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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

9月24日~9月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、関口宏さん

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9月24日(月)「学生時代」
東京で生まれた関口さん。
学生時代はラジオに夢中だったそうです。
学生時代のお話です。

9月25日(火)「生放送のドラマ現場」
俳優としてデビューされた関口さん。
当時のドラマは生放送だったので、ハプニングが多かったそうです。
俳優を始められた頃のお話です。

9月26日(水)「司会業について」
関口さんは、1970年フジテレビのトーク番組「スター千一夜」で司会を務めることになります。
第一回目から大事件が起きたそうです。
「スター千一夜」」の裏話をうかがっています。

9月27日(木)「テレビに対する思い」
テレビの世界で活躍されている関口さん。
今のテレビは面白くないと思うことが多いそうです。
そんなテレビに対する熱い思いを語っていただきました。

9月28日(金)「プライベートのお話」
最終日は関口さんのプライベートを中心にお話を伺っています。
発売された著書『テレビ屋独白』についてもお話いただきました。


<関口宏>
3代にわたる江戸っ子(祖父は神田の火消し、父は映画俳優、佐野周二)。
昭和38年NET(現テレビ朝日)シオノギ劇場「お嬢さんカンパイ」でデビュー。その後、「青い山脈」「花と果実」「旅路」「元禄大平記」「油断」などのテレビドラマや、東宝「社長シリーズ」、日活「白鳥」「四つの恋の物語」等、映画にも出演。9年間フジテレビの「スター千一夜」の司会を務めた後、TBS「クイズ100人に聞きました」「わくわく動物ランド」「関口宏の東京フレンドパーク2」「サンデーモーニング」、読売テレビ「ワンダーゾーン」「関口宏のびっくりトーク ハトがでますよ!」「輝け!噂のテンベストショー」、日本テレビ「知ってるつもり!?」など幅広いジャンルの番組で司会者として活躍。
一方で、昭和52年には小柳ルミ子「星の砂」の作詞で日本作詞大賞作品賞を受賞。昭和59年、フレーベル館から「人間これでいいのかな」を処女出版。

9月17日~9月21日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の吉行和子さん

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9月17日(月)「 吉行家に生まれて 」
お父様は作家の吉行エイスケさん、お母様は美容師の吉行あぐりさん、お兄様は作家の吉行淳之介さん、妹さんは作家の吉行理恵さんと、とにかくすごい御家庭で育った吉行和子さん。
初日は、吉行和子さん曰く、「放任主義だった両親」、「あまり会話が無かった兄妹」。そんな吉行家をちょっとだけ覗いてみたいと思います。

9月18日(火)「 きっかけは『 カチ~ン! 』 」
本来は劇団の衣装係を目指していた吉行和子さん。そんな吉行和子さんが女優になったのには『2つのカチ~ンときた出来事』が関係しているそうです。
普段は温厚な吉行和子さんを怒らせ、その後の運命を決定づけた2つの出来事とは何だったのでしょうか?
火曜日は、吉行和子さんが女優を目指すことになったきっかけにスポットを当ててみました。

9月19日(水)「 石橋は叩かない性格 」
「石橋は叩かない性格」で「思いついたら即行動」の吉行和子さん。そんな性格が良い方向に向かうこともあれば、当然、悪い方に作用することも...。
16年間所属した『 劇団民藝 』を離れて唐十郎さんのアングラ演劇に挑んだ時は、色々と戸惑いながらも刺激的で充実した日々を送ったそうですが、28歳での結婚は...。
水曜日は、吉行和子さんのプライベートにチョットだけ斬り込んでいます。

9月20日(木)「 級長、校長、番長 」
TVの旅番組でもお馴染みなのが吉行和子さん、岸田今日子さん(残念ながらお亡くなりになってしまいました)、冨士眞奈美さんの三人組。
この三人は、お互いプライベートには踏み込まないという絶妙の距離感で親交を深めてきたそうです。木曜日は、この仲良し三人組の面白エピソードを中心に伺っています。
一応、三人には役割分担のようなものがあり、例えるなら「級長、校長、番長」なんだとか...。
どの役割がどの方に当てはまるのかは放送でご確認ください。

9月21日(金)「 もうヒトハナ、咲かそ。 」
「もうヒトハナ、咲かそ。」をテーマに、吉行和子さん主演で現在公開中の映画『人生、いろどり』。
最終日は、この映画の撮影秘話と見所などを伺わせて頂きました。
最後に吉行和子さんの「もうヒトハナ」もお訊ねしたのですが、その答えはいかに?


<吉行和子>
1957年、舞台「アンネの日記」でデビュー。
78年、映画「愛の亡霊」で第2回日本アカデミー賞主演女優賞、
02年「折り梅」で第57回毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞。
その他の主な出演作に「佐賀のがばいばあちゃん」(06年)、「おくりびと」(08年)など。

9月10日~9月14日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、映画監督の滝田洋二郎さん

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9月10日(月)「滝田洋二郎さんの少年時代」
富山の田舎の酒屋の子供として育った滝田洋二郎さん。
現在の仕事にも活きているという、家業の手伝いについて懐かしく語っていただきました。
またスポーツにも夢中だったという少年時代に好きだったという読売巨人軍の話や、将来の進路も決まらないまま、上京するまでの話をお聞きしました。

9月11日(火)「映画の世界に入って」
富山から東京に上京してきた滝田洋二郎さん。
専門学校に進学しますが、学校には行かず、バイトに遊び三昧。
しかし、気が付けば周りは進路を決めていたという状況に...。
その後、紹介もあり、映画製作の下請け会社に就職、映画監督としての人生を歩み出すことになります。
滝田洋二郎さんが初監督したピンク映画のエピソードもお聞きしました。

9月12日(水)「過酷な映画撮影の中で!」
ピンク映画で次々に話題作を撮ってきた滝田洋二郎さん。
ひとつの分岐点になったのは「コミック雑誌なんかいらない!」なんだそうです。
実際の事件現場などに赴き、ゲリラ撮影を行うなど、過激な撮影方法がうけて、ニューヨークの映画祭にも出品され、まさかのカンヌ行きに決定します!
その後も、次々と話題作を連発するのですが、中でも「僕らはみんな生きている」の撮影はとても過酷を極めたそうです。
しかし、この過酷さが滝田洋二郎さんの映画魂に火をつけることに!
今日は滝田洋二郎さんのターニングポイントについてお聞きしました。

9月13日(木)「アカデミー賞作品『おくりびと』」
数々の映画賞を総なめにした映画『おくりびと』。
この作品の映画監督を務める「きっかけ」から、映画の完成後、数々の映画賞を受賞するまでのエピソードを滝田洋二郎監督にお話いただきました。
人間の『五感』に対するこだわりや、『死』に向き合う感情の価値観が変わったという話は必聴です!

9月14日(金)「最新作『天地明察』」
アカデミー賞を受賞して、「面白い話がたくさん落ちてこないかなぁ...?」なんて、受賞後のプレッシャーをものともしていなかった、滝田洋二郎監督。
今日は、そんな滝田洋二郎監督の最新作「天地明察」についてお話をお聞きします。
キャストについての話や、撮影終えての感想など、滝田洋二郎監督にお伺いしました。
今の人間観を作品内に登場する人物やシーンに盛り込んだ......などなど、映画「天地明察」をより楽しめるお話をしていただいています。


<滝田洋二郎>
1955年、富山県出身。
日本アカデミー賞最優秀作品賞(「壬生義士伝」で・2004、「おくりびと」で・2009)、同監督賞(「おくりびと」で、2009) モントリオール世界映画祭グランプリ(「おくりびと」で、2008) 第81回アカデミー賞外国語映画賞(「おくりびと」で、2009) 富山県民栄誉賞(2009) 第59回芸術選奨文部科学大臣賞(「おくりびと」で、2009) 文化庁長官表彰(国際芸術部門)(2009)。

9月3日~9月7日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の安倍なつみさん

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9月3日(月)  「歌手を目指すきっかけ」
安倍なつみさんは、北海道室蘭市で生まれました。外遊びが好きで、いつも日焼けをしている少女だったそうです。両親は冗談好き、そして家族でキャンプに出かけるような、明るい家庭でした。
そして初恋は保育所時代。ちょっとしつこくされた男の子を意識してしまったのだそうです。
小学校時代の安倍さんはいろいろなことに挑戦します。ひとつの事を覚えたら次に行きたくなる性分の安倍さんでしたが、音楽、中でもバンドサウンドが気に入ってしまい、自分でもボーカルをやってみたくなりました。

9月4日(火) 「芸能界入り、そしてデビュー」
安倍なつみさんが一番憧れたボーカルは、ジュディ・アンド・マリーのボーカル,YUKIさんでした。
影響を受けて歌手になってやると夢見ていたなつみさんは、高校入学後、すぐにシャ乱Qロックボーカリストオーディションを受けます。
反対していた筈の父の助けを借りて、オーディションで最終候補にまで選ばれたなつみさんは、他の最終候補のメンバーと共に、『モーニング娘。』を結成しますが、課題曲を5日間で5万枚売ったらメジャーデビューという条件付きの結成でした。
途中で42度の熱を出したりしながらも、モーニング娘。は見事に5万枚を売り、メジャーデビューを果たしました。


9月5日(水) 「ミリオンヒット/ソロ活動」
モーニング娘。がメジャーデビューすると、曲がヒットし、今までとは生活が一変します。レコード大賞最優秀新人賞、紅白出場と忙しくなり、めまぐるしいとはこういうことを言うのかと思ったと、安倍なつみさんは笑って話してくれました。
他のメンバーは他のグループとユニットを組んだりして活動をしていましたが、モーニング娘。の顔になった安倍さんにそれは許されませんでした。
そして2003年にソロデビューを迎えます。これは安倍なつみさんの新しい一歩だったと共に大きな経験にもなりました。ソロの孤独さ、大変さを知ったのです。でも、メンバー同士は競争相手だったので、誰にも相談することができなかったのだそうです。


9月6日(木)  「モーニング娘。からの卒業/ドリームモーニング娘。」
モーニング娘。のメンバーだった6年間、安倍なつみさんは、「笑顔のなっち」でいることを求められていたことで、いつもプレッシャーを感じていました。
モーニング娘。を卒業して、舞台の稽古で宮本亜門さんの演技指導を受けたときに、本物の安倍なつみを出して良いんだといわれて、逆にほっとしたと言います。
つんく♂さんについて安倍さんは、モーニング娘。としての「安倍なつみ」を育ててくれた方と感じています。最近結成したドリームモーニング娘。では、一番つんく♂さんに、成長した自分を見てほしいのだそうです。

9月7日(金) 「プライベートについて」
最近、安倍なつみさんはジュニア野菜ソムリエとジュニア食育マイスターの資格をとりました。料理が趣味のなつみさんですが、自分の体のことを考えるとよいものを自分で調理したいと、いろいろと勉強をされたのだそうです。
安倍さんは、お酒は好きだけど量は飲めないのだそうです。もう一目ぼれもしなくなったと安倍さんは笑って話してくれました。
そんな安倍さんはこの秋、朗読劇や舞台公演でステージに立ちます。先日は写真集もだしました。ニューヨークで30歳女性としての2面性を表現したもので、自分の意向を最大限生かせたものだそうです。


<安倍なつみ>
1998年『モーニング娘。』としてデビュー。2003年にはソロ活動を開始。そして2004年に6年間活動を続けてきたモーニング娘。を卒業。その後、ソロとしてコンサート・舞台・テレビ・ラジオなどで活動中。野菜ソムリエの資格や食育マイスターの資格を持ち、 "食"に関する知識を持つ。
歌手としての活動と共に舞台女優としても、活躍中である。出演作品は、2008年に宮本亜門演出の祝祭音楽劇「トゥーランドット」、2009年に同氏演出の音楽劇「三文オペラ」に出演。2010年は、オフ・ブロードウェイ・ミュージカル『リトルショップ・オブ・ホラーズ』、安倍主演の『安倍内閣』に出演。
2011年は、舞台『新歌舞伎座 早乙女太一特別公演~狐笛のかなた~』、ミュージカル『嵐が丘』、『ドラキュラ』などの舞台出演と並行して、元モーニング娘。卒業生での新ユニット『ドリーム モーニング娘。』のメン バーとして7年ぶりにグループの活動に参加。アルバムリリースや全国ツアー等、活躍の場を拡げている。

8月27日~8月31日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の三田明さん

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8月27日 月曜日 「デビューのきっかけ」
1947年、東京生まれの三田さん。子供の頃は王・長嶋に憧れる野球少年でした。中2の時にテレビのオーディション番組を受けたことから三田さんの運命は一変。「歌は本当に下手だった」そうですが、それを補って余りある「美少年」ぶりで見事合格、「美しい十代」で鳴り物入りのデビューを飾ります。「日本一の美少年(デビュー時のキャッチフレーズ)」がデビューするまでのお話です。

8月28日 火曜日 「歌手と学生生活」
高校1年生でデビューした三田さん。学校に行くと周囲が大騒ぎになって他の生徒が勉強できないから学校に来るなとまで言われていました。見かねた校長先生が、放課後の教室で、マンツーマンで授業をしてくれたそうです。そしてもうひとりの恩師は、「美しい十代」の作曲者・吉田正先生。吉田先生が教えてくれたある言葉を三田さんはずっと、今日まで大切にしています。「スターの学生生活」のお話です。

8月29日 水曜日 「石原裕次郎さんとの出会い」
三田さんの憧れの人はなんといっても石原裕次郎さん。デビュー当時、事務所を通じて手紙を送ったら、すぐに丁寧な返事が来たそうです。その後も「ごめんねチコちゃん」など数々のヒット曲を世に出すのですが、数年後、所属事務所が倒産。多額の借金を背負ってしまった三田さんは返済のためガムシャラに働くことになります。

8月30日 木曜日 「役者への転身」
歌手として壁にぶち当たっていると感じた三田さんは、いったん歌を離れ、ドラマ「長七郎江戸日記」で本格的に役者としての活動を開始します。京都の撮影所で過ごした5年間はとても実りのあるものでした。ある日京都から東京に戻ってきた三田さん、新幹線の東京駅ホームで「ああ、これでまた歌える」と、涙が出てきたそうです。歌うことの楽しさを再確認した時期のお話です。

8月31日 金曜日 「プライベートについて」
三田さんはもと野球少年だけあって、休日は早朝野球を楽しんでいます。そして、意外にも手相占いが得意で著書も出しています。早速野村邦丸の手相をみてもらったのですが、これがいちいち当たっている・・・すごい!来年は芸能生活50周年で予定が目白押しの三田さん、やはり恩師吉田正先生のあの言葉を思い返すそうです。

<三田明>
1947年6月14日生まれ。東京都出身。1962年日本テレビ『ホイホイ・ミュージックスクール』に合格。吉田正に師事、門下生になる。63年ビクターレコードより「美しい十代」でデビュー。64年ごめんねチコちゃんとヒット。写真家・秋山庄太郎に日本一の美少年と絶賛され、アイドル歌手としてのスタートを切る。64年紅白歌合戦に初出場。以後5年連続出場する。83年から5年「長七郎江戸日記」レギュラー出演。93年歌手生活30周年記念アルバム『心の出発』発売。

8月20日~8月24日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の大槻ケンヂさん

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8月20日(月)「 人生でいつもビリっ尻(けつ) 」
子供の頃から「"我"とは何ぞや?」と自問自答するような文学的な少年だったという大槻ケンヂさん。とても気弱な性格で、小学校2年生の時に同級生から「明日からイジメてやる」と言われてからはビクビクする毎日。そこは、
『クラスのひょうきん物』というポジションを得ることで何とか上手く乗り切った大槻ケンヂさんでしたが、先生からは「お前は人生でいつもビリっ尻だ!」などと酷い言葉を浴びせられ...。
月曜日は、少年時代の大槻ケンヂさんの頭の中を覗いてみたいと思います。

8月21日(火)「 バンドやろうよ! 」
KISSのライヴに衝撃を受け、また、YMOのスタイルに影響されてロックに目覚めた大槻ケンヂさんは中学生の時に友人7人と「ザ・ドテチンズ」というバンドを結成。当時、担当していた楽器は「ゴミ箱」と「健康タケ踏み器」だった
そうです(笑)
火曜日は、この頃の話を中心に、大槻ケンヂさんの初恋エピソードなどを伺っています。
「ザ・ドテチンズ」のオリジナル曲も披露して下さいました。これは貴重ですよ!

8月22日(水)「 筋肉少女帯 結成 」
高校時代に結成したバンド『筋肉少女帯』には「大槻は音楽のことなど何も分からないから、俺たちは好き勝手なことができる」と、腕に覚えのあるメンバーが続々と集結。演奏レベルも飛躍的にアップし、折からのバンドブームもあり、遂にはメジャーデビューするまでに成長しました。それなのに大槻ケンヂさんは大学の学食で一日に4食もカレーを食べているような怠惰な毎日。
水曜日は、突然のブレイクに戸惑うデビュー当時の大槻ケンヂさんを振り返ります。

8月23日(木)「 表現者としての模索 」
「音楽をやっていながら楽器もできないし楽譜も読めない」というコンプレックスと、「自分の表現手段は音楽だけではない」という考えから、筋肉少女帯がブレイクした後も様々なことにチャレンジしてきた大槻ケンヂさん。
中には執筆活動のように成功を収めたものもありましたが、当然、箸にも棒にも掛からなかったものも多々あったようです。
木曜日は、そのあたりのことを分かりやすい実例を交えながらお話くださいました。

8月24日(金)「 目指すは『弾き語り全国ツアー』 」
2,3年前から"人生後半のモチベーションを保つために"ギターの弾き語りを始めた大槻ケンヂさん。何と、来月には人生初の、夏フェスでの弾き語りライヴも決定したそうです。
最終日は、そのライヴに対する意気込みなどを語っていただきました。
指を動かしながら歌うことができないという理由で、以前にベースヴォーカルを挫折・断念した経験があるらしいのですが、果たして今回は大丈夫なのでしょうか...?

<大槻ケンヂ>
1966年生まれ、東京都出身。'82年、ロックバンド・筋肉少女帯を結成し、ケラ(現ケラリーノ・サンドロヴィッチ)主宰のナゴムレコードからインディーズデビュー。'88年のメジャーデビュー以降は、バンド活動のみならずバラエティ番組の司会を務めるなどマルチタレントとしても開花。執筆活動も精力的に行い、『くるぐる使い』('94年)、『のの子の復讐ジグジグ』('95年)が星雲賞受賞。また、小説『グミ・チョコレート・パイン』が映画化されるなど、他メディアへの広がりも見せている。

8月13日~8月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の太田裕美さん

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8月13日(月)  「太田裕美さんの少女時代」
 太田裕美さんは東京で生まれ、3歳で埼玉県の春日部に引っ越しました。とても広い、庭にトロッコが走るような家で、太田さんはいつも庭で遊んでいました。
 ピアノのレッスンを受けていた太田さんでしたが、練習はほとんどしませんでした。でも音楽は好きで、SP盤を聞いたり、座布団のステージの上で歌ったりしていたのだそうです。
 中学校に通っていた頃はグループサウンズ全盛期、太田裕美さんはザ・タイガースのファンでした。特にジュリー・沢田研二さんが大好きで、これが後の歌手デビューのきっかけにもなります。

8月14日(火)  「芸能界入り、そしてデビュー」
 スクールメイツのオーディションの話を聞き、ジュリーに会えるかもしれないという動機から応募した太田裕美さんは見事合格してスクールメイツの一員になりました。
 その年の暮れのかくし芸大会には応援団として太田さんも出演しました。この番組にはジュリーも出演していたのですが、あこがれの人と同じ場所で同じ空気を吸っている!という事に太田さんは感激したのだそうです。
 その後、ヤング101で活躍した太田さんにソロデビューの話がやってきます。反対する両親にマネージャーさんが掛け合ってくれたのですが、親から示された条件は、春日部の実家から通うということでした。

8月15日(水)「大ヒット曲・木綿のハンカチーフ」
 太田裕美さんは「雨だれ」でレコードデビューしました。そして、「木綿のハンカチーフ」が大ヒットしますが、この曲はもともとアルバム用の曲で、長い曲だなぁとおもいつつレコーディングをしてみたら良い曲だったのでシングルになったのだそうです。100万枚のヒットになりましたが、「およげたいやきくん」を抜くことはできず、オリコンの1位を取ることはできませんでした。
 その後、太田裕美さんはどんどん多忙になって行きますが、相変わらず実家から通っていました。通勤にはかなり苦労したそうですが、「九月の雨」の頃、体調を崩したことで、両親が念願の一人暮らしを認めてくれました。

8月16日(木)「NYでの充電生活、結婚、出産」
 28歳のとき、太田裕美さんは単身ニューヨークに渡ります。ながれに流されている自分を変えたくて、リセットのために仕事を休んでみたかったのだそうです。8ヶ月間滞在しましたが、現地では毎日がフリー、楽しい青春の日々を過ごせたと太田さんは楽しかった思い出を語ってくれました。「私はやっぱり唄が好き」と思えるようになったのも大きな収穫だそうです。
 30歳で結婚しました。プロポーズされて、嫌じゃなかったので、ま、いいかという気持ちで太田さんは結婚しましたが、その後二人の息子さんにも恵まれます。お母さんとしてCMに出るなど、芸能活動の幅も広がりました。

8月17日(金)「これからの太田裕美さん」
 息子さんが独立して夫婦だけの生活になった太田裕美さんですが、昨年6月から犬を飼い始めました。被災した犬の子を引きとったのだそうですが、また子育てがやってきたと太田さんは笑います。
 太田さんは、8年前から"なごみーず"というユニットでも活動しています。元かぐや姫の伊勢正三さん、元ガロの大野真澄さんの3人によるこのユニット、お互いに不思議なぐらいに気が合い、メンバー同士は家族の様な感じでいるのだそうです。
 昨年暮れにはご自身の作詞作曲によるシングル『金平糖』も発表しました。この曲は心の再生を唄っていますが、なんと、曲の完成は震災の前日です。
 最後にこれからの目標を伺ったところ、「これからは余生の様なものだから」と太田さんは話してくれました。ずっと唄を唄っていきたい、これが太田さんの目標だそうです。

<太田裕美>
1955年東京都生まれ。上野学園音楽学校声楽科声楽コース在学中に、スクールメイツのオーディションに合格。74年「雨だれ」でデビュー。「たんぽぽ」「木綿のハンカチーフ」「九月の雨」など立て続けにヒット曲を出す。27歳の時に充電のため米ニューヨークに滞在。帰国後も幅広い音楽活動を経て、85年音楽プロデューサーと結婚。89年に長男、91年に次男を出産し、主婦業を優先していたが、92年から音楽活動を再開し、ライブ活動を中心に活躍。2002年にはNHK朝の連続テレビ小説「さくら」でヒロインの母親役を演じる。06年には22年ぶりのオリジナル・フル・アルバム「始まりは"まごころ"だった。」をリリース。

8月6日~8月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、LiLiCoさん

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8月6日 月曜日 「LiLiCoさん、スウェーデンでの生活」
ちょっと勘違いしてたというスウェーデン人のお父様と
日本人のお母様の間に生まれたLiLiCoさん。
日本でアイドルに憧れ、いつかは日本で歌を歌う仕事に就く!と思い描いていた少女時代。
しかし、ご家庭の事情や同級生からのイジメや差別に大変、苦しんだそうです。
苦労に苦労を重ねるLiLiCoさんの人生がスタートするのでした。

8月7日 火曜日 「苦労は続くよ、どこまでも。」
「歌手になりたい!」と日本へ単身やってきたLiLiCoさん。
日本語をまったく知らないまま、生活をスタートします。
一年も経った頃、静岡県浜松市にあった芸能事務所に所属、
デビューと順調に芸能活動が始まったのですが、
転落への足音がLiLiCoさんのすぐ傍に迫っていたのでした...。

8月8日 水曜日 「LiLiCoさんの転機と、王様のブランチに抜擢!」
壮絶という言葉では、表しきれない様な生活を送っていたLiLiCoさん。
5年間に渡ったホームレス時代が現在のハングリーさに磨きがかかったそうです。
そのおかげで、少しずつ仕事が増えていったLiLiCoさん。
そして、声優の仕事をしていた時に、
「王様のブランチ」の仕事がLiLiCoさんの下に転がり込んできたそうです。

8月9日 木曜日 「映画コメンテーターとしてのLiLiCoさん」
王様のブランチを始め、映画コメンテーターとして活躍されているLiLiCoさん。
明るくもストイックに仕事をこなすLiLiCoさんの
仕事に向き合う姿勢や気をつけている事をお聞きしました。

8月10日 金曜日 「『回遊魚LiLiCo』」
現在のLiLiCoさん、自分自身を客観視するとやりたい事が出来ているが、
まだまだチャレンジしたい事が沢山あるそうです。
そして今年リリースしたパパイヤ鈴木さんとのデュエット曲についてもお聞きしました。
大胆かつ繊細、怒涛の如くトークを繰り広げるLiLiCoさんをお楽しみください。


<LiLiCo>
スウェーデン・ストックホルム生まれ。
スウェーデン人の父と、日本人の母を持つ。
18歳で来日、1989年から芸能活動をスタート。
TBS「王様のブランチ」に映画コメンテーターとして出演。
映画、ファッションのイベントMCやトークショー、ラジオ番組にも多数出演。
声優として映画の吹き替えや、アニメ「サウスパーク」のワガママ身勝手なデブ"カートマン"を演じるなどマルチに活躍する映画コメンテーター!!

7月30日~8月3日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の柳沢慎吾さん

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7月30日 月曜日 落ち着きがない子供時代
1962年、神奈川県小田原市生まれの柳沢さん。実家は青果店「柳沢商店」。小さいころからテレビっ子で、学校でもよくモノマネをしていました。通信簿には、必ず3つ書かれていました。「集中力がない。物事を把握していない。」そしてもう1つはもちろん「落ち着きがない」。高校生の時「ぎんざNOW!」の素人お笑いコーナーに出場するところから、柳沢さんの芸能人生がスタートします。1年で最も暑い、ハイテンションな時期の放送に相応しく、毎日オープニングでハイテンションな持ちネタから入ってくれますので、5日間お楽しみに!

7月31日 火曜日 「俳優デビュー」
人気番組「ぎんざNOW!」の素人お笑いコーナーで勝ち抜き、チャンピオンになった柳沢さん。しかし俳優になりたかった柳沢さんはまず「劇団ひまわり」に所属し、役者の勉強を始めます。デビューは「3年B組金八先生」ですが、柳沢さんを一躍有名にしたのがドラマ「翔んだカップル」。出演者のNG特集や柳沢さんのモノマネコーナーがあったりして、現場も楽しかったそうです。今日は柳沢さんが本格的に俳優でデビューするまでのお話です。

8月1日 水曜日 「ふぞろいの林檎たち」
柳沢さんの代表作といえば、なんといっても1983年のドラマ「ふぞろいの林檎たち」。とても厳しい現場で鍛えられながら、中井貴一さん、時任三郎さん、手塚理美さんら出演者と絆を深めていきました。今でも仲が良いこの「ふぞろい」のメンバーは、みんな茶目っ気たっぷりのいたずら好き。まさに「青春」と言える当時のキラキラしたエピソードを、柳沢さんがたくさん話してくれました。

8月2日 木曜日 「俳優としてさらに成長」
「ふぞろい」が大ヒットしてさらに忙しくなった柳沢さん。ドラマ5本、バラエティ番組やラジオ、さらにミュージカルの主演なども決まりパニックで挫けそうになった時、励ましてくれたのは実のお姉さんでした。そして時代劇「名奉行 遠山の金さん」にレギュラー出演が決まり、主演の松方弘樹さんとの出会いがあります。ときはバブル景気、連日柳沢さんを打ち上げに連れ出す松方さんの豪快っぷりといったら・・・柳沢さんのモノマネでお楽しみ下さい。

8月3日 金曜日 「芸能界の大先輩とのエピソード」
松方さんにも可愛がられた柳沢さんですが、あの若山富三郎さんとも共演しています。最初のうちは大御所若山さんから怒られてばかりでした。「激怒する若山富三郎vs柳沢慎吾」、お腹がよじれるほど笑えるこの名シーンを、もちろん柳沢さん演じるモノマネでお楽しみ下さい。8月1日から公開の映画「マダガスカル3」では声優として出演しています。カンヌでレッドカーペットを逆走したって、本当なんでしょうか?

<柳沢慎吾>
1962年神奈川県生まれ。高校時代、親友とコンビを組んだ「てっちゃんしんちゃん」でテレビ番組「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場に出演し第19代チャンピオンに。その後、「3年B組金八先生」でテレビドラマデビュー。「翔んだカップル」、「ふぞろいの林檎たち」シリーズ、「はね駒」など、多くの人気ドラマに出演。バラエティー番組でも活躍し、「ねるとん紅鯨団」の中でフラれた女性に向かって言った「あばよ!」というセリフで大ブレーク。趣味の高校野球観戦が生きた、一人で選手や監督、テレビの解説者までこなす甲子園ネタ、警視庁の24時間密着番組ドキュメントをネタにする警察ものなど、一人芸も人気。

7月23日~7月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手・俳優の西郷輝彦さん

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7月23日(月) 「少年時代」
鹿児島でお生まれになった西郷さん。
2人のお兄さんの影響を受けてスポーツや音楽をやったそうです。
その二人のお兄さんは亡くなってしまいます。
少年時代のお話です。

7月24日(火) 「音楽活動」
歌手を目指して大阪まで来た西郷さんですが、オーディションに落ちてしまいます。
ところがその後、バンドボーカルを経て、プロダクションに入ることになります。
音楽活動を始められた頃のお話です。

7月25日(水) 「デビューと御三家」
家出してたった2年でデビューすることになった西郷さん。
次々とヒットを飛ばします。
その後、日活の映画出られることになった瞬間が一番うれしかったそうです。
デビュー当時のお話です。

7月26日(木) 「俳優というお仕事」
歌手でデビューして10年目に、西郷さんは10年役者をやってみようと思ったんだそうです。
次々とドラマもヒットしたのですが、森繁久弥さんの演技をみて、まだまだだということに気づかされたんだそうです。
俳優についてのお話です。

7月27日(金) 「プライベートなお話」
休日は亀とたわむれたり、アップルストアに行くという西郷さん。
娘の辺見えみりさんと飲むと泣いてしまうそうです。
今日はプライベートなお話です。


<西郷輝彦>
1964年2月、「君だけを」で歌手デビュー。「17才のこの胸に」で日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も次々とヒット曲を飛ばし、橋幸夫、船木一夫とともに"日本歌謡の御三家"と呼ばれ人気を不動のものに。1973年10月期放送の関西テレビ制作「どてらい男(やつ)」で主演に抜てき、役者としての活動を本格化させる。デビュー以来、レコード・CDで発表した楽曲数は350曲以上、ドラマ出演は100シリーズ以上で延べ250作、映画出演は30作にも及んでいる。

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