は、モーニング娘。として初のミリオンを記録し、女性グループが持つ数々の記録を塗り替えていきます。
中澤裕子さんにとっても大切な曲と言われる「LOVEマシーン」についてや、モーニング娘。を卒業するまでの3年3ヶ月の思い出など、お聞きしました。

3月30日(金)「ドリームモーニング娘。」
去年(2011年)、モーニング娘。OGによる新ユニット「ドリームモーニング娘。」が結成され、中澤裕子さんは再デビューされます!
激しいダンスが多さもあるのですが、年長者として心配されたくないと思ったそうで、体力を維持するために日頃、トレーニングされているんだそうです。
ドリームモーニング娘。再結成の話や、中澤裕子の今後についてお聞きしました。
最後に、ドリームモーニング娘。の新曲「シャイニング・バタフライ」もお送りします!


<中澤裕子>
モーニング娘。オリジナルメンバーとしてデビュー。
『LOVE マシーン』『恋愛レボリューション21』などが大ヒット。
3年3ヶ月、リーダーとしてグループを支える。
在籍時からソロとしても活動。『カラスの女房』『二人暮らし』『DO MY BEST』『うらら』『だんな様』等リリース。
2008年にはベストアルバム『Legend』をリリース。
現在、「ドリームモーニング娘。」としての活動のほか、ドラマ、舞台でも活躍中。

3月19日~3月23日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ミッキー・カーチスさん

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3月19日(月)  「引っ込み思案だった少年時代」
赤坂生まれのミッキー・カーチスさんは、上海の疎開生活を経て東京へ帰ってきました。
ハーフ故にいじめられていたミッキーさんでしたが、明るいお母さんの影響でだんだん変っていきます。中学時代、意味のあることをやるのなら学校をサボっても良いという教育の元、ミッキーさんは映画館、寄席に通い続けます。
そんな中、体が弱くて性格的にも暗かったミッキーさんに、お母さんはウクレレを勧めます。これがミッキーさんと音楽の出会いでした。

3月20日(火)  「プロミュージシャンの道へ」
ミッキー・カーチスさんが始めてプロとしてステージに立ったのは、中学3年の時、なんと大学生バンドのメンバーとしてでした。芸能界に進もうと思ったミッキーさんに親は大学受験を勧め、合格しますが、大学はすぐにやめてしまいます。ロカビリー、ジャズ喫茶の大ブームで、ミッキーさんは人気者になりました。でも、ロカビリーのコンサート会場で観客が歌を全然聞いていないことに気が付いたミッキーさんは、落語の小噺をすることを思い立ちます。これが大成功、そして、その観客席には意外な人物が居て、「寄席でなくても落語ができるんだ!」と、その人は思ったのだそうです。

3月21日(水)  「ロカビリーから様々な分野へ進出」
ミッキー・カーチスさんの人気ぶりはすごく、ヒットパレードなどテレビ7本、ラジオ12本を持っていたときもありました。でも、それだけ忙しくてもメンバーは遊びに行くし、ミッキーさんは寄席に行っていたのだそうです。そんなミッキーさんは映画「結婚のすべて」で岡本喜八監督の映画に初出演します。早起きが嫌いで役者を避けていたミッキーさんでしたが、この時はお母さんからの「80になっても役者は出来る」という一言で踏ん切りがついたのだそうです。
 その後、レーサーとして活動し、更にバンド「サムライ」を結成してヨーロッパを廻りました。日本人バンド初のヨーロッパツアーです。

3月22日(木)  「プロデューサー業・落語家」
 ミッキー・カーチスさんは音楽プロデューサーとしても活躍しています。ガロに続いてキャロルを見出した時は、生放送中のスタジオに電話を入れてスカウトし、翌日午後にはもうレコーディングをしていました。バンドのノリが色っぽかったのだそうです。また、ミッキーさんはミッキー亭カーチス という落語立川流の落語家でもあります。談志さんとの偶然の出会いから40年後に弟子になったミッキーさんは、亡くなられた今でも師匠は談志さんだけだといいます。

3月23日(金)  「おれと戦争と音楽と」
ミッキー・カーチスさんは五十嵐信次郎の芸名で、今年1月に公開された映画ロボジーの主演をしました。この芸名、ミッキーさんがずっと憧れていた漢字の名前だったのだそうです。ミッキーさんは4年前に33歳歳下の女性と結婚していますが、この時、歳の差は全くきにしていなかったのだそうです。これは「ナンパ」だったとミッキーさんは笑っています。そんなミッキーさんが1月に本を出しました。「おれと戦争と音楽と」。戦争、そして戦後の裏面史を記録したようなミッキーさんの自伝ですが、同時に、移り行く音楽、そして時代背景を記録した本になっているのだそうです。


<ミッキー・カーチス>
1938年東京生まれ。58年日劇ウエスタンカーニバルでデビュー、ロカビリー3人男として爆発的なブームを呼ぶ。同年、岡本喜八監督の「結婚のすべて」で俳優としてもデビュー。近年では96年「KAMIKAZE TAXY」で第69回キネマ旬報助演男優賞受賞。これまでに約130本の映画に出演。68年ハードロックバンド「サムライ」を結成し、ヨーロッパを拠点に70年まで活動。その後、音楽プロデューサーとしてガロやキャロルなどを発掘したことでも知られる。また、98年には「ミッキー亭・カーチス」として落語立川一門の真打ちに昇進。現在も高座に上がっている。TV、映画、コンサートと幅広く活躍中。

3月12日~3月16日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、加藤茶さん

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3月12日(月)「 バンドマンを目指して上京 」
ミュージシャンだったお父様の影響で、17歳でバンドマンになることを夢見て福島から上京した加藤茶さん。
あるバンドメンバーの雑用をこなしながら、時間を見つけてはドラムの練習をする日々を送っていたそうです。そして、無事にステージデビューとなるわけですが、失敗も多々あったようです。
月曜日は、加藤茶さんが駆け出しのバンドボーイだった頃のエピソードなどをお聴きしております。
ちょっとした勘違いから伊藤久男さんのステージをメチャクチャにしてしまった話は笑えますよ!

3月13日(火)「 ザ・ドリフターズ加入 」
「4000円のギャラUP」という条件でザ・ドリフターズ(当時のリーダーは桜井輝夫さん)に引き抜かれた加藤茶さんでしたが、ほどなくしてメンバーの分裂騒動に巻き込まれます。加藤茶さんは、結果的にドリフターズに残ることとなるのですが、決め手となったのはいかりや長介さんの"ある言葉"でした。
火曜日は、そのあたりの事の顛末、また、ビートルズ来日公演で前座を務めた時の緊張感あふれる(?)話などを伺いました。

3月14日(水)「 8時だよ!全員集合 」
1969年10月にスタートした「8時だよ!全員集合」。この番組からは数多くのギャグが生まれています。
「うんこちんちん」、「ちょっとだけよ」などなど...。
水曜日は、このようなギャグがどのようにして作られたのかという秘密に迫ります。
また、伝説の『生放送停電事件』も振り返っていただきました。
当時、番組をご覧になっていたリスナーのみなさん、是非ともあの時代にタイムスリップした気持ちでラジオに耳を傾けてみて下さい。

3月15日(木)「 ザ・ドリフターズの歴史 」
ザ・ドリフターズの長い歴史の中には色々な出来事がありました。
「荒井注さんの脱退」、「志村けんさんの加入」、「8時だよ!全員集合の終了」、そして「いかりや長介さんの死」
木曜日は、加藤茶さんがその各々の出来事が起こった時に何を感じていたのかをお話くださっています。
いかりやさんとは「また一緒にコントをやりたいね」と言っていたのに実現できず、そのことが心残りだそうです。

3月16日(金)「 45歳差の結婚 」
昨年6月に45歳年下の奥様と入籍。今月1日には結婚式も行われ、現在はラブラブな加藤茶さんご夫妻。
「8時だよ!全員集合」をリアルタイムで知らない奥様から「あのギャグってどんなの?やってみてよ」と言われることもしばしばだそうです。
そんなわけで、最終日は、加藤茶さんに思い切りおノロケ話をしていただきました。

<加藤茶>
昭和18年、東京都世田谷区生まれ。
昭和36年より「渡辺弘とスターダスト」のバンドボーイを経て、ロックバンド「クレージーウェスト」のドラマーとして音楽活動をスタート。
昭和39年、いかりや長介と「新生ドリフターズ」結成に参加。ジャズ喫茶を中心にライブ活動を続ける。
同年9月、NTV「ホイホイミュージックスクール」でTVデビュー。音楽を取り入れた新しい笑いがテレビなどで評判となり、大衆の「ドリフターズ」としてお茶の間に浸透していく。また、昭和41年7月には、武道館にて「ビートルズ」との共演も果たす。
昭和44年10月、TBS「8時だよ!全員集合」がスタート。平均視聴率30%を誇り、怪物番組の異名をとった。
その他、数々のバラエティー番組で活躍し日本のお茶の間の人気者となる。
平成11年、高木ブー、仲本工事と共に、「こぶ茶バンド」を結成。各地でコンサート活動を展開。
平成23年には「デビュー50周年」を迎える。最近ではバラエティー番組への出演の他、役者としてドラマや舞台への出演。また、ラジオやCM(ケーズ電気・サントリー・小田原競輪)などにも出演し、多方面で活躍中。
同年10月には、「加トちゃん一座」の旗揚げ公演を、中日劇場にて行う。

3月5日~3月9日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、冨田勲さん

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3月5日(月)「冨田勲さんの少年時代、作曲家として原点」
冨田勲さんは、少年時代を中国で過ごします。
その中国で出会った「回音壁(かいおんへき)」に、冨田少年は音の聞こえ方や面白さなど、
音に関する興味や好奇心を持つキッカケを与えてくれたそうです。
これが後々の作曲家人生に大きな影響を受ける事になります。
また、理系が得意だったという冨田さんの意外な趣味についても語っていただきました。

3月6日(火)「冨田勲さんの作曲家デビュー!」
冨田さんのお父様としては「ゆくゆくは医者に...」と考えていたそうでしたが、
全日本合唱連盟コンクールの課題曲で入賞し、NHKとレコード会社からの
仕事を請けた事から作曲家としての活動がスタートします。
冨田勲さん曰く、「火事場の馬鹿力」という、NHKの「今日の料理」のテーマが
誕生したエピソードを中心に作曲家として仕事を始められた頃のお話しをお伺いしました。

3月7日(水)「手塚治虫さんとのエピソード!」
作曲家としてデビューした後、大河ドラマや人気時代劇など、
数々のテーマ曲を発表していきます。そんな中、漫画家の「手塚治虫」さん本人から
突然の電話オファーがあり、一緒に仕事にすることに...。
しかし、今、思い起こしてみると「巻き添えをくらった...。」という冨田さん。
手塚治虫さんとの仕事の思い出とは一体...。

3月8日(木)「シンセサイザーの先駆者として」
シンセサイザーの先駆者として有名な冨田勲さん。
1970年(昭和45年)当時で1000万円という値段で手に入れますが、
現在のシンセサイザーとは違い、すべてがゼロからの出発で大変苦労をされたそうです。
あまりにも大変だったそうで、今でも悪夢を見る程まで追い詰められたんだとか...。
冨田さんとシンセサイザーにまつわるエピソードをお聞きしました。

3月9日(金)「世界の冨田勲 と 映画『おかえり、はやぶさ』」
アメリカ国内で作品が認められ、冨田勲さんの名前が浸透していく中、
海外から冨田さんの下へ、有名なミュージシャンが訪れる様になります。
今回は特に皆さんも知っている有名なアーティスト2人のお話をしていただきました。
そして、冨田さんが音楽を手がけた映画「おかえり、はやぶさ」が3月10日から公開。
こちらの映画音楽についてもお聞きしています。

<冨田勲>
日本が誇る電子音楽界の巨匠、冨田勲。
日本人で初めてモーグ・シンセサイザーを購入したことでも有名。
慶応大学在学中に作曲活動を開始し、膨大な数の作品を世に送り出す。
70年代からは、シンセサイザーを主体とした作曲に逸早く着手。
ドビュッシーのピアノ曲を電子音でシミュレートした『月の光』(72年)が、全米ビルボード・クラシカル・チャートで第1位となって以来、冨田の名は全世界で知られるようになった。

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